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株と小説創作

  • 128
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  • 2022/06/29 06:03
  • rss

掲示板のコメントはすべて投稿者の個人的な判断を表すものであり、
当社が投資の勧誘を目的としているものではありません。

  •  お早うございます。

     今日と明日は予定通り金沢へ行きます。
     予約したときは、梅雨がこんなに早く明けてしまうとは思わず、こんなに暑くなるとも思っていなかったので、ちょっとがっかりです。

     でもまあ、行き先は博物館、美術館、記念館など、冷房の効いたところばかりなので、こんな時期、かえって空いていて、見学しやすいかも知れません。

     金沢まで1時間ちょっとで行けますが、2時間かかってもいいので、ゆっくり、運転していきます。

  • >>125


    > そちらからだと1時間前後で行けるのですか?
    > 車の運転大丈夫ですか。

     ゆっくり走れば、たぶん大丈夫だと思います。田舎では車が無いといざりになったようなもので、何処へも行けません。
     統計では車に乗らなくなった人は寿命が短くなると、聞いたような気がします。

     旅のいちばんの目的は、高橋治の「風の盆恋歌」の中に出て来る「銭屋五兵衛記念館」へ行く事です。

  •  今日は6月28日、福井地震のあった日です。

     1948年の今日、マグニチュード7.1の大地震が発生しました。
     福井空襲で市内の大部分が焼け野原になってから3年経って、ようやく街が復興の歩みを進め始めたばかりという時に、この未曾有の大地震が発生して、街は再び壊滅状態になりました。
     
     当時小学校1年生だった私は学校から帰ってきて、近所の材木置き場で遊んでいたところ、突然その材木がガラガラと崩れて来て、びっくりして私は自宅まで跳んで帰りました。

     あれから74年、今は建物が丈夫になりましたから、同規模の地震が起きたとしても倒壊する家は少ないでしょうが、戦後すぐ、急いで建てたバラック住宅ばかりだったので、ほとんどの家が倒れ、各地で火災が発生して、多くの人が亡くなり、街は阿鼻叫喚の様相でした。

  • おはようございます。
    >明日と明後日、金沢まで行きます。

    そちらからだと1時間前後で行けるのですか?
    車の運転大丈夫ですか。
    私一ヶ月ほど前、バイクで一時停止違反で捕まってしいました(笑)
    20年以上なかったのですがね。罰金6千円それで終わる予定でした。
    ところがハガキが来ましたね後期高齢者講習をするというのです。
    行かなかれば取り消し、したかなく行って来ました。
    場所は最寄りの警察署ではなく県免許証センター。
    車で1時間50分も掛かるので一日かかりでしたよ。
    次回更新は3年後78歳、80歳超えたら返納しようかと思ったのですが
    踏ん切りかつかない年齢困ってます。

  •  お早うございます。

     今日も相変わらず暑くなりそうです。
     私たちはどこへも行かず、朝、畑の野菜に水をやって、あとは家でじっとしているだけですが、こんな日でも現役世代の人たちは仕事に出掛けます。
     ご苦労様です。

     明日と明後日、金沢まで行きます。車で行って、博物館、美術館など冷房の効いたところへ立ち寄って、ホテルで食事をして寝るだけですが、退屈極まりない日常から脱出できて、気分転換になります。

  • おはようございます!

    まだ6月だというのに猛暑、昨日は38℃超え、先が思いやられます。
    エアコンが昨年辺りから調子が悪く代え替えることにしました。
    幸い申し込んだのが先週で明日取り付けます。
    急な猛暑で注文が多く、今申し込んでも一ヶ月先だそうです。
    昼の暑さが我慢出来ても熱帯夜は大変、冷やす過ぎると風邪を引くし難しいところです。

