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株式と投信の両方で生き残るの掲示板

>>121

Haydéeさん、こんにちは^^

> 私は長州巡りをして、萩から長州藩の参勤交代の宿場町の防府も行きましたし、
> 下関の砲台も見てきました。
>
> なので下関砲撃事件の時はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの
> 4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、
> 結果長州は圧倒的な列国の火力の前に壊滅するんですが、
> それでも討幕の意志は曲げなかった。
>
> この意志の強さと薩摩の討幕の意志の強さには全くの温度差が有りますよね。

吉田松陰とか高杉晋作・久坂玄瑞などの長州の人たちは、
龍馬よりも前に私の中でヒーローでした。
イスラム教徒がメッカに行きたい、というような気分で、
「萩巡礼をしたい」、と思ってました。中一のお正月の頃の話です。
除夜の鐘が鳴る頃、そういう思いの中で庭で竹刀を振ってました(笑)

> なので下関砲撃事件の時はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの
> 4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、
> 結果長州は圧倒的な列国の火力の前に壊滅するんですが、
> それでも討幕の意志は曲げなかった。
>
> この意志の強さと薩摩の討幕の意志の強さには全くの温度差が有りますよね。

八・一八の政変や禁門の変では、薩摩は長州とぶつかる立場ですからね。
ただその時点で長州の志向してたのが「討幕」なのかどうか、
私にはよくわかりません。「攘夷」と「尊王・勤王」は間違いないと思いますが。
(「攘夷」に関しては直接戦争した結果、無理だというのがわかりましたね。)

少なくとも「武力で」幕府・徳川を討つ、という構想は幕末最後の段階、
慶応3年以降の話だと思ってます。