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(株)ナイスクラップ【7598】の掲示板 2015/04/08〜

>>23

<only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話"㊶>

本日、日経の「元旦第三部」
 ― ニッポンの文化 /「いま」のルーツをたどって― 

以下はその内容です

 <洋装は「文明国」の象徴>
”「脱亜入欧」のスローガンのもと生活文化の西洋化が進めら
れた明治時代。中でも文明国としての日本を印象づけるために
重視されたのが、洋装の導入だった。
政府は明治4年(1871年)に「散髪脱刀令」を発布して髪型を
自由にし、華族・士族が刀を差さなくてもよいことにした。
同時に官吏や警官など男性の制服に洋装を導入し、翌年には天
皇の礼服が西洋風の軍服と定められた。

女性はなかなか進まなかったが、明治20年に皇后美子が女子の
洋装を奨励する思召書を出したことで華族など上流階級の子女
が洋服を着るようになったのもこの頃。安達吟光「貴女裁縫之
図」(明治20年)はまだ高価なミシンを使って洋服を仕立てる
女性たちを描いている。
一方、高価な洋服はぜいたく品で、庶民は今まで通り和服を着
ることが多かった。とはいえ、全く変化がなかったわけではな
い。
まず髪型や帽子、洋傘、靴などで部分的に洋装が受け入れられ、
和洋折衷の不思議なファッションが広がっていく。  開国後、
様々な国の織物や素材が入ってくると、従来は綿中心で質素な
色合いが中心だった着物も、西洋風の模様や色を使った華やか
な柄に変わっていった。庶民の間でもモスリンや金巾のような
輸入織物が使われるようになったという。”

以上が日経の「ニッポンの文化」からの引用だが、この「日本
の洋装化」については約1年前(2016年12月1日)の日経新聞
の「私の履歴書 ― 夢追い人・高田賢三の時代」を読みはじ
めたのを切っ掛けにその日から投稿を開始した。

さて、本年もその「日本の洋装化=カジュアルウェア」の本質
に迫りたい。

  • >>188


    <only_yasterdayの”日本のカジュアルウェアー誕生秘話"㊷>

    【昭和29/1954年カジュアルはキャジュアルとい呼称だった】

    又、当時はレジャーウェアはリージュアウェアという呼称だっ
    た。このこと含め過去の記述で誤解があるといけないので改め
    て以下のように正確に記したい。

    >NO22  2016年12月1日
    >― 夢追い人・高田賢三の時代 ―
    >日経新聞の「私の履歴書」は今日から高田賢三氏。
    >高田氏が世に出た当初はまだ日本には「カジュアル」とい
     う言葉さえ存在しなかったが・・・・。

    ※正確には当時の日本では「カジュアル」という言葉は東京
    上野本店で銀座支店を開設していた当時(昭和35年/1960年)
    の新興の婦人服店・鈴屋が店内用語として使い始めていた程
    度で、一般の消費者には浸透していなかったという意。

    >NO23  2016年12月7日
    >日本でカジュアルウェアーが誕生したのは今を去ること62年
     前の昭和29年(1954年)のことである。このことはどの服
     飾史に記述されていないが、紛れもない事実ではある。

    ※正確には昭和29年(1954年)以前はカジュアルという言葉
     はレジャーウェアーという言葉で使用されていた。
    (正確には当時はリージュア・ウェアという呼称である。)

    又、レジャーという言葉は大宅壮一氏が世に広めるまではカジ
    ュアルと同意に捉えられていた。
    更に昭和29年当時の服飾辞典には「カジュアル」という呼称は
    「キャジュアル」が正式だとある。 このときの実質の編集責
    任者は石津謙介氏である。