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日本史の掲示板

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    okabe 5月20日 19:20

    具体的には、大陸東北部にいた半農の騎馬民族のうち、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」をかたちづくった、崇神天皇が『古事記』に「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」、『日本書紀』に「ミマキイリヒコイニエノスメラミコト」と記録されているのは、その現れであり、さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出し、そこで数代勢威を振るって巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したものとする[14]。そして、7世紀の唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮の保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝であるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする[15]。

    なお、倭王武が、中国南朝宋に対して、使持節都督倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と上表したが、ここに当時存在しないはずの秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていないことに江上は注目している[14][16]。江上によれば、これは弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、それ以外は、倭王がかつて三韓を支配した事実を主張したものだとみる[14][16]。それが三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」であり、のちに唐王朝は「日本」なる名称を新たに名乗るようになった国家は、辰王朝が倭人を征服して成立した国家とみていたのだとする[14]

  • 024年5月4日 11時44分

    アメリカのバイデン大統領が日本を「外国人嫌い」の国と発言したことについて、日本政府は「正確な理解に基づかない発言があったことは残念だ」とアメリカ側に申し入れました。

    アメリカのバイデン大統領は今月1日、選挙関連のイベントで演説した際、「われわれの経済が成長している理由の1つは、移民を受け入れているからだ」と述べたあとで中国とロシア、インドと並べて「なぜ日本は問題を抱えているのか。それは彼らが外国人嫌いで移民を望んでいないからだ」と発言しました。

    日本政府関係者によりますと、この発言を受けて政府は、3日までに「日本の政策に対する正確な理解に基づかない発言があったことは残念だ」とアメリカ側に申し入れたということです。

    また、日本の考えや政策について説明したとしています。

  • 「日本の国の成立の第一歩は、ヤマト王権の成立ということになります。それは、ちょうど卑弥呼が亡くなった3世紀の中頃です。そして、その後5世紀になると〝倭の五王〟と呼ばれる王が5人続く安定的な統一王権が存在したことがわかっています。

    でも、その間の4世紀に、どのように王権が推移していったのかは文献からはわからないんです。そのため、「空白の4世紀」と呼ばれています。

    また、この空白の4世紀に王陵の場所がすごく変わっています。

    3世紀の古墳は、邪馬台国、あるいは初代ヤマト王権の王の王陵と考えられるものが、奈良盆地の南にあります。そして、5世紀になって倭の五王の時代になると、大阪の平野に移っています。

    では、4世紀はどうかというと、富雄丸山古墳のある奈良盆地の北に王陵が一時出てきます。つまり、4世紀は王陵の所在地が奈良盆地の南から北を経て、大阪平野へと変化する激動の時代なんです。

    そして、富雄丸山古墳の調査によって、ある仮説が考えられるようになりました。

    ヤマト王権の王は、畿内地域の諸勢力の中で、どの派閥が担いだ王なのかということです。王権の成立期は奈良盆地の南部の勢力がリーダーシップを握って王を輩出する立場にいた。しかし、4世紀になると弱体化して、主導権が大阪の平野部の勢力に移っていった。自民党の派閥争いみたいなものです。

    そのとき、大阪の平野部の勢力のために非常に重要な働きをした人物が、富雄丸山古墳に眠っているのではないかというものです。

    というのも、大阪平野に主導権が移ったヤマト王権は、5世紀になると盾形銅鏡に似た形をした革で作った盾や蛇行剣を各地の有力者に分け与えています。それによって連携を強めていきました。

    その一番古いものが富雄丸山古墳から出ているのですから、大阪の平野部のヤマト王権に大きな影響力を与えた人だということが考えられるわけです」

  • *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を

    漢に学び、漢から離れる
     
     和漢の境をまたぐとは、中国(漢)と日本(和)の交流が融合しつつ、しだいに日本独自の表現様式や認知様式や、さらには中世や近世で独特の価値観をつくっていったということです。

     これはおおざっぱには、次のようなことを意味しています。アジア社会では長らく中国が発するものをグローバルスタンダードとしての規範にしてきたのですが、そのグローバルスタンダードに学んだ日本が、奈良朝の『古事記』や『万葉集』の表記や表現において、一挙にローカルな趣向を打ち出し、ついに「仮名」の出現によって、まさにまったく新たな「グローカルな文化様式」や「クレオールな文化様式」を誕生させたということです。しかも、その後はこれを徹底して磨いていった。何を磨いたかというとクレオールな「和漢の境」を磨いていったのです。

