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徒然なる団塊部屋の掲示板

 こんにちは。
今日は2月14日、バレンタインデーですね。みなさん、義理チョコでも貰いましたか?
 この男女のお祝いのバレンタインデーに、むかし、アメリカでは無残な虐殺事件が起こっています。

〇 「血のバレンタインデー」
 1929年(昭和4年)の2月14日、午前10時半ごろ、シカゴのクラーク通りにある空倉庫にシカゴのギャングとして知られる「B・モラン」の手下どもが、強奪したウイスキーを搬送するために集まって居ました。そこへ5人の警官がやってきて彼らに壁に並ぶように命じました。

 モランの手下たちは、なんで警官たちが入って来たのかわからず、全く無防備のまま、警官のマシンガンの前に蜂の巣の様に撃たれてバタバタと倒れました。これが「血のバレンタイン事件」と言われるものです。この警官たちは、実はギャングの親分「ある・カポネ」の子分たちが変装した偽警官だったのです。当時ギャングの親分「カポネ」と「モラン」は、シカゴの密造酒の縄張り争いで対立していたのです。

 この日、親分の「モラン」は遅れてやってきて、倉庫の前にパトカー(にせの)が止まっているのを見て、てっきり警察の手入れだと思って逃げ出して助かっています。
 ニセ警官を仕立てたのはモランと勢力争いをしていた、シカゴの暗黒街の顔役「アル、カポネ」だと思われましたが、その日は「カポネ」はマイアミの警察で取り調べを受けていたという完全なアリバイがあり、犯罪を立証する証拠は何一つありません。そこでこの血の虐殺事件では誰一人として逮捕されず、相手のモランも1957年まで生き延びています。

 しかし、その3年後に「カポネ」は脱税の罪で起訴されて7年間を刑務所で過ごしました。そして出獄後は完全に落ちぶれて、無一文同様の身となり、持病の梅毒が悪化し、心身も消耗して妄想に悩まされるようになり、ついに1947年、48歳で肺炎で死亡しました。         しらん

    (暗黒街の顔役)アル・カポネ
                            ・・・・

徒然なる団塊部屋  こんにちは。 今日は2月14日、バレンタインデーですね。みなさん、義理チョコでも貰いましたか?  この男女のお祝いのバレンタインデーに、むかし、アメリカでは無残な虐殺事件が起こっています。  〇 「血のバレンタインデー」  1929年(昭和4年)の2月14日、午前10時半ごろ、シカゴのクラーク通りにある空倉庫にシカゴのギャングとして知られる「B・モラン」の手下どもが、強奪したウイスキーを搬送するために集まって居ました。そこへ5人の警官がやってきて彼らに壁に並ぶように命じました。                               モランの手下たちは、なんで警官たちが入って来たのかわからず、全く無防備のまま、警官のマシンガンの前に蜂の巣の様に撃たれてバタバタと倒れました。これが「血のバレンタイン事件」と言われるものです。この警官たちは、実はギャングの親分「ある・カポネ」の子分たちが変装した偽警官だったのです。当時ギャングの親分「カポネ」と「モラン」は、シカゴの密造酒の縄張り争いで対立していたのです。   この日、親分の「モラン」は遅れてやってきて、倉庫の前にパトカー(にせの)が止まっているのを見て、てっきり警察の手入れだと思って逃げ出して助かっています。  ニセ警官を仕立てたのはモランと勢力争いをしていた、シカゴの暗黒街の顔役「アル、カポネ」だと思われましたが、その日は「カポネ」はマイアミの警察で取り調べを受けていたという完全なアリバイがあり、犯罪を立証する証拠は何一つありません。そこでこの血の虐殺事件では誰一人として逮捕されず、相手のモランも1957年まで生き延びています。   しかし、その3年後に「カポネ」は脱税の罪で起訴されて7年間を刑務所で過ごしました。そして出獄後は完全に落ちぶれて、無一文同様の身となり、持病の梅毒が悪化し、心身も消耗して妄想に悩まされるようになり、ついに1947年、48歳で肺炎で死亡しました。         しらん      (暗黒街の顔役)アル・カポネ                             ・・・・

  • >>176

    しらんさん、みなさんこんにちは、、

    2/24のバレンタインデーと、そのお返しのひと月遅れの3/24のホワイトデー、最近はどうも少し熱が冷めて来たような気がするのですが、どうでしょうか。

    1929.2.24の「血のバレンタインデー」の話では、昔の思い出のサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフと湾に浮かぶアルカトラズ島を思い出します。映画のクリント・イーストウッドの「アルカトラズからの脱出」も中々良かった。

    それと、1929年と言えば、あのニューヨーク株価の暴落の年で、この後の日本の農村の窮状が、日本が軍国主義に走り出した背景の一つだった。シランさんは現実にその時代を生きてこられたのですね。以下は以前別カテに投稿した文章の一部です。

    ***
    前の戦争については人それぞれに考えはあると思いますが、あの敗戦を経た事、戦後の日本人の頑張り、その結果の現在日本があると思う。1929年のニューヨーク株価の暴落後の日本では、最も悲惨をきわめたのが地方の農村社会で、小作人という土地を持たない農民は地主に小作料として米の半分を取られていた。

    常食は稗ぬかや楢の実で、味噌もぜいたく品になり、それらをただ塩で味付けしただけの食事になっていった。毎日が最低の生活の農民がさらに困る生活とは、彼ら家族が黙って死んでいく生活である。

    そして、かの地方では娘を売る事が瞬く間に広がり、売られた娘は都会で娼婦や女給になった。その頃海辺で自殺した沢山の売春婦は、「ダンゴ」と言われてニュースにもならなかった。こうした農村の窮状は、農村出身者の多い兵卒や、青年将校たちの心に影を落としていった。***