  •  お早うございます。

     本格的な選挙活動がスタートしましたが、どの政党の政策を聞いても、この人たちに安心して任せられそうだという政党が見当たりません。

     どんな活躍をしてくれるか未知数ですが、若い新人候補に1票を投じたいと思います。

  •  お早うございます。

     毎日暑いですね。6月末のこの時期というのは、7,8月の猛暑日に比べるとまだ気温は少しは低いのでしょうが、体が慣れていないので、ぐったりしてしまいます。

  • 今日は茨城に行って来ました。
    義父の13回忌で、いやあ暑いですね。
    今日は33℃、明日は38℃だそうですよ。
    現在の使って居るリビングのエアコンは冷えが悪く取り換えることにしました。
    確か梅雨入りしている筈ですが、この先一周間雨がふりそうにありません。
    猛暑の毎日になるかも。

  • 中小路さん教えてくれてありがとうございます。
    ただ原稿用紙に印刷するのが面倒で(笑)
    幸いカクワヨムは登録さえしておけば応募出来ます。

    此処から直接出来ると思います。
    https://kakuyomu.jp/my/works/16817139555840146410/episodes/16817139555840454382

  •  ここを小説創作に関心のある人たちの語らいの場にしたいと思っています。

     小説創作に関心のある人のご参加をお待ちしています。とりあえず、雑談でも結構ですので、よろしく・・・・・


  •  こんにちわ。

     毎日暑い日が続いていますが、まだ、エアコンは一度もつけていません。
     そろそろ我慢できなくなるでしょうから、自動おそうじのスイッチを入れました。

     小説の方は新しい作品はなかなか構想がまとまりませんが、以前書いたものを書き足したりしています。前にはどうしても無理だと思っていたものが、時間をおいてやってみると少しずつ、それらしくなってくる場合もあります。

     筑波大学の中村逸郎教授は99%の確率でプーチンが今月中に失脚するだろうと言っていましたが、どうもまだ、そういう様子は見えませんね。

     政治というのは正義ではなく、強弱で決まることが多いので、今は後継候補の間で駆け引きが続いているのでしょうか。プーチンとしては自分の息のかかった若い指導者を推して院政を敷く事を目論んでいるのでしょうが、なんとか、戦争反対派の指導者が後任に決まってほしいものですね。

     政治と言えば日本でも参議院選が告示されました。
     私の地元でも候補者が乱立していますが、出来れば80歳以上の人にはもう、引退して貰いたいものです。それと官僚の書いた原稿を棒読みするような人も・・・・

  •  ドリームさん、こんにちわ。

     ネットで懸賞小説のサイトを見ていたら「文芸埼玉」第108号掲載作品募集、という記事を見つけました。ご存知ですか?
     賞金は出ないようですが自分の作品が活字化されるのは気持ちがいいものです。原稿用紙30枚以内といいますからお手頃です。埼玉県在住の人が対象ですから私は応募できません。
     詳しくは

     http://www.Saitama-bungakukan.org

     を見て頂けばわかると思います。

  • 常神半島奇譚

     11
     魚史郎が令和から享保の時代へやって来て二十五年の歳月が流れた。三十六歳だった魚史郎も還暦を過ぎて六十一歳になっていた。初めのころは毎年、皐月(さつき、令和では六月)の満月の夜になると、あの、不思議な食べ物のことや、その後の、自分の身に起きた突然の変化のことを思い出していたが、鯖の運び屋としての暮らしに慣れてくると、もう、とっくに、元の暮らしに戻りたいとは思わなくなっていた。
     鯖の運び屋は十二年間、四十八歳になるまで続いたが、その後ははなの店を手伝うなどして暮らした。
     すでに時代は享保から元文、寛保、延享へと進み、今は延享三年であった。魚史郎は数年前から労咳を病み、暖かい部屋で滋養のあるものを食べて養生していたが、徐々に体力は衰え、食欲もなくやせ細って、今は死が目前に迫っていた。
     魚史郎は令和の時代から、この三百年前の江戸中期に転生した数奇な運命をしみじみと思い返していた。まもなくここで死を迎えるのだが、彼にとっては、この、江戸中期での生活が本来の居場所であり、何かの手違いであの昭和、平成、令和という時代に、生まれてしまったのかと今は思うのであった。ここで今は、死に対する恐怖は全く無く、次はどういう世界に生まれるのだろうか、というのが、最大の関心事であり、楽しみでもあった。

