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株式と投信の両方で生き残るの掲示板

>>1352

> しかし景時のこの時の報告が頼朝の義経感に繋がっているとは思います。
>
> 場合によっては規律を守らず単独で行動する男
>という見方をするようになったと思いますね。
>
> その後平家を倒してからも後白河法皇から判官の位を授かっています。
> 武家政権の統領を目指す頼朝にとっては部下に位を授けるのも
> 自分の裁量の筈でしたし。

景時はドラマでも義経の問題行動を、早くも報告してますね(笑)
あれは多分創作だと思いますが、景時には「讒言癖」があって、
これが後の失脚の一因になったようです。

> 【狡兎死して走狗烹らる】
> という諺が史記に有りますが
>
> 義経と比較するのが楚漢戦争の折の韓信ですね。
>
> 韓信は明らかに劉邦から疎まれて自分亡き後韓信が武力で漢を倒すかも知れない>という危惧は抱いたいたと思います。

「軍事的才能の持ち主が、敵が居なくなって価値が下がる」
というのはよくあるパターンですね。全国統一後の黒田官兵衛とか。

明智光秀も「今後は自分のような、大きすぎる道具は要らなくなる」
という言葉が司馬先生の小説の中にあったと記憶します。(国盗り物語)

> でも義経は頼朝がもっとよく話し合っていればあのような悲惨なことにはなっていなかったと思いますね。
>
> 少なくとも義経には源氏の世を乱すつもりは無かったと。
> 戦後一度も話し合いの機会も弁解の場も設けなかった。

頼朝を演じた中井貴一が、「あの時代に携帯があったらね」と
右手で電話の形を作りながらコメントしてました(笑)

ただ兄弟というのは、ああいう階層だと本質的に「敵」の要素があって、
歴史上の悲劇は枚挙にいとまが無いですね。

  • >>1378

    >「軍事的才能の持ち主が、敵が居なくなって価値が下がる」
    というのはよくあるパターンですね。全国統一後の黒田官兵衛とか。

    そうそう。
    秀吉がい賃恐れていたのが官兵衛だと言ったので
    それで官兵衛が出家して如水を名乗った話は有名ですね。

    楚漢戦争の折もあれだけ劉邦に尽くした蕭何が疑われないように周囲から悪代官だと言われている噂を流したという程一旦権力の座に就いた後は家臣は権力者からの粛清を恐れていますよね。

    >明智光秀も「今後は自分のような、大きすぎる道具は要らなくなる」
    という言葉が司馬先生の小説の中にあったと記憶します。(国盗り物語)

    権力者から見ればそれも同じ視点だと思いますね。

    >ただ兄弟というのは、ああいう階層だと本質的に「敵」の要素があって、
    歴史上の悲劇は枚挙にいとまが無いですね。

    歴史上の兄弟でも歴史に翻弄された兄弟。

    島津4兄弟は仲がいい兄弟でしたが
    秀吉が九州を攻めて天下を取ってからは
    あの仲のいい兄弟にもひびが入っていますよね。

    関ケ原の折は義久は義弘に援軍を送りませんでした。

    なので関ケ原ではたった義弘には1500人しか戦力が有りませんでしたし。

    それで三成は義弘を頼りにはしていなかったようです。
    その為義弘は全く関ケ原では戦っていませんね。

    帰りに家康の目前を中央突破した話は有名ですが、もし義久がもっと援軍を出していれば関ケ原の展開は違っていましたね。