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日本史の掲示板

蘇我氏との関係 
蘇我氏は葛城氏の政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係(4世紀から5世紀にかけて、葛城には葛城襲津彦が捕虜とした渡来人が居住しており製鉄作業に従事していた)、また大王家との婚姻関係などを継承したと考えられる。葛城氏は5世紀には皇后や妃、高い地位に上る人物を輩出し、対朝鮮半島関係(軍事行動と外交交渉)を担っていたという伝承を持っていた。これらが全て史実を伝えたものとは言えないが、葛城地方を地盤とした集団が5世紀の頃に大きな勢力を持っていたことは、複数の古墳や豪族居館の遺跡から容易に推測できる[8]。しかし、玉田宿禰が允恭天皇に、円大臣が雄略天皇に滅ぼされている上に、6世紀において、5世紀に活躍した葛城氏の末裔と見られる人物は葛城烏那羅のみで、ほとんど姿を見せなくなってしまっている。考古学的見地からも、5世紀後半の新庄屋敷山古墳を最後として葛城地域に大型前方後円墳の築造は見られなくなる[8]。持統天皇が691年に「其の祖等の墓記」を上進するように命じ、これが『日本書紀』の原史料になったのであるが、葛城氏はこの中に含まれていない。それにもかかわらずら葛城氏の氏族伝承や王統譜が『日本書紀』に記されているのは、葛城氏の後裔が存在していて、彼らが史料を提供したのであると推測でき、その集団こそが蘇我氏であったと考えられる[8]。そして、葛城氏として残った者が僅かであったので、それらは顕著な活動を残すことができず、あたかも葛城氏が没落したかのように見えたのであると考えられる[8]。

なお、『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子が葛城寺を「蘇我葛木臣」に賜ったとされている。