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ゆく株の流れは絶えずして、しかも、徒然なるままに……息抜きしながら探し物を…。の掲示板

>>371

仕手
この後再び兜町に復帰。1989年、稲川会会長・石井進と組んで、「バブル期最後の戦い」といわれた、本州製紙(現・王子製紙)の仕手戦を仕掛けた。しかし、石井の病死などで加藤を支える人脈が崩壊、1990年にはバブルも崩壊し、株の熱気も一気に冷めた。さらに、証券大手と総会屋の癒着や証券大手と大蔵省との癒着問題が表面化し、関係者が次々逮捕・辞任し、一層株式市場は冷え込んだ。

その後は影を潜め、一時は「加藤は死亡したのでは」との噂も流れたが、1995年に「新しい風の会」を設立し、大仕手株として有名な兼松日産農林を手掛ける。95年3月の安値389円だった株が、空売りをしっかり引き込み個人や証券会社を巻き込んで、翌1996年7月31日には5,310円まで値上がりし、実に13倍以上にもなった。その後99年には、井筒屋(98年12月安値208円→99年7月高値1,380円)等を手掛けた。

一時糖尿病を患い車椅子生活だったといわれる。2003年には、株式研究の会「泰山」を立ち上げて、証券界に本格復帰した。泰山とは道教の総本山がある中国の山の名。

2015年11月17日、加藤は旧大証一部上場の化学会社・新日本理化の株価を不正につり上げたとして、東京地検特捜部により金融商品取引法違反容疑の疑いで妻、長男(東京大学大学院数理科学研究科博士課程を修了し、当時は大阪大学で数理ファイナンスを専攻する助教であった)とともに逮捕された。逮捕容疑は2012年2月15日から3月2日にかけ、LEDを扱う同社の株式を大量に買い付けたなどとされる。このころ加藤は「般若の会」を主宰し、同会の運営するウェブサイト「時々の鐘の音」において2011年11月頃から「大相場になる雲行きを呈してきた銘柄がある」などと示唆していた。特捜部と証券取引等監視委員会は、同法159条「相場操縦」の他128条「風説の流布」の疑いでも捜査。2011年11月に200円台だった同社株は翌年3月には1297円まで上昇した。2015年12月に起訴され、2016年6月の初公判で加藤は無罪を主張。しかし判決を待たずに加藤が病没したため、公訴棄却となった。妻は不起訴処分となったが、長男は東京地方裁判所で懲役2年6ヶ月執行猶予4年罰金1000万円追徴金約26億6000万円の有罪判決を言い渡され、控訴するも棄却された。

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    病没
    体調が優れず、2016年9月に保釈が認められて以降は入院を続けていたが、2016年12月26日、東京都内の病院で死亡。享年75。

    人物
    加藤は顧客の人望が厚く、医師・社長・政治家などの約800人の大口投資家を糾合し、投資家集団「誠備グループ」を結成した。誠備とは、中国(山東省)発祥の宗教「道院」(注:道院の慈善団体名は「世界紅卍字会」である)に由来する。誠備投資顧問室を中心とする誠備グループ全体の投入総資金量は500億円を下らないとみられ、全体で1億株、時価換算では1000億近いと推測された。

    世界紅卍字会は笹川良一が当時代表を務める宗教団体であった。こことのつながりはヂーゼル機器の仕手戦がきっかけとなっている。当初、この株は平和相互銀行創業者の小宮山英蔵と組んで仕掛けてきたものだが、次第に売抜けが困難になり大量の現物株を抱え込む結果を招いてしまった。そこで、加藤はこの相場の敗戦処理に笹川を利用しようと画策することとなる。その際に、四国88箇所めぐりをするなどして笹川の信用を得ようとしたとされる。その甲斐あってか、最終的にヂーゼル機器株は、一旦は笹川の三男陽平の名義となり、笹川のような右翼の大物に株が握られることを警戒した企業側に引き取られることで、1980年(昭和55年)に終結が図られた。一説にいうと糸山英太郎を一躍有名人にした中山製鋼所の仕手戦で得た利益が、流れているといわれている。

    1980年頃の活動は、小型株に投機する「兜町最強の仕手筋」として注目を集めていた。特に、株式市場を支配する四大証券(野村証券・日興証券・山一證券・大和証券)を目の敵にし、「個人投資家主体の市場へ変えよう」と力説。これら大証券の推奨株で損をした投資家の共感を呼び加藤崇拝者が増大、最盛期には会員が4000人を超えた。会員の大半は株の素人、不況続きで、誰もが一発当てることを考えていた。破天荒な新しい時代の相場師として、「兜町の風雲児」とマスコミも大いにはやし立てた。