    たとえば禅宗は中国からやってきたもので、鎌倉時代には栄西や道元はじっさいに中国に行って修行もしています。しかし、日本に入って各地に禅寺が造営されるようになると、その一角に「枯山水」という岩組みや白砂の庭が出現します。竜安寺や大徳寺が有名ですが、このような庭は中国にはないものです。

     中国の庭園(園林と総称します)は植物も石もわんさとあります。日本の禅庭は最小限の石と植栽だけでつくられ、枯山水にいたっては水を使わずに石だけで水の流れを表現します。つまり引き算がおこっているのです。

     お茶も中国からやってきたものでした。栄西が『喫茶養生記』でその由来を綴っている。しかし日本では、最初こそ中国の喫茶習慣をまねていたのですが、やがて「草庵の茶」という侘び茶の風味や所作に転化していきました。

    侘び茶や草庵の茶に傾いた村田珠光は、短いながらもとても重要な『心の文』という覚え書のなかで、そうした心を「和漢の境をまぎらかす」と述べました。たいへん画期的なテーゼでした。

     古来、日本には中国からさまざまな建具が入ってきました。衝立や板戸です。たいていは頑丈な木でできているのですが、日本はそこから軽い「襖」や「障子」を工夫した。桟を残して和紙をあてがったのです。

     このように、日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。

  • 1867年1月、軍艦アーガスで鹿児島を訪問した際には、島津図書・新納刑部・島津伊勢ら薩摩藩の家老クラスが対応した。その直後、今度は宇和島を訪問し、前藩主で賢侯の1人である伊達宗城と会談して親交を結んだ。横浜への帰途、サトウは兵庫で西郷隆盛と初めて会談し、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を入手した。また、西郷に対して、兵庫開港・長州藩処分問題を利用することによって幕府を追い詰める方策まで提言したのだ。

     さらに、2月7日から約2週間、サトウはミットフォードとともに、将軍による外国公使団の謁見準備の状況を視察し、かつ大坂での政治情報の収集を目的として再び兵庫に赴いた。そして、4月11日にサトウとミットフォードが、15日にパークス夫妻、ウイリス、第9連隊分遣隊他の大遠征隊が大坂に向け出発した。

     4月29日から5月4日にかけて、パークスを始め各国公使は大坂城で新将軍徳川慶喜に謁見したが、その際に慶喜は勅許を獲得していない兵庫開港を確約した。ちなみに、5月には慶喜は勅許を獲得して、最大の外交懸案を解決している。

     サトウは、パークスが慶喜との謁見によって、その見識と資質の高さに魅了され始めたことに危機感を抱き、8月26日、西郷に革命の機会を逸すべきではないと奮起を促した。さらに、サトウはフランスが幕府を援助する場合、イギリスはそれを阻止すると述べ、天皇中心の新国家体制への移行を期待するとの言質を与えている。

    サトウは大坂でパークスと合流後、イギリス軍艦イカルス号水夫殺害事件の調査のため8月30日から土佐へ派遣され、山内容堂や後藤象二郎らと政治体制について議論した。そして、9月12日から1ヶ月間、長崎に滞在し海援隊などを調査したのだ。さらに、長崎で伊藤博文、木戸孝允らと政治情勢を議論している。

     11月10日、徳川慶喜が大政を奉還した。サトウは内戦が不可避であり、「終りの始まりが開始された」と予測した。 1868年(明治1)1月3日、朝廷は王政復古の大号令を発し、慶喜の辞官納地を決定した。7日には、サトウは大坂城へ移動する慶喜に邂逅している。 27日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、本格的に戊辰戦争が始まった。

  •  日米修好通商条約からの日米関係

     安政5年(1858)6月、タウンゼント・ハリス駐日領事によって、日米修好通商条約が結ばれ、通商開始に伴う外国人の居住を認め、ここに日本は文字通り、開国を余儀なくされた。主な内容は、公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、内外貨幣の同種同量通用、関税率の協定、外人居留地の設定と遊歩区域、領事裁判権、アメリカ人の信教の自由などであった。

