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日経平均株価【998407】の掲示板 〜2014/12/15

【 犯行に至るまでの過程 】

1889年(明治22年)、増淵倉吉は群馬県で生まれた。母親は前夫と3人の子どもをもうけながら愛人のもとへ走った。倉吉はその愛人との間にできた子である。そういう事情から出生届けをせず、倉吉は12歳になって初めて戸籍を得ている。倉吉は初めは牛馬の革をなめす製革職人だったが、やがて高崎で和菓子の製造を習って菓子職人になった。

1921年(大正10年)、倉吉は上京し、浅草で独立して小さな店をもった。やがて結婚して2人の子どもをもうけた。

だが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)に遭い、妻と2人の子どもを捨てて、大阪での再起を目指して汽車に乗った。その車中で、同じく被災した、みやという女性と知り合いになった。話を聞くと、みやは夫と2人の子どもを震災で失い、行く当てもないという。同情した倉吉は大阪でみやと結婚したが、運が悪く商いがうまくいかなかった。(みやは汽車の中で知り合った人ではなく、近所に住んでいた人妻で倉吉と駆け落ちした、という説もある)

1926年(大正15年=昭和元年)、大阪から名古屋へ移った。そこで、倉吉は中区の「納屋橋饅頭(まんじゅう)店」の職工長として働き、みやは裁縫の師匠をしていた経験を生かして、日出町の自宅に「裁縫所」の看板を掲げた。翌日から近所の若い娘が次々とやってきた。すべてが順調に進んでいった。裁縫を習いに来ていた娘たちの中には16歳のます江もいた。

夫婦は円満で、平穏な日々が続いていたが、1929年(昭和4年)末、みやが風邪がもとで寝込んでしまった。元々、体は丈夫なほうではなかった。「裁縫所」は閉めるしかなかった。それまで「裁縫所」に通っていた弟子たちは師匠のみやを見舞いに来ることはなかったが、ます江だけはみやの看病をした。そして、今度はミシンを習い始めた。しかし、1年経っても、みやの病気はいっこうに良くならなかった。貯金は薬代に消えていき、倉吉の給料だけでは病人を養うことはできなかった。こうした事情から、みやは名古屋医大病院に施療患者として入院した。どうやら肺結核に罹ってしまっていたようだった。

みやの入院が原因かどうか不明だが、倉吉は湯屋ノゾキをたびたびやらかし、警察の厄介になったことがあった。

また、倉吉の気持ちがぐらつき始めた。ある日、流しで茶碗を洗っているます江の後ろ姿に視線を注いだ倉吉は我慢ができなくなり、半ば暴力的に情交を結んだ。最初は倉吉の暴力を憎んだます江も次第に恋愛感情を抱くようになっていった。

倉吉は44歳になっていたが、華奢な体つきをしており、容貌も優しげであるところから年齢よりはるかに若く見えた。

また、この頃、民間の宗教繁昌期で、天理教、大本教の大手の活動に加えて、生長の家、ひとのみち教団(現・パーフェクト・リバティー教団、略称・PL)などの新宗教団体が発足し、人々の不安を吸収して急成長していった。そうした風潮もあって、倉吉も宗教には関心を示していた。ます江の死体のそばにも数珠を残していたが、御獄教、不動尊、お稲荷さん、観音さまなど、さまざまな神仏を信仰しており、豊川稲荷、大和信貴山のお守りを常に肌につけていた。みやも岐阜県加茂郡田原村の迫間不動を信仰しており、病床で自分が死んだら、ぜひともお詣りしてくれと倉吉に頼んでいた。