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日本史の掲示板

具体的には、大陸東北部にいた半農の騎馬民族のうち、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」をかたちづくった、崇神天皇が『古事記』に「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」、『日本書紀』に「ミマキイリヒコイニエノスメラミコト」と記録されているのは、その現れであり、さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出し、そこで数代勢威を振るって巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したものとする[14]。そして、7世紀の唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮の保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝であるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする[15]。

なお、倭王武が、中国南朝宋に対して、使持節都督倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と上表したが、ここに当時存在しないはずの秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていないことに江上は注目している[14][16]。江上によれば、これは弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、それ以外は、倭王がかつて三韓を支配した事実を主張したものだとみる[14][16]。それが三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」であり、のちに唐王朝は「日本」なる名称を新たに名乗るようになった国家は、辰王朝が倭人を征服して成立した国家とみていたのだとする[14]