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国内外事情の掲示板

日本​[編集]

1512年に記録上に初めて登場している[40]。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播から、わずか20年でほぼ地球を一周したことになる。

戦国時代から江戸時代初期の著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などが梅毒で死亡したとみられている。本病が性感染症であることは古くから経験的に知られ、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた。江戸の一般庶民への梅毒感染率は実に50%であったとも推測される[41]。

抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害を抱えたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。

昔は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、夜鷹などには『鼻欠け』が多かったので、「鷹の名にお花お千代はきついこと」などと川柳に詠われた。“お花お千代”は“お鼻落ちよ”にかかっている。

同様の症状を呈するハンセン病と同一視されていた時期があり、ハンセン病を患ったダミアン神父は、梅毒と誤認されて姦通の嫌疑を受けた。

日本語の「梅毒」という呼称については、この病気によって生じる瘡が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたため「楊梅瘡」と呼ばれていて、これが時代とともに変化したとする説がある。

江戸時代末期、長崎の稲佐の地に丸山町と寄合町の遊女が出張して、ロシア人の船員達の相手を務めることになった。この際、ロシアの海将ニコライ・ビリリョフは、遊女の梅毒検査をするよう要求した。長崎奉行岡部長常は長崎海軍伝習所の松本良順に対応を諮問し、良順はこれを受けるべきと回答した。これにより、万延元年(1860年)、日本初の梅毒検査が長崎で実施された。