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日本史の掲示板

1/5(金)

「日本の歴史を動かした15人」というアンケート。紫式部(むらさきしきぶ)は30位台後半に出てきた記憶がある、ベスト5は織田信長、坂本龍馬、徳川家康、豊臣秀吉、源頼朝の順

京都市北区紫野にある紫式部墓所(=墓の1つ)の横にはなぜか、「閻魔大王と昵懇(じっこん)の間柄?」という小野篁(おの の たかむら=平安時代初期の公家、文人)の墓がある。
さて、紫式部。もちろん、分かっていることもある。

まず、彼女の両親。父は藤原為時(ふじわら の ためとき)で、現在の文科省に相当する式部省の役人だった。母は藤原為信(ふじわら の ためのぶ)の娘。「紫式部」という呼び名は、いわゆる「女房名(=貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称)」で本名ではない。そして、本名は不詳だ。女房名も、なぜ「紫」なのかは未詳。式部は、父の職業からとった説が有力である。

「分かっていること」は他にもある。

生まれ育った家は、上京区の廬山寺(ろざんじ)のあった場所。夫は藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)。彼には紫式部の他に、妻4人、子は5人いた。さらに生母不詳の子供が2人。しかも、宣孝の年は父とほぼ同じ、つまり彼女の20歳以上年上!

まあ、当時の倫理観、夫婦観、結婚観は今とはよっぽど違うけれども、「それにしたって」である。

でも、結局は宣孝の求婚攻勢に紫式部は結婚を決意した。2人の間には子供が1人、名は賢子(けんし/かたいこ)。のちの、歌人・大弐三位(だいにのさんみ)である。夫はその後、流行り病に罹ってあっけなく死去した。紫式部の結婚生活は3年足らずで終わってしまう(=これらについても、当連載④で詳しく)。

彼女は、男友達との交流は少なかったようである。有名な彼女の歌…《めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな》も、相手は女友達という。

やがて、藤原道長(ふじわら の みちなが)が強大な政治権力を手にすると、その「ひき」もあって、彼女は道長の長女で、のちの一条天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后の別称)・彰子(あきこ/しょうし)の女御(にょうご=天皇の寝所に侍した高位の女官)として宮中に入り、彰子の家庭教師のような存在で宮廷生活を送るのだが