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投稿コメント一覧 (4018コメント)

  • >>No. 5978878

    1925年10月15日、南山(標高836m。ソウル盆地をとり囲んで いる山脈中の主峰、市の 南部にある南山(265m))に朝鮮神社が創建された。祭神は天照大神と明治天皇である。

    だが、「内鮮融和」のためには朝鮮の神話上の始祖である檀君(檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされたという 伝説の国の名前)も合祀するべきだとだという議論が、意外な事に、創建直前に神道界からも持ち上がった。

    神道では、一般に地域の氏神が崇拝の対象になる。結局は総督府はこれを認めず、

  • >>No. 5978877

    日本の貸座席制度は、1876年(日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき))の開港と共にすぐ持ち込まれた。

    その後徐々に規制を加えつつ、1916年3月31日、貸座敷娼妓(しょうぎ)取締規制を公布し、日本の公娼制度を全面的に導入した。貸座席には日本人向けと朝鮮人向けが別々に経営していた。

  • 植民地朝鮮と日本
    植民地の社会と文化
    ・朝鮮が日本の支配を受けている植民地である事を象徴する建物は、何より総督府庁舎である。
    1925年12月、9年5ヵ月の歳月と700万円を費やして完成さし、その出入口に光化門(王宮の城門の 遺構)は移築された。

    また、総督府は日本式の生活慣習をそのまま朝鮮に持ち込んだ。和風民家を始め、神社・仏閣・や桜の植栽など暇がないが、中でも遊郭文化は象徴である。

  • 「内鮮融和」とは日本への朝鮮の完全な同化をを意味するものであるという立場を明確にした。

    京城(朝鮮の漢城府に引き継いで置かれた日本統治時代の朝鮮の行政区域。現在のソウル特別市にあたる。)は近代と和風が朝鮮風と混在する。植民地特有の奇妙な都市であった。

    総督府は昌慶宮、景福宮、徳寿宮の三つの王宮に、それぞれ李王家博物館・朝鮮総督府博物館・徳寿宮美術館を設置、運営した。

    朝鮮王朝の聖的空間は、大日本帝国の管理下の管理下に入って居る事を可視的に市民に示された。

  • 東大では、憲法について、どう 教えているのだろう。 自民党の 東大卒の 国会議員の発言を聞いていて、 つくづく そう思う。 さて、 本論の 「7博士の提言」を おこなった 戸水寛人 東大教授は日頃 どのような事を 言っていたのかを 紹介すると …… 

    ・我々が 大いに力を尽くして 日本の人心を もう少し 戦争の方に向けて 領土を広めるより外ないと思います。 なるべくならば 世界を ことごとく 併呑したいと思います。  1901(明治34)年3月東亜同文書院での演説(P246)

    ・私は 元来 侵略主義を 唱えておる者であります。 領土拡張主義を 唱えて おる者で あります。 敵国撲滅策を 唱えておる者で あります。 それが 道徳に反する 言われては 大いに困る ・・・・ 日本も 大いに 侵略主義を 取らなければ 終に亡びるであろうと思う・・・・ 領土の拡張と いうことは 必要であろう ・・・・1901(明治34)年3月雑誌「倫理界」の論文(侵略主義と道徳)

  • 司馬遼太郎は「日露戦争があと半年も続いたら日本は国力が尽きて負けていた」という。他の史書も似たようなことを一言う。児玉源太郎の「あと一年戦えば二十五万将兵と十五億円の戦費がいる」という言葉も、「だから戦争継続は不可能」という文脈で使われる。「だからルーズベルトはときの氏神」だという風につながる。

  • アメリカから見ると、いま日本で起きていることがどう見えているかというと、
    1945年から1952年まで7年間の占領期間にアメリカが教えてやった自由の精神が結局は身につかずに、民主主義という形骸だけを残して、本質的には、元の黙阿弥、また1945年以前の露骨な国家主義に戻ってしまった、というふうに見えている。

  • イラク戦争を始めるときにブッシュジュニアは「日本人に民主主義を教えられたわれわれがイラク人に民主主義を教えられないはずはない。イラク占領は『日本型』をめざす」と言っていて、わしを甚(いた)くおもしろがらせたが、日本の人が聞けば「なにを言いやがる」と思いそうでも、アメリカ人というひとびとは、いざとなると包み隠さず自分たちの正直な気持ちを述べてしまうひとびとで、「日本という国は日本人のなんでも器用にマネをする性質を利用して自分たちの自由社会をマネさせることによって出来た自由社会なのだ。かっこいいじゃん。ほんで、あの国は、アメリカの作品なんだぞ」と明瞭に述べる。