     なお、この条約は当初、必ずしも不平等ではなかった。例えば、関税自主権について、1類(金銀、居留民の生活必需品)が無税、2類(船舶用品・食料・石炭)が5%、3類(酒類)が20%、圧倒的多数を占めた4類(その他)は20%であった。つまり、通商条約の調印時の輸入税は、おおむね20%と考えることができるのだ。実際に不平等になるのは、一律5%に改められた改税約書(1866)からであった。

    ■ アメリカの日本外交からの脱落

     ところで、ハリスをはじめ、アメリカ外交官はおおむね日本に好意的であった。他の列強と日本の間に入り、調停役を買って出てくれており、幕府の信頼も厚かった。しかし、アメリカは南北戦争(1861~5)によって、アジア外交から脱落する。

     これ以降、日本外交はイギリスの独壇場と化した。また、南北戦争が終わって行き場を失った武器が大量に日本に流入したことも、見逃すことができない事実である。これが、戊辰戦争で使用されることになったのだ。

  • 町田 明広:歴史学者)

    ■ ペリー来航とその目的

     日本とアメリカの最初の大きな接触は、天保8年(1837)に起こったモリソン号事件であった。浦賀奉行所が外国船打払令に従い、砲撃を加えて退去させたのだ。

    ペリー以前は、どの国も軋轢を回避し指示に従って退帆していたが、ペリーは断固たる信念でこれを拒否することを決めていた。

    当時のアメリカは、西部への領土的野心を露わにし、カリフォルニアの空前のゴールドラッシュもあいまって、領土が西海岸にまで達していた。さらに、アメリカでは産業革命が進展しており、特に綿製品の輸出先として、太平洋の先にある大市場の清(中国)への進出を目論んでいた。望厦条約の締結も相まって、その中継基地として、日本の港は必要不可欠。

    最盛期を迎えていた捕鯨産業は、北太平洋から日本沿岸に漁場を求めており、その側面からも薪水や食料の補給が大きな課題となっていた。加えて、操業中に頻発する漂流民の安全確保も、極めて深刻な問題であった。日本は貿易対象国として、当初は重きを置かれていなかったものの、優良な漁場に位置することから、日本の存在はアメリカのみならず、世界的に注目を集めていたのだ。

    ■ 日米和親条約では開国せず

    嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊は浦賀に入港した。長崎への回航要求をかたくなに拒み、江戸湾を北上して測量を強行するなどの示威行動を繰り返した。そのため、なす術がない幕府は、久里浜においてペリーと会見せざるを得なくなったのだ。ここで、日本側は和親と通商を求めるフィルモア大統領からの国書などを受け取った。

    しかし、この段階では一切、外交交渉はなされず、ペリーは1年後の再来を予告して、浦賀入港から9日後には出航した。これは1ヶ月以上の食料や水がなかったこと、清の政情不安から居留民の保護のため、軍艦を差し向ける必要があったことが大きな理由である。
     1年後と言い残して立ち去ったペリーは、嘉永7年1月、半年程度で早くも再来を果たした。そして3月3日、日米和親条約が締結された。主な内容は、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、アメリカへの最恵国待遇。

    アメリカとは国交を樹立したものの、物資の供給(施し)を認めたに過ぎず、鎖国政策を順守したことに他ならない。

  • 大神神社

    この項目では、奈良県桜井市の神社について説明しています。その他の神社については「大神神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
    大神神社

    拝殿(重要文化財)
    所在地 奈良県桜井市三輪1422
    主祭神 大物主大神
    神体 三輪山
    社格等 式内社(名神大)

    大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。

    旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた[1]。中世以降は三輪明神と呼ばれ、両部神道の一つ三輪神道の本拠地であった。明治時代になり「大神神社」と改名された。

    三輪山を神体山とする。


    拝殿前の縄鳥居
    大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる[2]。

    大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を 八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と 名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。(『出雲国造神賀詞』)[3]

    全国各地に大神神社・神神社(三輪神社、美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。

    祭祀
    大神神社は三輪山(三諸山)を神体山として直接、拝するようになっているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。