     死を前にした魚史郎に付き添っていたのは妻のせつと子供たちであった。
     せつの三人の娘のうち長女のたみは、鯖の運び屋の文次と所帯を持ち、近所に住んでいた。そして次女のはなは、夫順平と共に小間物店を切り盛りし、店はよく繁盛していた。
     末っ子のうめは漁師の男と所帯を持ち、弥助の後を継ぐような形で貝村の元の家に住んでいた。
     三人の娘はそれぞれ二~三人の子を成し、幸せな家庭を築いていた。魚史郎と血の繋がりは無いが、実の娘と同じで、思い残すことのない幸せな気持ちで静かに眠りについた。

           了

  •  常神半島奇譚

     10
     魚史郎が鯖の運び屋としてしっかり稼げるようになり、たみが文次と所帯を持ち、翌年にははるが京の町へ奉公に行くなど、魚史郎の周辺では次々と変化が訪れた。だが、はるがいなくなって親子三人だけになった弥助の家に、突然の不幸が襲い掛かって来た。

     はるが京の若狭屋へ奉公に行ってしばらくしてから、若狭湾一帯では疱瘡が大流行したのだ。のちに天然痘と呼ばれる流行り病である。不幸にも弥助宅の家族三人がこれに罹ってしまった。
     大恩ある弥助一家である。魚史郎は外出の出来ない弥助の家にせっせと食料や、治療効果があるかも知れないと聞いた薬を運んだ。顔を合わせる訳には行かないので声をかけて裏口に置いて帰っただけである。魚史郎が仕事で京へ出かけているときにはたみが、文次と一緒に実家に帰った。両親と言葉を交わすだけでも、と思ったのだが、声を聞いて元気づけるだけで、顔を合わせることは出来ない。
     数カ月のち、流行が収まった時には多くの人が命を落としていた。弥助宅でもせつとうめは無事回復出来たが、弥助は助からなかった。
     その翌年、享保十四年睦月、今度は若狭地方では大雪となった。六尺を超える雪をかき分けて、かんじきを履いた魚史郎が食料を背負って通(かよ)った。
     そして雪が解けた春に庄屋の勧めもあって魚史郎はせつと夫婦(めおと)になった。魚史郎は四十四歳、せつは三十八歳になっていた。令和から享保の時代へやって来て八年、令和に戻ることは出来ないし、戻りたいとも思わなくなっていたのと、一人暮らしの生活の不便さもあって、せつとの結婚に迷いは無かった。
     せつとうめは住んでいた貝村を引き払い、魚史郎が用意した小浜の家にやって来た。そこは文次とたみが住む長屋のすぐそばで、鯖の運び屋の仕事で稼いだ金で建てた家だった。
     魚史郎にはこの家を建てるとき、ひとつの思いがあった。それは、はなが、京の小間物屋で何年か勤めた後、小浜へ帰って来てここで店を開く事があるかもしれないと思ったので、いつ、そうなってもいいように場所を選んだのであった。
     はなが若狭屋へ奉公に上がって四年目、十九歳になった時、魚史郎は若狭屋の主人に話をした。
     「親方、えらいすんまへんが、そろそろ、はなと順平に所帯を持たせてのれん分けをして貰うわけには行かしまへんやろか」
     順平というのは手代の一人で、同じ若狭から来ていた二つ年上の若者だった。口達者なはなと、どちらかと言えば大人しい順平とは似合いの夫婦になるだろうと前から思っていた。
     のれん分けの話は、はなが勤めに入った時から魚史郎が主人に話していたことなので、主人も、しぶしぶながら応じてくれた。若狭屋が困らないように、読み書きそろばんが出来る代わりの娘を近所で見つけて連れて行った。
     初めは十七歳になっていたうめを、はなの代わりにと思っていたのだが、うめには幼馴染の貝村の漁師から求められて所帯を持つことになり、弥助が建てた元の家を改装して二人の新居とするための普請に取り掛かっていた。
     「そうやなあ、はなと順平が辞められるのは困るけど、ふたりの幸せも考えてやらなあかんしな」
     と、若狭屋の主人が言った。
     この年、魚史郎は四十七歳、体力がだいぶ衰えて来たので運び屋として京に通うのも月に三回ぐらいに抑えていた。はなが店を開いてそれを手伝うことが出来ればそれが新しい生きがいになるだろうと思った。
     そして三カ月の後、暑い盛りの文月(七月)に住まいの一部を改装した店舗が出来上がり、若狭屋を出て、はなは四年ぶりに順平と共に小浜へ帰って来た。
     店の名は二人の名を合わせて《はな順》と決まった。
     ・・・・・・
      はな順では、初め針や糸、端切れなどのこまごました商品を近所のおかみさん相手に商っていただけだが、京とは違って人口の少ない小浜では、開店して数日の間賑わっただけで、その後は一日四~五人の客が訪れて世間話をするだけになってしまった。
     しかし魚史郎は令和から来た人間だ。鯖の運び屋の仕事を徐々に減らして、店で女たちの様子を観察しているうちに、ほとんどの女たちが、手芸をもっと上手くなりたいと思っているようだという事が分かって来た。令和とは違い、この時代には既製品の衣類を売る店は無い。庶民が普段着る物は自分で手縫いするのが当たり前だった。
     そこで魚史郎は考えた。店は十分広いので、その一画を利用して、手芸教室を開くことにしたのである。それまでも店に来た客に、はなが個別に指導するという事はあったが、組織的に、時間を決めて、課題を決めてそれを行うようにしたのである。うわさを聞いて、たちまち、小浜の町内だけでなく近隣の村々からも大勢の女たちが通ってくるようになった。
     江戸時代初期には上流階級の普段着として着用されていた小袖を、ちょうどこのころ京の町では一般庶民も好んで着るようになっていたので、はなはそれを小浜の女たちにも広めようとした。するとそういう流れの中で襦袢や内着などとの重ね着の配色や模様を工夫することが、センスの見せ所という事になって、競って新しい作品を作って皆で見せ合って楽しむようになっていった。
     店が忙しくなって、せつはもちろんだが近くに住む、たみも店を手伝っていた。
     女たちの様子を見た魚史郎は、今度はそれら教室で生まれた作品を、年に一度、競わせて発表会をするようにしたところ、大評判になったのである。男には酒を飲んだり、廓通いをするなど、いろいろの楽しみがあったが、女には何もない。それを狙った魚史郎の目論見は見事成功した。

