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NEXT NOTES 韓国KOSPI・ベアETN【2034】の掲示板 2019/11/01〜2020/01/10

最後に高等教育を見てみます。


高等教育は日本帝国の賜物か



 まずは、朝鮮総督府施政年報1939年版から、官立専門学校紹介を見てみましょう。

京城法学専門学校 は初め旧韓国政府法部に属し、司法官養成の目的をもって設置したるを、後、学部所管の法学校に改め、併合後明治44年11月京城専修学校と改称し…
京城医学専門学校 はもと京城医学校と称し、旧韓国政府時代に創立せられしを、併合の後総督府の所管に属し…
京城高等工業学校 新令実施前においては京城工業専門学校と称し、明治39年、旧韓国政府の創設に係る工業伝習所の規模を拡張し…
水原高等農林学校 …本校の前身は勧業模範場付設農林学校にして明治39年9月授業を開始し、併合後は特に農林を主として…
京城高等商業学校 本校は明治40年10月、東洋協会専門学校京城分校の設置を創始とし、…東京本校より分離して…
京城鉱山専門学校 …昭和14年度において京城に鉱山専門学校を設置し…

 6校あるうちの5校は併合前の創立、うち4校は旧韓国政府が作った学校です。
 朝鮮総督府は、概ね韓国政府時代の事業を受け継いでいるだけであることがわかります。

 そして、あちこちで日帝善政説の拠り所にしている人が居るらしき京城帝国大学です。

 まずは右のグラフをご覧ください。
 わずか数十万人オーダーしか居なかった日本人の学生が7割を占め、地元朝鮮の学生は3割前後を行ったりきたりしています。場所は朝鮮だったかもしれませんが、朝鮮の人達のために作ったと言うには苦しい実態です。
 学生数も、当時朝鮮唯一の大学だったことを考えると非常に少ないように思います。学部も法文学部と医学部だけでした(後に理工学部を増設)。

 次に、開学の経緯をふりかえってみましょう。
 趙景達『植民地朝鮮と日本』(岩波新書、2013年)のP71~P73から関連する記述を引用していきます。
 『大学を設立しようという動きは韓末以来あったが、三・一運動以降にわかに教育熱が高まったことを背景に本格的に展開された。』
 『民立大学設立の動きは、一九二〇年六月二六日に創立された朝鮮教育会の活動より始まる。』
 『この組織は二二年一月、総督府から正式に認可されて朝鮮教育協会と改称した。その間、総督府でもそうした朝鮮人の要求を受け入れる方向で動き、それゆえに第二次教育令では大学教育を認めたのである。』
 『法・経・文・理・医・農などを含んだ総合大学の設立が計画され、その基金規模は一〇〇〇万円とされた。』
 『しかし、二三年の関東大震災、同年八月の大洪水、二四年の旱災などの自然災害によって、基金は思いのほか集まらなかった。』
 『こうした動きに対して総督府は、東洋大学の分校設立案を出すなどして沈静化につとめたが、すぐに方向転換して官立大学の設立を急速に進めていった。』

 つまり、
① もともと自前の大学を作ろうとしていたところに総督府が先回りをして京城帝大を作った
② 朝鮮人学生は3割ほどを占めただけで、7割は日本人学生向けの大学になっていた

 ということで、「学問の価値を知らない植民地臣民に大学を賜り啓蒙した」が如くのイメージで京城帝大を語るのは間違いです。
 そもそも占領した責任を取って大学くらい作って当然のところ、民衆の運動に背中を押されてようやく動き出し、地元の私立大学ができる前に大急ぎで官立を一個こさえた、というのが実情です。