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(株)スターフライヤー【9206】の掲示板 2016/04/15〜2019/09/16

日本市場ではボーイングが、エアバスを大きくリードしていた。しかも全日空や日本航空が使っていたエアバスの機体は、更新時期が近づいていた。エアバスにとって、下手をすれば、日本市場から退場せざるを得ない状況だった。「何としても日本市場に橋頭堡(きょうとうほ)を確保しておきたい」。武藤の作戦は、エアバス側の危機感を突き、「クレジットメモ」を獲得した。GECASから、A320を3機リースすることが決まった。だが、離陸したスターフライヤーに、猛烈な向かい風が吹く。

 最大の逆風は、原価のほぼ4分の1を占める燃料費の高騰だった。
第一便が飛んだ年の10月、石油輸出国機構(OPEC)は総会で、原油の減産を決めた。それでなくても原油は高止まりしていた。ニューヨーク原油先物相場の米国産標準油種(WTI)は、堀が創業した平成14年は1バレル=20ドル台だったが、18年は60ドルまでになっていた。OPECの決定が引き金となり、原油価格は天井知らずの上昇を続けた。
「世界情勢で決まる話だからしようがない。山手線の混雑を怒っても、しようがない。それと同じだ」

 さすがの堀も、ぼやくことしかできなかった。
加えて、日本有数の混雑空港となった福岡空港で、“価格破壊”が起きた。
北九州空港開港とスターフライヤー就航に合わせて、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が、福岡-羽田の運賃を大幅に下げた。日本航空も追随し、両社は片道1万2千円(1週間前予約)という価格を打ち出した。

 同じ1週間前予約でも、スターフライヤーの北九州-羽田は1万7800円だった。福岡空港から客を奪い取るどころではなかった。

 さらに、スターフライヤーのビジネスモデルの肝といえる早朝深夜便の不調が続いた。搭乗率は目標の5割に対し、半年後も4割にとどまった。

 深夜早朝に羽田空港を行き来する交通手段が不十分で、利用者が深夜早朝を避けていた。やむなく堀は18年11月、北九州発の最終便と羽田発の始発便の運休を決めた。

 スターフライヤーは18年度に14億円、19年度も15億円の最終赤字を計上した。「初年度から黒字化」は遠い目標だった。

           

 堀ら経営陣も、予想外の出来事に立ち尽くしていたわけではない。
 「機体のおなかを使いましょう。貨物室のスペースを丸ごと売れないだろうか」苦境の中、武藤が経営会議でこうぶち上げた。機体の手荷物室を活用し、荷物を運ぼうというプランだった。
とはいえ、自前で貨物事業に乗り出せば、専用の社員や施設を用意しなければならず、利益を出すことは難しい。
 「適切な提携先があればよいのだが…」堀は考えあぐねた。そこに朗報が入る。
「福山通運が航空貨物に力を注ごうと考えている。話をつないでもいい」
旧知の米大手航空会社の貨物事業担当者から、連絡が入った。
武藤は福山通運社長の小丸成洋(66)と交渉した。トントン拍子に話が進み20年8月には、具体的な事業計画ができた。通信販売会社の商品や電子機器、書類、衣料品などを1便3トン、1日合計66トン輸送するというものだった。
福山通運との提携は、年数億円の収入となった。
20年度決算で、6900万円と1億円に満たない数字ではあるが、初の営業黒字を計上した。
ようやく上昇気流に乗ったかに見えた。だが、堀には時間がなかった。
「本意ではありませんが、辞めようかと思います。最終利益も出せず、平成20年度に予定していた上場もできませんでした。北九州には迷惑をかけてしまいました」
 21年春。堀は頭を下げた。相手は、北九州商工会議所の会頭で、元TOTO社長の重渕雅敏(80)だ。
 重渕はスターフライヤー創業の恩人だ。出資説明会の壇上に自ら立ち、スターフライヤーへの協力を呼びかけてくれた。その後も資金が尽きかける度に、堀は重渕に増資を相談した。
 その恩人に、辞任の報告をせざるを得ない。堀は申し訳なさでいっぱいだった。重渕の表情を伺うこともできなかった。「始めたばっかりだから赤字を出すのは仕方がないだろうに…。数年後にまた、戻ってきなさい」重渕は、こう声をかけた。
就航前の17年、スターフライヤーが増資した際、米国のベンチャーキャピタルが出資に応じた。この会社はスターフライヤー20%の株式を握り、筆頭株主となった。投資会社は、配当や上場によるキャピタルゲインで利益を上げる。彼らの目から見れば、計画通りの黒字達成も株式上場も果たせない堀は、経営者として失格だった。経営陣の刷新を要求した。
就航からわずか2年半。スターフライヤーに協力してきた北九州市の関係者からは、「大目にみてはどうか」と擁護する声も相次いだ。だが堀は、筆頭株主ともめることを懸念して、退社を決めた。武藤ら創業メンバーも会社を去った。(敬称略)