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ソフトバンクグループ(株)【9984】の掲示板 2017/01/11〜2017/01/13

孫氏に多大なる刺激となりますように


坂本龍馬 暗殺5日前の書状に「新国家」の文字

1月13日 13時22分 NHKニュース(後に動画追加)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170113/k10010838151000.html?utm_int=news_contents_news-main_006


坂本龍馬 暗殺5日前の書状に「新国家」の文字
幕末の志士、坂本龍馬が暗殺される5日前に書いたと見られる新政府の人事に関連する書状が新たに見つかりました。これまでに知られている龍馬の書状には見られない「新国家」という文字が記され、専門家は「暗殺される直前まで『新国家』建設のためにまい進していたことがわかる貴重な発見だ」としています。

この書状は、高知県が東京の企画会社に依頼して明治維新の関連資料について調査を進める中で見つかりました。

縦16センチ、横93センチほどの細長い和紙に毛筆で字が記され、坂本龍馬の研究を行っている京都国立博物館の宮川禎一上席研究員らが鑑定して、筆跡や内容から龍馬の直筆で間違いないと判断しました。

鑑定によりますと、書状は、大政奉還のあと新政府の設立を急いでいた龍馬が京都で暗殺される5日前に当たる西暦1867年、慶応3年の11月10日に、福井藩の重臣、中根雪江に宛てて書かれたものだということです。

この中で、龍馬は、新政府の財政担当として適任だと考えていた三岡八郎という福井藩士が京都に来て仕事ができるよう藩内での手続きを依頼するとともに、三岡が来るのが1日遅れれば、その分、「新国家」の財政の成立が遅れてしまうと訴えています。

宮川上席研究員によりますと、龍馬が「新国家」という言葉を使っているのが確認されたのはこれが初めてで、文字どおり江戸幕府が政権を返上した大政奉還のあとの新しい国家という意味と考えられるということです。

宮川上席研究員は「龍馬が暗殺される直前まで、新国家の建設、財政問題の解決にまい進している様子がわかる貴重な発見だ。150年たった今、このような手紙が出てくることに驚いています」と話しています。

龍馬の「新国家」への思いが

今回見つかった書状は、龍馬が新政府の財政担当に適任だと考えていた福井藩士が新政府で仕事ができるようにと藩の重臣に出されたもので、「新国家」という言葉はみずからの思いを訴える中で使われていました。

龍馬は、慶応3年10月15日に江戸幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還が実現すると、土佐藩の重臣、後藤象二郎らとともに新政府の設立に向けた活動を活発に行います。

書状に登場する福井藩士、三岡八郎は藩の財政再建に尽力した人物で、のちに由利公正と名前を改めて、「五箇条の御誓文」の起草に関わったほか、明治新政府で初期のころ金融や財政に携わりました。

龍馬は、新政府の財政担当には三岡が適任だと考えていましたが、藩内の対立から幽閉されていたため、許可がなかなか下りない状況にありました。

宮川上席研究員によりますと、このため龍馬は土佐藩の使者として福井藩に行き、幽閉中の三岡と面会して新政府の財政の在り方について詳しく話を聞いたということです。

このときのいきさつは、3年前に見つかった龍馬が後藤に宛てたと見られる手紙の草稿に詳しく記され、この中で龍馬は、財政を任せられる人材は三岡のほかにはいないと進言しています。

この草稿は、文面にある日付から龍馬が福井から京都に戻った11月5日以降に書かれたと見られます。

一方、今回の書状は、三岡の上司とも言える福井藩の重臣、中根雪江に宛てて11月10日に書かれていました。

この中には、龍馬が福井に行った際に、中根に対して三岡が新政府で仕事をすることを直接願い出ていたことを示す記述があり、「新国家」という言葉は、みずからの思いを書状で改めて訴える中で使われていました。

宮川上席研究員は「『新国家』という言葉に、藩を超えた新たな国を作ろうとする龍馬の理想が表れているし、三岡を新政府の財政担当にしたいと説得する龍馬なりの言葉が書かれていて人柄もよくわかる。理想を掲げるだけではなくて、最後までアクティブに新国家建設のためにまい進したことがよくわかる」と指摘しています。