  • 戦後の和解
    和解とは、一般的に、争いや対立を止めるために当事者間で行われる歩み寄りや譲歩、あるいはこれらをもたらす行為を指す。

    戦争や紛争と平和の構築を巡る脈路においていえば、和解とは戦争・紛争・対立の解決、停戦の合意や調停、講和の締結をさす。

    戦後の和解という課題に於いては、国家という集団のレベルで考えて行かなくてはならない。

    和解(リコンシリエイション・reconciliation)の対義語は『復讐(リベンジ・revenge)』である。

  • 日本のように、『靖国で会おう』という、日中十五年戦争でやむなく交わされた、いわば極限の諦念(ていねん)から発せられた言葉を金科玉条にして、それ以外の祀り方を提案すると、「非国民」扱いで、極論に走り、議論すらしょうとしない、という状況は、何処かで止めなければならない。従軍者たちの語った『靖国』という言葉の持つイメージは、戦死者の多い戦線を『靖国に最も近い』「靖国街道」と語った人もいるように、迎えたくない死という現実を受け止める表現の一つであり、死後の『祭祀』だけを意味するのではない。
    自分達を絶望的な戦場に送り込んだ、軍部や政府、さらに天皇、もしかすると社会への怨念の意味も含めた深い意味を持つ。

  • ふふふ、昔々の話ですが、ワシントン条約、ロンドン条約が日・米・英・仏・伊・他の諸国が東アジアの利権と安全保障の割り当てで交渉してて妥結した(その当時の首相は濱口内閣)。その後軍部の不満が政治を歪めて行き、日中戦争、大東亜戦争、太平洋戦争と歴史は進みますが、
    彼ら、アングロ・サクソン達は利権をどうするかのゲームをしている事に目を向けていれば、当時の彼らの情報収集の成果が日本を内部分裂さした策略がよく判ります。

    増してや、戦争中にミッドウェイ海戦、硫黄島、沖縄戦などは、日本の情報が漏れている事に対策しないで戦った日本指導者は、自己反省して責任を表明するべきだと思いますね。

  • 【 犯行に至るまでの過程 】

    1889年(明治22年)、増淵倉吉は群馬県で生まれた。母親は前夫と3人の子どもをもうけながら愛人のもとへ走った。倉吉はその愛人との間にできた子である。そういう事情から出生届けをせず、倉吉は12歳になって初めて戸籍を得ている。倉吉は初めは牛馬の革をなめす製革職人だったが、やがて高崎で和菓子の製造を習って菓子職人になった。

    1921年(大正10年)、倉吉は上京し、浅草で独立して小さな店をもった。やがて結婚して2人の子どもをもうけた。

    だが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)に遭い、妻と2人の子どもを捨てて、大阪での再起を目指して汽車に乗った。その車中で、同じく被災した、みやという女性と知り合いになった。話を聞くと、みやは夫と2人の子どもを震災で失い、行く当てもないという。同情した倉吉は大阪でみやと結婚したが、運が悪く商いがうまくいかなかった。(みやは汽車の中で知り合った人ではなく、近所に住んでいた人妻で倉吉と駆け落ちした、という説もある)

    1926年(大正15年=昭和元年)、大阪から名古屋へ移った。そこで、倉吉は中区の「納屋橋饅頭(まんじゅう)店」の職工長として働き、みやは裁縫の師匠をしていた経験を生かして、日出町の自宅に「裁縫所」の看板を掲げた。翌日から近所の若い娘が次々とやってきた。すべてが順調に進んでいった。裁縫を習いに来ていた娘たちの中には16歳のます江もいた。

    夫婦は円満で、平穏な日々が続いていたが、1929年(昭和4年)末、みやが風邪がもとで寝込んでしまった。元々、体は丈夫なほうではなかった。「裁縫所」は閉めるしかなかった。それまで「裁縫所」に通っていた弟子たちは師匠のみやを見舞いに来ることはなかったが、ます江だけはみやの看病をした。そして、今度はミシンを習い始めた。しかし、1年経っても、みやの病気はいっこうに良くならなかった。貯金は薬代に消えていき、倉吉の給料だけでは病人を養うことはできなかった。こうした事情から、みやは名古屋医大病院に施療患者として入院した。どうやら肺結核に罹ってしまっていたようだった。

    みやの入院が原因かどうか不明だが、倉吉は湯屋ノゾキをたびたびやらかし、警察の厄介になったことがあった。

    また、倉吉の気持ちがぐらつき始めた。ある日、流しで茶碗を洗っているます江の後ろ姿に視線を注いだ倉吉は我慢ができなくなり、半ば暴力的に情交を結んだ。最初は倉吉の暴力を憎んだます江も次第に恋愛感情を抱くようになっていった。