     小浜の町の女たちは年に一度の発表会を何よりの楽しみとし、そのためにさまざまな工夫を凝らし、小物入れや身の回り用品など、次々としゃれた商品を考案した。そして新しい商品が出来ると、店で買い取って、鯖の運び屋である、たみの旦那たちに託して京の町に売り込みに行った。令和の時代なら誰でもが考えつくような営業戦略だがこの時代としては画期的な販売促進策となったのである。

  •  常神半島奇譚

     9
     そのころ、魚史郎の耳に気になる話が飛び込んできた。
     庄右衛門に仕える船乗り二人が突然行方不明になったというのである。
     聞いてみると、その二人は常神半島の先にある漁師宿の料理が大変旨いと言う評判を聞きつけ、親方である庄右衛門にも告げずに漁の休みの日に二人で出かけたそうだ。
     親方には内緒という事になっていたので、それを知っている仲間は、最初は黙っていたのだが、二人が行方不明になって大騒ぎになったので口を閉ざしている訳には行かなくなって、打ち明けたというわけだ。
     しかし庄右衛門がその男たちを連れて半島の先まで行って見ても、それらしい漁師宿は見つからず、付近を捜索すると、林の中に二人が身に着けていたふんどしや鉢巻など、衣類だけが残されていたという奇怪な話であった。
     魚史郎には自分の経験と重ね合わせてみると、まさにその二人も、あの得体のしれない刺身を食って、自分と同じようにこの世界から消えてしまったとしか思えなかった。しかしこんな話は親方にはもちろん、弥助やせつにさえ話してない事だったので口をつぐんでいる事しか出来なかった。
     行方不明になった二人がどこでそういう話を聞きこんできたのかは誰も分からず、時と共にその噂は人々の話題に乗ることも無くなっていった。魚史郎もどうすることも出来ず、文次とたみの幸せを見守るとともに、次の娘、はなの身の振り方についても相談を受けていた魚史郎にとって、気にはなったが目先の問題を片付けて行く事の方が大事であった。

