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>>119

遼さん こんにちわ

>「政治的・軍事的同盟」と言えると思いますが、
>この時点ではまだ、「両藩連合して討幕するぞ!」という内容ではありませんね。
>それは幕末ギリギリの段階のことです。

私もそう思います。
薩摩だって本気でこぶしを上げるには資金のこともあるし、
徳川とも縁続きでしたから・・・篤姫が徳川に輿入れしていますし。

そんなに簡単には討幕の決断は出来なかったでしょうね。

このレプリカは本物ですもんね。

私は長州巡りをして、萩から長州藩の参勤交代の宿場町の防府も行きましたし、
下関の砲台も見てきました。

なので下関砲撃事件の時はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、結果長州は圧倒的な列国の火力の前に壊滅するんですが、
それでも討幕の意志は曲げなかった。

この意志の強さと薩摩の討幕の意志の強さには全くの温度差が有りますよね。

だから討幕は長州側から出た。で木戸孝允から薩摩への仲介役は必要だったんでしょうね。

仲介役は必須だったと思います。それは中立と言う意味で土佐藩士だったでしょうね。

薩長同盟を考案したのは土佐脱藩志士の中岡慎太郎、土方久元だったという意見も有る。

でも龍馬も加わっていたというのは事実でしょうね。

  • >>121

    Haydéeさん、こんにちは^^

    > 私は長州巡りをして、萩から長州藩の参勤交代の宿場町の防府も行きましたし、
    > 下関の砲台も見てきました。
    >
    > なので下関砲撃事件の時はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの
    > 4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、
    > 結果長州は圧倒的な列国の火力の前に壊滅するんですが、
    > それでも討幕の意志は曲げなかった。
    >
    > この意志の強さと薩摩の討幕の意志の強さには全くの温度差が有りますよね。

    吉田松陰とか高杉晋作・久坂玄瑞などの長州の人たちは、
    龍馬よりも前に私の中でヒーローでした。
    イスラム教徒がメッカに行きたい、というような気分で、
    「萩巡礼をしたい」、と思ってました。中一のお正月の頃の話です。
    除夜の鐘が鳴る頃、そういう思いの中で庭で竹刀を振ってました(笑)

    > なので下関砲撃事件の時はイギリス,フランス,アメリカ,オランダの
    > 4国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、
    > 結果長州は圧倒的な列国の火力の前に壊滅するんですが、
    > それでも討幕の意志は曲げなかった。
    >
    > この意志の強さと薩摩の討幕の意志の強さには全くの温度差が有りますよね。

    八・一八の政変や禁門の変では、薩摩は長州とぶつかる立場ですからね。
    ただその時点で長州の志向してたのが「討幕」なのかどうか、
    私にはよくわかりません。「攘夷」と「尊王・勤王」は間違いないと思いますが。
    (「攘夷」に関しては直接戦争した結果、無理だというのがわかりましたね。)

    少なくとも「武力で」幕府・徳川を討つ、という構想は幕末最後の段階、
    慶応3年以降の話だと思ってます。