    倉吉は44歳になっていたが、華奢な体つきをしており、容貌も優しげであるところから年齢よりはるかに若く見えた。

    また、この頃、民間の宗教繁昌期で、天理教、大本教の大手の活動に加えて、生長の家、ひとのみち教団(現・パーフェクト・リバティー教団、略称・PL)などの新宗教団体が発足し、人々の不安を吸収して急成長していった。そうした風潮もあって、倉吉も宗教には関心を示していた。ます江の死体のそばにも数珠を残していたが、御獄教、不動尊、お稲荷さん、観音さまなど、さまざまな神仏を信仰しており、豊川稲荷、大和信貴山のお守りを常に肌につけていた。みやも岐阜県加茂郡田原村の迫間不動を信仰しており、病床で自分が死んだら、ぜひともお詣りしてくれと倉吉に頼んでいた。


  • *ノワイエ仏中銀総裁
    ユーロ圏の経済回復は米国の回復にくらべて遅れているにもかかわらず、ユーロが高くなっているのは興味深い。経済のロジックがあわず、エコノミスト全員がこの数ヵ月の間に流れが変わってくるだろうと予想している。

  • >>No. 5978350

    靖国神社に行ってみる。

    大きな鳥居(鳥居のチャンピオン)・・東京九段の坂
    鳥居というのは、神社の参道の入り口に立てられた門の様なもの。『神道の神様のお使えする鳥がとまっている所。』とい意味です

    門をくぐると、左側にのっぽの国家掲揚塔、てっぺんに日の丸の大きな旗。右側に「さざれ石」があります。(大鳥居の手前の植え込みの中に置かれている。)
    「さざれ石」は長い歳月をかけて、砂や石が集まって、大きく成長する。

    参道を真っ直ぐ歩いてい行くと、日本刀を差した銅像は「大村益次郎」です。この人は日本で西欧式の近代的な軍隊の基礎を作り上げた人です。「日本陸軍の父」と呼ばれている。

    次は二つ目の鳥居。青銅の鳥居のそばに一対の大きな石燈籠があり、下の方にレリーフがある。右側に陸軍左側に海軍の戦闘場面で日清戦争、北支事変(毛沢東共産党軍)、日露戦争、第一次世界大戦が刻まれている。

    二つ目の門をくぐる前に手を洗ったり、口をゆすいだりする場所、参拝する前の身を浄める習慣が神道にあります。

    そして、大きな門が「神門」といい、神門についている大きな金色のマークは、菊の花のデザインで、菊の御紋です。皇室の紋です。花弁は16枚です。

    この紋章は、見ようによっては、光り輝く太陽に見えませんか。このマークは「ひのもとの国」、日本を表すエンブレム、つまり日本の国章でもあります。

  • 靖国問題というのは、実は一つの問題ではない。確かに、靖国問題というと、首相の靖国参拝に対するシナや朝鮮からの批判、あるいは首相参拝の是非を巡る国内の論争や対立を連想する。

    しかし、靖国問題は、英語で言うと、ヤスクニ・クエッションズーつまり、複数形です。日本は勿論、色々な国の、色々な立場の人たちが、いろいろな関心を寄せている。多くの問いから成り立っている。

    靖国問題には、政治や外交、法律の上で議論がされている。(政治的・外交的な解決や、法律的な決着を必要する問題ーと、学問や思索を深めるものがあります。

    また、靖国問題というくらいですから、靖国神社が主役であるのですが、靖国神社を超えたところにあるといも含まれている。

  • >>No. 5978091

    <日本の産業競争力が低下したことが原因ではないことに注意すべきです。>

    元々、ピント外れの話だったんだよね。本質は経常収支は何故赤字か。

  • >>No. 5978087

    安倍政権は、政治的な思惑もあり、今のところ輸出を復活させるという従来型の経済政策を掲げている。だが、国債の消化余力が減少したり、資本の海外流出が顕著になってからでは時はすでに遅い。

    経常赤字の影響がまだ顕著になっていない今こそ、経常赤字を前提とした経済政策へ舵を切るタイミングである。

  • >>No. 5978082

    この一時的な好景気によって日本メーカーの体質転換は遅れ、それがリーマンショック、さらには震災によるショックなどで一気に問題が顕在化してきたというだけの話である。

     数字はある意味で非常に正直である。日本の製造業は世界一と自画自賛している段階で、すでに貿易黒字の減少は進んでいた。その教訓を現在に当てはめるなら、やはり日本が警戒しておくべきは経常収支の慢性的な赤字化であり、それに伴う国内の資金不足である。

  • >>No. 5978080

    この実態を覆い隠すきっかけとなったのは実は米国のバブル経済である。米国は不動産価格が高騰し、国内では過剰な消費が横行した。

    これによって米国は日本から大量の製品を輸入するようになり、本来は輸出不振が始まっていたはずの日本の製造業を一時的に潤すことになった。

    日本では米国のバブル経済や過剰消費を批判する声が大きいが、米国バブルの恩恵を最も受けたのは、実は日本の製造業なのである。

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