  •  饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、
    別名を 大物主といい、
    読んで字のごとくに物主の長、天津神国津神双方の軍事の最高責任者であられました。幼名は布留(フル)です。

     日本国を最初に統一した方であり、最後の天照大神(アマテラスオオミカミ)でもあります。

     また、1400年の長きに渡って三輪山平等寺(ミワサンビョウドウジ)で本尊として祀られている仏でもあります。

    天理の石上神宮では、第11代垂仁天皇の頃から 
    饒速日命の8代孫の物部十千根大連(モノノベノトヲチネノオオムラジ)によって祀られています。

     饒速日命がお生まれになったのは、桜井市の笠であり、成人後は九州を治めに行ったり、鳥海山のほうへおもむきになられたりとご苦労多い方であられました。

    東北に御判した部下に、阿遅鋤高彦根(アヂスキタカヒコネ)といい、大国主の息子で迦毛大神(カモノオオミカミ)と呼ばれる人がおられます。その人は京都府下鴨神社の祭神賀茂建角身神であられます。

     饒速日命の素性は、思兼命と天照大神大日孁貴(オオヒルメムチ)の皇子、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)と栲幡千千姫命(タクチハタチヂヒメノミコト)の長男で皇子であられます。

    弟は邇邇芸命(ニニギノミコト)といって、九州に天孫降臨した人物で、饒速日命が治めた九州に赴任して大山祇神の娘鹿葦津姫(カシツヒメ)と結婚して、九州を治めておられます。

    邇邇芸命の孫の佐怒彦(サヌヒコ)は饒速日命の孫娘の伊須気余理姫(イスケヨリヒメ)と結婚し、後世に初代天皇「神武天皇」と呼ばれています。


    速日命の皇后は、活玉依姫(イクタマヨリヒメ)といい三嶋湟咋(ミシマミゾクイ)の娘であります。三嶋湟咋は元々の奈良地方の支配者でありました。また、この頃の奈良の三輪山の主は三嶋湟咋の息子の登美明国(トビノアキクニ)といって俗には長髄彦と言われております。

    元来この国では、三輪山を所有した者が国を統理する習わしでありますが、三輪山は垂仁天皇の御代、出雲教の侵攻に遭遇し、鏡を志摩郡磯部町千田(後に持統天皇の御代に伊勢神宮内宮建造)に、皇祖饒速日命の御霊を石上神宮に移しています。

  • 蘇我氏との関係 
    蘇我氏は葛城氏の政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係(4世紀から5世紀にかけて、葛城には葛城襲津彦が捕虜とした渡来人が居住しており製鉄作業に従事していた)、また大王家との婚姻関係などを継承したと考えられる。葛城氏は5世紀には皇后や妃、高い地位に上る人物を輩出し、対朝鮮半島関係(軍事行動と外交交渉)を担っていたという伝承を持っていた。これらが全て史実を伝えたものとは言えないが、葛城地方を地盤とした集団が5世紀の頃に大きな勢力を持っていたことは、複数の古墳や豪族居館の遺跡から容易に推測できる[8]。しかし、玉田宿禰が允恭天皇に、円大臣が雄略天皇に滅ぼされている上に、6世紀において、5世紀に活躍した葛城氏の末裔と見られる人物は葛城烏那羅のみで、ほとんど姿を見せなくなってしまっている。考古学的見地からも、5世紀後半の新庄屋敷山古墳を最後として葛城地域に大型前方後円墳の築造は見られなくなる[8]。持統天皇が691年に「其の祖等の墓記」を上進するように命じ、これが『日本書紀』の原史料になったのであるが、葛城氏はこの中に含まれていない。それにもかかわらずら葛城氏の氏族伝承や王統譜が『日本書紀』に記されているのは、葛城氏の後裔が存在していて、彼らが史料を提供したのであると推測でき、その集団こそが蘇我氏であったと考えられる[8]。そして、葛城氏として残った者が僅かであったので、それらは顕著な活動を残すことができず、あたかも葛城氏が没落したかのように見えたのであると考えられる[8]。

    なお、『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子が葛城寺を「蘇我葛木臣」に賜ったとされている。