     たみの結婚に続いて、はなの身の振り方についても魚史郎は相談を受けていた。はなは三人の娘のうちでも特に元気のいい、利発な女の子だったので、京の町へ連れて行ってどこかの商店に奉公させればきっと喜んで、たくましく、元気で勤めるだろうと思った。
     魚史郎や文次が通う京の町には多くの店があり、小浜や周辺の町や村から奉公に行く娘も多かった。
     文次とたみが所帯を持ったその翌年、享保十三年の春先に十五歳となったはなを、四条通りにある若狭屋という小間物問屋へ連れて行った。大きな店ではないが主人は若狭高浜出身の実直な男で、魚史郎も文次も、小浜の町の女たちから頼まれるといつも利用していた店なので、はなの奉公先としてはちょうどいいのではないかと思ったからである。女中奉公という名目で雇われたのだが、読み書きそろばんが出来ると分かったので、しばらくすると帳場の手伝いもするようになった。若狭屋は四条通りでも特に賑やかな、烏丸通りと河原町通りの中間付近にあった。そこは主人とおかみさん、主人の弟である番頭さん、そして手代がふたり、丁稚が三人と女中がひとり、はなを加えても十人だけの小さな店だった。
     ・・・・・・・・
     小間物屋の仕事というのはそれほど難しいものではない。商品の種類は多いが、細かいものばかりなので力仕事などはしなくてよく、年間通して、売り上げの大きな増減も無い、安定した商売だった。若狭屋は卸が主体だが、場所が一等地なので小売のお客さんも多く、狭い店はいつもお客さんで溢れていた。
     常神半島の根っこの人口わずか八十人の村に育ったはなにとって、京の町は余りに広く、人も多く、きらびやかで、魅力に富んだ別世界であった。
     しばらくは大人しく、主人や奥さん、番頭さんに、一つ一つの商品の名前や置き場所、値付けなどを教わり、真面目に勤めていたが、一年も経って、一通りの仕事を覚える頃になると、持ち前の好奇心が頭をもたげるようになり、お届け物がある時は自分から進んでその仕事を引き受け、街の様子を見ながらキョロキョロ歩くことを楽しみとするようになった。そしてどこかの店が賑々しく、売り出しなどをしているのを見かけると
     「だんな様、今日から五条河原町の辰巳屋さんでは大蔵ざらえといって店の前にぎょうさん品物(しなもん)を並べて売ってはりましたんどすけど」
     と主人に報告し、若狭屋でもどうかと提案するのだが、主人は大抵
     「うちは普段でも無茶苦茶忙しいし、卸屋がそんなことをしたら小売やさんに怒られるやないか?」
     と言われるのであった。
     しかしそれでも、商品の置き場所や並べ方を工夫したり、商品の特徴などを短冊に書いて下げておくだけでお客さんから喜ばれることもあり、次第に主人からも頼りにされるようになっていった。