書状発見のいきさつは

この書状は、高知県から調査を依頼された企画会社が明治維新関連の資料について精査をする中で、コレクターから購入したということです。

大政奉還からことしで150年になることなどに合わせて、高知県内では3月から「志国高知 幕末維新博」が開かれる予定で、県は会場に展示する新資料を探していました。

コレクタ-が書状を入手したいきさつについて、企画会社は「個人情報や入手経路を一切言わないという条件で購入した」として明らかにしていません。

書状は折り畳まれ、封紙に包まれた状態で残されていました。封紙には、龍馬の変名である才谷楳太郎という名前が書かれているほか、「坂本先生の遭難直前の書状で、他見をはばかる」という内容の朱書きのある付箋がついていたということです。

書状とともに封紙が見つかることは珍しいということで、宮川上席研究員は、付箋があったことから厳重に隠され、これまで出回らなかったのではないかとしています。

書状は、高知市に新たにオープンする県立高知城歴史博物館で3月4日から5月7日まで公開される予定です。

記者会見に出席した高知県の尾崎知事は「新国家という言葉から、新しい幕府ではなく国民国家を作るという龍馬の思いが感じられて、とても感動した。この資料を公開して、龍馬の心意気を多くの人に知ってもらいたい」と話していました。

「龍馬が導いてくれた」

13日に東京で開かれた記者会見には、書状に関連する人たちの子孫も出席し、「子孫として誇りに思う」などと話しました。

龍馬の兄の子孫、坂本匡弘さんは「大政奉還150年、龍馬の没後150年という節目に新たな書状が見つかった。これは偶然ではなく龍馬が導いてくれたのではないかと思う。150年の時を経て、子孫が一堂に会することができたことも龍馬のおかげだと思い、感謝しています」と話していました。

書状に登場する三岡八郎の子孫、三岡慶胤さんは「命懸けで明治政府、新国家の基盤作りに貢献したことは、子孫として誇りに思う。資料が見つかったことを機会に八郎のことをもっと知ってほしい」と話していました。

また、龍馬が書状を送った相手、中根雪江の子孫、中根勝行さんは「雪江のことについて、このような晴れがましい場所で話していただいて、子孫として大変うれしいです」と話していました。