  • 1853年のことでした。ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、江戸湾入り口の浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市浦賀)に来航したのです。それまで交流のあった外国といえばおもには日本海側の朝鮮や中国であった日本にとって、反対側の太平洋から突如、異国の船が出現したことは衝撃的でし

    とくにペリーは日本人が潜在的にもっている技術力の高さを見いだし、こう述べています。

     「日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。そして彼等の道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮するとき、彼等の手工業上の技術の完全なことはすばらしいもののようである。

    日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。

    他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速さによって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。

    日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」

  • 延喜式で格付けされる名神大社で勅使がお詣りになる最高位の神社が5社もある。
    火雷神社、一言主神社、鴨都波神社、髙天彦神社、高鴨神社、大歳神社であり、これに匹敵する平野東南部では大神神社、穴師神社、大国魂神社、石上神社、の4社しかない。
    葛城山麓と三輪山麓、大和の中で東と西に隔たった二つの山麓にだけ最高の社格を持った古い神社が集中している。

  • 葛城の豪族 
    葛城地方の古代豪族は 鴨氏と葛城氏それに尾張氏であるが
    葛城氏の後裔には巨勢氏や平群・蘇我氏などがあります。

    鴨氏は葛城山麓の高天原に居たが弥生中期頃に平坦地に降りて水稲農耕を営み、田の神である事代主神を祀った。これが高鴨神社や鴨都波神社であり、一般的には鴨社と呼ぶ。ちなみに鴨族は神武天皇東征の案内をしたヤタガラス(鴨建津身命)の子孫であり、鴨王の系統が神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となりました。なお鴨都波神社を中心とした地域には弥生時代の大規模集落遺跡が広がっています。

    葛城氏は金剛山の中腹が元の居住地で経済軍事力に優れ、頭角を現した集団が葛城族を名乗ったのではないかとされています。古墳時代以降葛城地方に本拠を置いていた有力な在地豪族で、葛城族の本家は葛城襲津彦です。襲津彦はまた武内宿禰の後裔であるともいわれ、4世紀には実在した人物で神宮皇后の将軍として新羅討伐に朝鮮半島へ派遣されたことが記録に残っています。

    襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となり、履中、反正、允恭天皇を生みその後も皇室との婚姻関係を持つなど密接な関係にあったが、雄略天皇により滅ぼされたとされています。

  • 葛城高顙姫(かずらきのたかぬかひめ)は新羅からの渡来人・天之日矛(あめのひぼこ)の子孫とされるが、その系譜に名を連ねる田道間守(たじまもり)といえば、

    崇神天皇で、葛城王朝を滅ぼして新王朝を打ち立てたことで、迦具夜比売命が苦境に立たされたという。


     「崇神天皇は開化天皇の御子ではなく、旧王朝を滅ぼして系譜を無理やり繋げた」

    第10代崇神天皇に始まる大和朝廷つまり三輪王朝より前にこれに先行する王朝が葛城山と大和平野の西南部に存在したのではないかという仮説

    神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝に始祖とし三輪王朝に先行して葛城王朝が存在したとしました。
    神武から開化に至る9代の天皇の皇居と陵墓は大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中していて、崇神に始まる大和朝廷初期(三輪王朝)の皇居と陵墓が平野の東南部にあったのとは対照的な関係を持つ

  • 1/5(金)

    「日本の歴史を動かした15人」というアンケート。紫式部(むらさきしきぶ)は30位台後半に出てきた記憶がある、ベスト5は織田信長、坂本龍馬、徳川家康、豊臣秀吉、源頼朝の順

    京都市北区紫野にある紫式部墓所(=墓の1つ)の横にはなぜか、「閻魔大王と昵懇(じっこん)の間柄?」という小野篁(おの の たかむら=平安時代初期の公家、文人)の墓がある。
    さて、紫式部。もちろん、分かっていることもある。

    まず、彼女の両親。父は藤原為時(ふじわら の ためとき)で、現在の文科省に相当する式部省の役人だった。母は藤原為信(ふじわら の ためのぶ)の娘。「紫式部」という呼び名は、いわゆる「女房名(=貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称)」で本名ではない。そして、本名は不詳だ。女房名も、なぜ「紫」なのかは未詳。式部は、父の職業からとった説が有力である。

    「分かっていること」は他にもある。

    生まれ育った家は、上京区の廬山寺(ろざんじ)のあった場所。夫は藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)。彼には紫式部の他に、妻4人、子は5人いた。さらに生母不詳の子供が2人。しかも、宣孝の年は父とほぼ同じ、つまり彼女の20歳以上年上!