  •  常神半島奇譚

     8
     初めて京へ往復した時はとても無理だと思ったが、四~五回通ううちに少しずつ慣れてきて、なんとか運び屋としてやっていける自信もつき、少し現金収入も得たので、これまで世話になった礼を言うため、弥助宅に帰って来た。十里という平地の距離は京までの往復と比べると何でもない距離だった。お土産として、弥助には伏見の酒、世津には反物、子供たちには紙と筆に墨と硯を買って背負って持ってきた。
     子供たちの勉強は中断したままだったが、時折帰って来た時に、まとめて教えることにした。魚史郎にとっては、令和の新貝村の自宅へ戻る方法は無く、弥助の家を訪ねる事が自分の実家へ里帰りするような気分だった。
     弥助たちも、自分たちが追い出したわけでは無いが、魚史郎が運び屋の職を得たことを自分の事のように喜んでくれた。
     一人前の運び屋になって、魚史郎はようやく、この時代の人間として生きていく覚悟が出来た。今さらちょんまげ頭を振り立ててでも、令和の時代へ戻れるものなら戻りたいが、全くその手段も見つけられず、ただくよくよ悩んでばかりしていても仕方がないので、与えられた運命を受け入れるしか無かったのである。忙しくしていれば家族や友人と逢えない寂しさを紛らわすことも出来、こちらで出合った人たちと、楽しくやって行けそうな気もしてきた。 
     魚史郎は三十六歳だった。もう数年遅く、四十歳を過ぎていたらこんな仕事につくことは出来なかったであろう。この仕事がこれから十二年、四十八歳まで続くことになる。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     魚史郎が鯖の運び屋になって四年目、享保十年に若い男が加わった。文次という男を魚史郎としては初めて、先輩として指導し、育てることになった。これまでは新しい運び屋の希望者には、古い先輩の運び屋が指導していたのだが、魚史郎にも初めてその役が回って来たのである。
     文次は二十歳、元気盛りである。一回目と二回目はさすがに疲れたようだが、三回目にはもう、魚史郎に遅れることなく、十貫目の荷を背負って付いて歩けるようになった。
     文次は若いがしっかりした、真面目な男だった。二年経って二十二歳になった時、魚史郎が弥助宅に行く時、文次も一緒に連れて行くことにした。十六歳になる弥助の長女たみの縁談のことを弥助から頼まれていたからだ。
     文次の人柄については前もって伝えてあったので弥助夫婦には異存は無い。当事者同士には何も伝えてなかったが、一目見て、たみは、逞しい文次の魅力に引き込まれてしまったようだ。そして勿論文次は、お茶を出すたみの、匂い立つような姿を見るなり、顔を赤らめてまともには口も聞けないほどだった。
     弥助夫婦には異存は無く、当人同士も気にいっている様子だったので、庄右衛門に報告して文次とたみは所帯を持つことになった。弥助夫婦にはたみを嫁に出す資金は無い。世話になった魚史郎が文次と共に京までたみを連れて行き、着物を誂えてきた。身寄りのない文次には鯖の運び屋になってから蓄えた金が少しあったので箪笥、長持、行李などを誂えたが、その他の祝儀の掛かりのほとんどは庄右衛門が祝い代わりに賄ってくれることになった。
     そして弥助一家のほかには運び屋仲間や漁師たちのうち、主な者が呼ばれて、庄右衛門宅の大広間で披露宴が行われた。もちろん媒酌人は庄右衛門夫婦である。
     「文次、おめぇはいったい、いつの間に、どこでこんな別嬪さんを見つけてきたんや」
     「はぁ、魚史郎兄ぃの里の娘でごぜぇやす。三月ほど前に兄ぃと一緒に貝村の兄ぃの里に行って・・・」
     「ほう、そうか、こんな別嬪さんを嫁さんに貰うて、おめぇは果報もんやのう、これからも仕事に励めよ」
     「ところで、おめぇはいつも京へ行ったり帰ったりやが、おめぇが留守の間、たみどんはどうするつもりかのぉ、なぁも当てがないんやったら、うちで働かんかの」
     それを聞いた魚史郎も
     「親方、それはおおきに有難うごぜぇやす。たみは読み書きそろばんも出来るさけ、きっと、お役にたつと思いやす。なあ、たみも異存はねえな」
     「おっ、読み書きが出来るんか、それは有り難い。うらは忙しゅうて、大福帳を手伝ってくれる人がもう一人か二人おらんかと探しておったのじゃ。誰にでも任せるっちゅう訳にもいかんしな」
     こうして、たみは網元、庄右衛門の家で働くことになった。たみの両親、弥助とせつはすっかり魚史郎を信頼していたので事の成り行きには一切口を出さず、安心して見守っているだけだった。
     魚史郎も文次もそれまでは庄右衛門の用意した寮に住み込んでいたのだが、所帯を持つことになって文次とたみは近くの長屋を借りて暮らすことになった。すぐ近くなのでたみはそこから通える。
     庄右衛門のところには大小八隻の船があり四十人余りの船乗りが雇われていた。そして魚史郎たち運び人も含め、ほとんどは通いだが、十三~四人ほどは魚史郎たちの住む寮に住み、そういう男たちの世話をする女子衆(おなごし)も四~五人ほどいた。総勢五十人余りとなる雇い人全員の勤務状況を記録し、誰がどれだけ働いたか、どの船がどれだけ魚を獲って来たか、そして魚史郎たちの仕事についても誰がどれだけ鯖を運んでどれだけの売上げがあったかを管理し、記録するのが、たみが加わって四人となった帳簿係の仕事だった。
     魚史郎が令和から享保へやって来て六年経っていた。ときどき思い出すことはあったが、もう、令和の時代へ戻ることは全く不可能だと思われた。だが、この時代も住み慣れてくるとそれなりに楽しいこともあり、初めのころのようにどうしても帰りたいと、強く思うことも無くなってきた。運び屋としての仕事にもすっかり慣れて、京の町へ行った時には街をぶらぶら歩くという楽しみも覚えた。