ソフトバンクグループ(株)【9984】 孫氏に多大なる刺激となりますように   坂本龍馬 暗殺5日前の書状に「新国家」の文字  1月13日 13時22分 NHKニュース(後に動画追加) http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170113/k10010838151000.html?utm_int=news_contents_news-main_006   坂本龍馬 暗殺5日前の書状に「新国家」の文字 幕末の志士、坂本龍馬が暗殺される5日前に書いたと見られる新政府の人事に関連する書状が新たに見つかりました。これまでに知られている龍馬の書状には見られない「新国家」という文字が記され、専門家は「暗殺される直前まで『新国家』建設のためにまい進していたことがわかる貴重な発見だ」としています。  この書状は、高知県が東京の企画会社に依頼して明治維新の関連資料について調査を進める中で見つかりました。  縦16センチ、横93センチほどの細長い和紙に毛筆で字が記され、坂本龍馬の研究を行っている京都国立博物館の宮川禎一上席研究員らが鑑定して、筆跡や内容から龍馬の直筆で間違いないと判断しました。  鑑定によりますと、書状は、大政奉還のあと新政府の設立を急いでいた龍馬が京都で暗殺される5日前に当たる西暦1867年、慶応3年の11月10日に、福井藩の重臣、中根雪江に宛てて書かれたものだということです。  この中で、龍馬は、新政府の財政担当として適任だと考えていた三岡八郎という福井藩士が京都に来て仕事ができるよう藩内での手続きを依頼するとともに、三岡が来るのが1日遅れれば、その分、「新国家」の財政の成立が遅れてしまうと訴えています。  宮川上席研究員によりますと、龍馬が「新国家」という言葉を使っているのが確認されたのはこれが初めてで、文字どおり江戸幕府が政権を返上した大政奉還のあとの新しい国家という意味と考えられるということです。  宮川上席研究員は「龍馬が暗殺される直前まで、新国家の建設、財政問題の解決にまい進している様子がわかる貴重な発見だ。150年たった今、このような手紙が出てくることに驚いています」と話しています。  龍馬の「新国家」への思いが  今回見つかった書状は、龍馬が新政府の財政担当に適任だと考えていた福井藩士が新政府で仕事ができるようにと藩の重臣に出されたもので、「新国家」という言葉はみずからの思いを訴える中で使われていました。  龍馬は、慶応3年10月15日に江戸幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還が実現すると、土佐藩の重臣、後藤象二郎らとともに新政府の設立に向けた活動を活発に行います。  書状に登場する福井藩士、三岡八郎は藩の財政再建に尽力した人物で、のちに由利公正と名前を改めて、「五箇条の御誓文」の起草に関わったほか、明治新政府で初期のころ金融や財政に携わりました。  龍馬は、新政府の財政担当には三岡が適任だと考えていましたが、藩内の対立から幽閉されていたため、許可がなかなか下りない状況にありました。  宮川上席研究員によりますと、このため龍馬は土佐藩の使者として福井藩に行き、幽閉中の三岡と面会して新政府の財政の在り方について詳しく話を聞いたということです。  このときのいきさつは、3年前に見つかった龍馬が後藤に宛てたと見られる手紙の草稿に詳しく記され、この中で龍馬は、財政を任せられる人材は三岡のほかにはいないと進言しています。  この草稿は、文面にある日付から龍馬が福井から京都に戻った11月5日以降に書かれたと見られます。  一方、今回の書状は、三岡の上司とも言える福井藩の重臣、中根雪江に宛てて11月10日に書かれていました。  この中には、龍馬が福井に行った際に、中根に対して三岡が新政府で仕事をすることを直接願い出ていたことを示す記述があり、「新国家」という言葉は、みずからの思いを書状で改めて訴える中で使われていました。  宮川上席研究員は「『新国家』という言葉に、藩を超えた新たな国を作ろうとする龍馬の理想が表れているし、三岡を新政府の財政担当にしたいと説得する龍馬なりの言葉が書かれていて人柄もよくわかる。理想を掲げるだけではなくて、最後までアクティブに新国家建設のためにまい進したことがよくわかる」と指摘しています。  書状発見のいきさつは  この書状は、高知県から調査を依頼された企画会社が明治維新関連の資料について精査をする中で、コレクターから購入したということです。  大政奉還からことしで150年になることなどに合わせて、高知県内では3月から「志国高知 幕末維新博」が開かれる予定で、県は会場に展示する新資料を探していました。  コレクタ-が書状を入手したいきさつについて、企画会社は「個人情報や入手経路を一切言わないという条件で購入した」として明らかにしていません。  書状は折り畳まれ、封紙に包まれた状態で残されていました。封紙には、龍馬の変名である才谷楳太郎という名前が書かれているほか、「坂本先生の遭難直前の書状で、他見をはばかる」という内容の朱書きのある付箋がついていたということです。  書状とともに封紙が見つかることは珍しいということで、宮川上席研究員は、付箋があったことから厳重に隠され、これまで出回らなかったのではないかとしています。  書状は、高知市に新たにオープンする県立高知城歴史博物館で3月4日から5月7日まで公開される予定です。  記者会見に出席した高知県の尾崎知事は「新国家という言葉から、新しい幕府ではなく国民国家を作るという龍馬の思いが感じられて、とても感動した。この資料を公開して、龍馬の心意気を多くの人に知ってもらいたい」と話していました。  「龍馬が導いてくれた」  13日に東京で開かれた記者会見には、書状に関連する人たちの子孫も出席し、「子孫として誇りに思う」などと話しました。  龍馬の兄の子孫、坂本匡弘さんは「大政奉還150年、龍馬の没後150年という節目に新たな書状が見つかった。これは偶然ではなく龍馬が導いてくれたのではないかと思う。150年の時を経て、子孫が一堂に会することができたことも龍馬のおかげだと思い、感謝しています」と話していました。  書状に登場する三岡八郎の子孫、三岡慶胤さんは「命懸けで明治政府、新国家の基盤作りに貢献したことは、子孫として誇りに思う。資料が見つかったことを機会に八郎のことをもっと知ってほしい」と話していました。  また、龍馬が書状を送った相手、中根雪江の子孫、中根勝行さんは「雪江のことについて、このような晴れがましい場所で話していただいて、子孫として大変うれしいです」と話していました。