    まあ、当時の倫理観、夫婦観、結婚観は今とはよっぽど違うけれども、「それにしたって」である。

    でも、結局は宣孝の求婚攻勢に紫式部は結婚を決意した。2人の間には子供が1人、名は賢子(けんし/かたいこ)。のちの、歌人・大弐三位(だいにのさんみ)である。夫はその後、流行り病に罹ってあっけなく死去した。紫式部の結婚生活は3年足らずで終わってしまう(=これらについても、当連載④で詳しく)。

    彼女は、男友達との交流は少なかったようである。有名な彼女の歌…《めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな》も、相手は女友達という。

    やがて、藤原道長(ふじわら の みちなが)が強大な政治権力を手にすると、その「ひき」もあって、彼女は道長の長女で、のちの一条天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后の別称)・彰子(あきこ/しょうし)の女御(にょうご=天皇の寝所に侍した高位の女官)として宮中に入り、彰子の家庭教師のような存在で宮廷生活を送るのだが

  • 崇神天皇(すじんてんのう、
    祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。

    即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。

    即位4年、詔を発して万世一系を謳った。

    即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に
    天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。
    天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[3][注 2]。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 3]に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

    即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。

    するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、

    大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという神託を受けた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。

    三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。

  • 久延彦(くえひこ)神社(桜井市 三輪)

      三輪山の麓、大神神社にほど近い場所に鎮座し、本殿は春日造の桧皮葺で久延毘古命(くえびこのみこと)をお祀りしています。一般には「くえひこさん」として親しまれ、県内はもとより全国から受験生や学生等、お参りする人が絶えない神社で境内にはたくさんの合格祈願等の絵馬がかかっています.


     ところで久延毘古命の正体ですが、なんと案山子(かかし)です。ただ立っていることしか出来ない案山子ですが、常に世の中を見渡している事から、なんでも知っている神様として信仰され、古事記にもこんな逸話が残っています。 大国主命の国作りをたくさんの神々が手伝いますが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかったのです。

    しかしこの久延毘古命だけは、その神様が少彦名命であることを知っていて、大国主命にお教えになられました。古事記に「足はあるかねど天下の事を、尽に知れる神と記されている神様」と記されている知恵の神様です。

     社殿前の展望台は、三輪の大鳥居、大和三山、二上山などが一望できる、ビューポイントでもあります。

  • くてひこじんじゃ


    御祭神
    久延毘古神 天目一箇神 火産霊神

    鎮座地
    鹿島郡中能登町久江ヘ66

    氏子区域
    中能登町
    久江久江原山分

    由緒

    久延毘古神は、古事記に「この神は山田の 曽當騰(案山子)のこと足は歩かねど居ながら にして天下のことを知れる神なり」と書かれてあり博識の神で田や山を司る神なり。
    天目一箇神は、古典に「天岩戸に隠られた 天照大神をお迎えする祭祀に献奉りし鏡の元鉄を鋳造し 自も刀斧鉄鐸を作り献奉りし」 と書かれてあり、鉄の器具を造り司る神なり。 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。

    火産霊神は、軻遇突智命とも称え火を掌り、護り給う神で、この神の恩頼に依り火の禍を 避け火を防ぎ鎮めんと祀りし神なり。

    久延毘古神、天目一箇神は、最初に久江に定着した住民の五穀豊穣祈願神として祀られ、久氐比古神社と称した。

    平安時代の延喜式に「小社に列し祈年の国幣に預る」と記される古社である。火産霊神は時の推移と共に住民の過半数の守護神として祀られ 愛宕神社と称し、江戸末期に久氐比古神社に移転合祀す。明治三十一年県社に列し 当時、久江に在りし、貴船社、諏訪社、櫛社の三社を境内社とし、現在は社務所内に奉斎す。
    特殊神事である春祭の神賑行事「オケラ餅神事」は 醍醐天皇朝規の遺格を現今に伝えるものと現在も盛大に執行されている。

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