  •  常神半島奇譚

     7
     弥助たちの家がある貝村部落は人口八十人ほどで、その先にも七つほどの、五十人から三百人ぐらいの部落が続き、その先に小浜の町があった。貝村から小浜までは十里ほどになる。
     小浜には一万人以上の人が住み、由緒あるお寺が多く、漁も盛んで各種商店や遊郭などもある、この時代としては大きな町だった。
     小浜には若狭湾で取れた鯖などを背に、鯖街道と言われる道を歩き、京の都へ運ぶ人たちがいた。一人平均約十貫目(三十七・五キロ)の荷を背負い、小浜の港を辰の刻早く(午前七時半ごろ)に出発して、針畑峠を越え、京まで約二十里の山道を夜通し歩き、翌日の巳の刻の終わり(十一時ごろ)に京の出町柳まで到着するという大変な仕事である。もっとゆっくり琵琶湖を通るルートもあるが鮮度を要求される鯖を運ぶには人の背によって運ぶしかなかった。
     しかし仕事は厳しいが、そうして運ばれた鯖は京では貴重な蛋白源として珍重されたため、運び人は高い報酬が約束された名誉ある職業だった。
     夏には運び手も多かったが、冬には積雪もあり、寒さ厳しい峠道を越えるため命を落とす人もあり、誰でもが出来る仕事ではなかった。だが、冬に運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、とりわけ美味だったため、京の都人(みやこびと)にとって、冬の若狭の鯖は高級食材としてもてはやされた。
     自分にそれだけの体力があるかどうかは分からなかったが、一度は試してみる価値があると思った魚史郎は弥助や庄屋に鯖の運び屋になることを相談して見ることにした。これまでは弥助の漁を手伝うだけだったが、弟たちもいるし、魚史郎がいてもいなくても漁獲量はほとんど変わらず、早く別の仕事を見つける必要があったからである。
     しかし、まずその前に人別帳に登録しなければ仕事に就くことは出来ない。村の人たちには越後から来た遠縁のものだと言っていたが、庄屋はそれでは受付出来ないと言って、四年前に海が荒れて亡くなった弥助の兄、拓蔵の名を復活させることになった。
     こうして本名は貝村の拓蔵としての戸籍を得た魚史郎は、庄屋からの紹介状を持って、鯖の運び屋を何人も使っているという小浜の網元、庄右衛門を訪ねたのであった。
     庄右衛門としては一人でも多く運び屋を増やしたいのだが、厳しい仕事に耐えられる人は少なく、取り敢えず魚史郎を経験のある運び屋と共に一~二回歩かせてみようかという事で仮採用という事になった。
     想像以上に歩くのは厳しかった。荷物も五貫目だけとし、朝、寅の刻の始め(午前三時)に出発したにもかかわらず、着いたのは翌日の申の刻(午後四時)になろうとしていた。疲労困憊して宿舎に倒れこんだまま二日間寝込んで、次の、別の運び屋が来た時に、その帰りに同行して帰って来たのである。
     当然そこで雇止めになるかと思ったのだが、庄右衛門は諦めることなく、続ける意思があるかどうか魚史郎に聞いてきた。最初の一~二度は誰もがそんな経験をするのだが、何回かそれを繰り返すうちに慣れてきて一人前の運び屋になるのだという事が分かった。

