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日本史の掲示板

町田 明広:歴史学者)

■ ペリー来航とその目的

 日本とアメリカの最初の大きな接触は、天保8年(1837)に起こったモリソン号事件であった。浦賀奉行所が外国船打払令に従い、砲撃を加えて退去させたのだ。

ペリー以前は、どの国も軋轢を回避し指示に従って退帆していたが、ペリーは断固たる信念でこれを拒否することを決めていた。

当時のアメリカは、西部への領土的野心を露わにし、カリフォルニアの空前のゴールドラッシュもあいまって、領土が西海岸にまで達していた。さらに、アメリカでは産業革命が進展しており、特に綿製品の輸出先として、太平洋の先にある大市場の清(中国)への進出を目論んでいた。望厦条約の締結も相まって、その中継基地として、日本の港は必要不可欠。

最盛期を迎えていた捕鯨産業は、北太平洋から日本沿岸に漁場を求めており、その側面からも薪水や食料の補給が大きな課題となっていた。加えて、操業中に頻発する漂流民の安全確保も、極めて深刻な問題であった。日本は貿易対象国として、当初は重きを置かれていなかったものの、優良な漁場に位置することから、日本の存在はアメリカのみならず、世界的に注目を集めていたのだ。

■ 日米和親条約では開国せず

嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊は浦賀に入港した。長崎への回航要求をかたくなに拒み、江戸湾を北上して測量を強行するなどの示威行動を繰り返した。そのため、なす術がない幕府は、久里浜においてペリーと会見せざるを得なくなったのだ。ここで、日本側は和親と通商を求めるフィルモア大統領からの国書などを受け取った。

しかし、この段階では一切、外交交渉はなされず、ペリーは1年後の再来を予告して、浦賀入港から9日後には出航した。これは1ヶ月以上の食料や水がなかったこと、清の政情不安から居留民の保護のため、軍艦を差し向ける必要があったことが大きな理由である。
 1年後と言い残して立ち去ったペリーは、嘉永7年1月、半年程度で早くも再来を果たした。そして3月3日、日米和親条約が締結された。主な内容は、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、アメリカへの最恵国待遇。

アメリカとは国交を樹立したものの、物資の供給(施し)を認めたに過ぎず、鎖国政策を順守したことに他ならない。