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昔 の 東京 の 花街 や 芸者 には 、・・・、
それぞれに、独自な 土地柄 や 気風 が、あったようです。
なんとなく、 分かります。
土地柄 は 、たぶん、今も、そう 変わらない ように思います。
「柳橋」 江戸期の 日本舞踊・三味線 師匠 の流れ を引き、
基本的に 江戸っ子の ベランメイ女 で、
明治期 の 官僚・役人 となった 田舎武士 とは、
まったく 反り(そり) が 合わなかった。
「深川」 お侠(おきゃん)で、面長で 義理堅く、
人情に 脆い 深川芸者 は 、江戸期 から 有名。
「日本橋」 魚河岸 を 近傍に 控えていたせいもあり、
張り の 強い 下町風 の 昔の 江戸 町芸者の
気風 が 残り、官吏・政治家 には、 向かない。
「新橋芸者」 商売 と捉え、現金主義 、 人みしり しない。
維新 の 志士 との 付き合い が 深く、
明治期 に入って 柳橋 を 凌駕 。
「赤坂・山王」 軍人 や 政治家 を ターゲット にして 繁昌。
「湯島」 地元商家の 旦那衆 や、本郷界隈 の
学生客 が 多かったそう。 -
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「次の首相」1位は石破茂氏25% 岸田首相は1% 世論調査
2/18(日) 18:10配信
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毎日新聞
次の首相にふさわしい人(敬称略)
毎日新聞は17、18日実施の世論調査で、「次の首相にふさわしい人」を自民党の国会議員8人の中から選んでもらった。最も多かったのは石破茂元幹事長の25%で、上川陽子外相の12%が続いた。3位は高市早苗経済安全保障担当相、小泉進次郎元環境相の各9%だった。
【写真で見る】開成高校時代の岸田首相
5位は河野太郎デジタル相の7%、6位は野田聖子元総務相の2%、7位は岸田文雄首相と茂木敏充幹事長の各1%だった。「この中にはいない」との回答も34%に及んだ。
石破氏は60代と70歳以上の約3割が名前を挙げるなど、年配者からの支持が厚い傾向があった。上川氏は女性、高市氏は男性の支持が多かった。
自民支持層に限って見ると、1位石破氏▽2位小泉氏▽3位上川氏▽4位高市氏▽5位河野氏▽6位岸田氏▽7位野田氏と茂木氏――だった。【小田中大】 -
共産主義の中国は、土地の私有は認められず、使用権を自由に売買することもできない。
2人目の政策アドバイザーは「土地制度の改革を前に進めなければならない。多くの土地が有効活用されていない」と提言したが、指導部は積極的に動いていないと付け加えた。
<消費抑える出稼ぎ労働者>
戸籍制度は、毛沢東政権時代の飢饉において、食糧配給と人民の出生地をひも付けし、飢えた農民が大挙して都市に流入するのを防ぐ目的で導入された。
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この都市戸籍と農村戸籍を厳密に分ける仕組みにより、約3億人に上る出稼ぎ労働者の多くは、行政サービスを受けられる範囲が限られてしまう。
都市住民に比べれば医療費の還付額は少ないし、退職までの積立金でも雇い主からの拠出金は得られない。
結果として彼らは所得をより多く貯蓄に回し、マクロ的には当局が経済成長のより明確なけん引役になって欲しいと考えている家計消費が上向かない。
人民銀行(中央銀行)のアドバイザーの1人は、出稼ぎ労働者の消費額は都市戸籍取得者を23%ほど下回っており、中国の国内消費に換算すると国内総生産(GDP)の1.7%、2兆元(2810億ドル)を逸失している可能性があると推計する。
中国では、供給過剰に陥っている集合住宅の需要喚起も必要不可欠の課題だ。GDPの約25%を占める不動産市場は、民間デベロッパーの相次ぐデフォルト(債務不履行)で混乱が続いている。