  •  常神半島奇譚

     6
     与助の住む新貝村では、魚史郎が突然、謎の失踪をしたまま一か月を過ぎたが、何の手掛かりも無く目撃者もいなかったので、捜査のしようもなかった。気が狂って海でおぼれ死んだという事にして身内だけで葬儀が行われた。遺体も無いので着衣や携帯など遺品だけが燃やされた。
     魚史郎の失踪当時、与吉はもしかしたら魚史郎が自分で家に戻っているかもしれないと、かすかな希望を持って熊吉を連れて新貝村に帰って来たのだが、そんな筈はなく、魚史郎の妻は夫が行方不明になったと聞いても、最初は信じようとはしなかった。だが事実だと分かると、ほとんど発狂せんばかりに驚き、悲しんだ。幼い子供二人をこれからどうやって育てて行けばいいのかも分からず、毎日を泣き明かして暮らしたが、ようやく事実を受け入れて葬儀を済ませ、親戚や村の人の助けを得て、立ち直ろうと決めたところだった。
     失踪当時の状況を説明する際に、与吉は熊吉とも相談し、人魚のことは伏せておこうと決めた。今の時代に、人魚などというのは全く伝説上の生き物で、誰もそんなものを信じてはいなかった。もしそんな話をして、本当に人魚というのが生存しているかどうか、海中を大捜索しようなどという事にでもなったら大変なことになると思ったからである。だいいち、そんなことをしても魚史郎が戻ってくる筈もなかった。
     ・・・・・・・・・・・・
     魚史郎が板切れに日記を書き始めたところを子供たちがのぞき込んで
     「魚史郎おんちゃん、字が書けるんか」
    と聞いてきた。
     そうか、この子たちは、いや、大人たちも字が書けないのだと分かった。だから家には紙も筆も無かったのだ。この部落で、字が書けるのは庄屋だけだと分かった。
     それから彼は子供たちに字を教えることにした。
     はじめは、≪たみ、はな、うめ、せつ、やすけ≫ と、人の名前をひらがなで書いて見せた。そして自分は ≪うおしろう≫ と書いて見せた。子供たちは板切れを拾ってきて何度も何度も練習したのですぐ覚えた。そしてその他のひらがなも、そしてカタカナも、全部覚えるまでに十日もかからなかった。家族の名前だけは≪多美、花、梅、世津、弥助≫と、適当な字を当てはめて漢字も教えた。次に足し算引き算、掛け算割り算も教えた。足し算と引き算はすぐ覚えたが、掛け算割り算はなかなか難しいようだった。特に末っ子のうめには難しすぎたようだ。
     魚史郎が字を教えていると聞いた近所の親たちが、うちの子にも是非、と言って子供に付き添ってやって来た。束脩はいくらだと聞いてきたがそんなものは要らないと言って断った。だがそれでも麦や大豆その他野菜などを持って来るものもいたので、それはありがたく受け取ってせつに渡した。

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