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株と小説創作の掲示板

 常神半島奇譚

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 初めて京へ往復した時はとても無理だと思ったが、四~五回通ううちに少しずつ慣れてきて、なんとか運び屋としてやっていける自信もつき、少し現金収入も得たので、これまで世話になった礼を言うため、弥助宅に帰って来た。十里という平地の距離は京までの往復と比べると何でもない距離だった。お土産として、弥助には伏見の酒、世津には反物、子供たちには紙と筆に墨と硯を買って背負って持ってきた。
 子供たちの勉強は中断したままだったが、時折帰って来た時に、まとめて教えることにした。魚史郎にとっては、令和の新貝村の自宅へ戻る方法は無く、弥助の家を訪ねる事が自分の実家へ里帰りするような気分だった。
 弥助たちも、自分たちが追い出したわけでは無いが、魚史郎が運び屋の職を得たことを自分の事のように喜んでくれた。
 一人前の運び屋になって、魚史郎はようやく、この時代の人間として生きていく覚悟が出来た。今さらちょんまげ頭を振り立ててでも、令和の時代へ戻れるものなら戻りたいが、全くその手段も見つけられず、ただくよくよ悩んでばかりしていても仕方がないので、与えられた運命を受け入れるしか無かったのである。忙しくしていれば家族や友人と逢えない寂しさを紛らわすことも出来、こちらで出合った人たちと、楽しくやって行けそうな気もしてきた。 
 魚史郎は三十六歳だった。もう数年遅く、四十歳を過ぎていたらこんな仕事につくことは出来なかったであろう。この仕事がこれから十二年、四十八歳まで続くことになる。
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 魚史郎が鯖の運び屋になって四年目、享保十年に若い男が加わった。文次という男を魚史郎としては初めて、先輩として指導し、育てることになった。これまでは新しい運び屋の希望者には、古い先輩の運び屋が指導していたのだが、魚史郎にも初めてその役が回って来たのである。
 文次は二十歳、元気盛りである。一回目と二回目はさすがに疲れたようだが、三回目にはもう、魚史郎に遅れることなく、十貫目の荷を背負って付いて歩けるようになった。
 文次は若いがしっかりした、真面目な男だった。二年経って二十二歳になった時、魚史郎が弥助宅に行く時、文次も一緒に連れて行くことにした。十六歳になる弥助の長女たみの縁談のことを弥助から頼まれていたからだ。
 文次の人柄については前もって伝えてあったので弥助夫婦には異存は無い。当事者同士には何も伝えてなかったが、一目見て、たみは、逞しい文次の魅力に引き込まれてしまったようだ。そして勿論文次は、お茶を出すたみの、匂い立つような姿を見るなり、顔を赤らめてまともには口も聞けないほどだった。
 弥助夫婦には異存は無く、当人同士も気にいっている様子だったので、庄右衛門に報告して文次とたみは所帯を持つことになった。弥助夫婦にはたみを嫁に出す資金は無い。世話になった魚史郎が文次と共に京までたみを連れて行き、着物を誂えてきた。身寄りのない文次には鯖の運び屋になってから蓄えた金が少しあったので箪笥、長持、行李などを誂えたが、その他の祝儀の掛かりのほとんどは庄右衛門が祝い代わりに賄ってくれることになった。
 そして弥助一家のほかには運び屋仲間や漁師たちのうち、主な者が呼ばれて、庄右衛門宅の大広間で披露宴が行われた。もちろん媒酌人は庄右衛門夫婦である。
 「文次、おめぇはいったい、いつの間に、どこでこんな別嬪さんを見つけてきたんや」
 「はぁ、魚史郎兄ぃの里の娘でごぜぇやす。三月ほど前に兄ぃと一緒に貝村の兄ぃの里に行って・・・」
 「ほう、そうか、こんな別嬪さんを嫁さんに貰うて、おめぇは果報もんやのう、これからも仕事に励めよ」
 「ところで、おめぇはいつも京へ行ったり帰ったりやが、おめぇが留守の間、たみどんはどうするつもりかのぉ、なぁも当てがないんやったら、うちで働かんかの」
 それを聞いた魚史郎も
 「親方、それはおおきに有難うごぜぇやす。たみは読み書きそろばんも出来るさけ、きっと、お役にたつと思いやす。なあ、たみも異存はねえな」
 「おっ、読み書きが出来るんか、それは有り難い。うらは忙しゅうて、大福帳を手伝ってくれる人がもう一人か二人おらんかと探しておったのじゃ。誰にでも任せるっちゅう訳にもいかんしな」
 こうして、たみは網元、庄右衛門の家で働くことになった。たみの両親、弥助とせつはすっかり魚史郎を信頼していたので事の成り行きには一切口を出さず、安心して見守っているだけだった。
 魚史郎も文次もそれまでは庄右衛門の用意した寮に住み込んでいたのだが、所帯を持つことになって文次とたみは近くの長屋を借りて暮らすことになった。すぐ近くなのでたみはそこから通える。
 庄右衛門のところには大小八隻の船があり四十人余りの船乗りが雇われていた。そして魚史郎たち運び人も含め、ほとんどは通いだが、十三~四人ほどは魚史郎たちの住む寮に住み、そういう男たちの世話をする女子衆(おなごし)も四~五人ほどいた。総勢五十人余りとなる雇い人全員の勤務状況を記録し、誰がどれだけ働いたか、どの船がどれだけ魚を獲って来たか、そして魚史郎たちの仕事についても誰がどれだけ鯖を運んでどれだけの売上げがあったかを管理し、記録するのが、たみが加わって四人となった帳簿係の仕事だった。
 魚史郎が令和から享保へやって来て六年経っていた。ときどき思い出すことはあったが、もう、令和の時代へ戻ることは全く不可能だと思われた。だが、この時代も住み慣れてくるとそれなりに楽しいこともあり、初めのころのようにどうしても帰りたいと、強く思うことも無くなってきた。運び屋としての仕事にもすっかり慣れて、京の町へ行った時には街をぶらぶら歩くという楽しみも覚えた。