ハーバード大学のマーティン・ワイト教授は、出稼ぎ労働者と都市住民の間での扱いがより公平になり、前者の雇用や福祉サービスの環境が上向き、住宅を買えるようになれば、不動産市場は相当程度改善すると予想した。
<天国と地獄>
ただ、中国指導部にとって、制御不能なほどの人数が都市に流入すれば、リスクをもたらしかねない。
2017年には、北京で出稼ぎ労働者の居住地域に火事が発生した後、市当局は都市戸籍を持たない人々を「追放」する取り組みに乗り出し、中国では珍しい政府への批判が高まった。
北京や上海、深セン、広州といった巨大都市は、社会の安定や調和の観点からこの先何年も、新たな人口流入に窓を開く「チャンスはない」とジャー氏は言い切る。 -
11/24(金)
かつては根拠薄弱な陰謀論とも言われていた「研究所流出説」。しかし、ここに来て米エネルギー省やFBIが、ウイルスは中国の研究所から流出した可能性が高いと指摘。重要人物がついに口を開いた。
「新型コロナウイルスは中国軍の生物兵器として開発され、意図的に武漢にあるウイルスの研究施設から漏洩されたものです。
いま、アメリカで新型コロナの発生起源に大きな関心が集まっている。今年2月に米エネルギー省が、「武漢のウイルス研究所から流出した可能性が高い」とする報告書をまとめたことをはじめ、米連邦捜査局(FBI)のクリストファー・レイ長官も、2月28日放映のFOXニュースで「研究所の事故である可能性がもっとも高い」と述べるなど、次々と「研究所起源説」を支持する声が上がっているのだ。
その源流を作ったのが、イェン博士である。この4年間、決死の覚悟で「武漢研究所流出説」を訴え続けてきた博士は、世界保健機関(WHO)認定のウイルス研究の権威である香港大学公衆衛生学院の研究員だった。'19年12月、武漢で広がり始めた原因不明の感染症の調査を命じられた彼女は、感染拡大の隠蔽に躍起になる中国政府の姿を目の当たりにする。
イェン博士は、香港大学の研究所の上司から「武漢の人々がラクーンドッグ(タヌキ)を食べるという情報を集めてほしい」という不可解な指示を受ける。
「同じコロナウイルスで肺炎を引き起こすSARSが'02~'03年に流行した時、まずハクビシンが宿主となって人間に感染したことを突き止めたのは香港大学でした。中国政府は新型コロナでも、中間宿主を動物とするストーリーを描き、それを権威ある香港大学に公表させたかったのでしょう」
しかし、いくら調べても武漢の市場にタヌキは売られておらず、武漢の住民がタヌキを食べるという情報もなかった。
「自然発生説によれば、新型コロナウイルスはセンザンコウやハクビシンなどの中間宿主内で変異し、人間への感染確率を高めるとされています。しかし、新型コロナウイルスには人間の細胞と結合しやすいスパイクタンパク質が含まれており、これは自然発生説の中間宿主に関する理論や実験結果と一致しません。そして、これらの部位には、人為的な改変の痕跡がはっきりとあります」 -
水田機能維持し麦など生産“不適切交付”130億円余 会計検査院
2023年10月23日 17時03分
水田の機能を維持しながら麦や大豆などの作物を生産する農家への交付金事業を、会計検査院が調査した結果、水田としての活用が実質的に難しいものや、必要な収量確認が適切に行われてないケースに、130億円余りが交付されていたことが分かりました。
農林水産省は、食料自給率の向上などを目的に、水田機能を維持しながら麦や大豆、それに飼料作物を生産する農家や企業への交付金事業を行っていて、会計検査院は2020年度と2021年度に交付されたおよそ2400億円の状況を調査しました。
その結果、
▽農業用ハウスなどが設置され水田の維持が難しくなっていた、延べ1547の農業者に7000万円余りが交付されていたほか、
▽代わりの作物の収量が基準を下回っていた、延べ3177の農業者に40億円が交付されていたことが分かりました。
また、
▽生産実績や収量が正確に把握できていないケースなども、延べ1万件余りあり、100億円が交付されていました。
これらの適切でないケースに、重複を除き130億円余りが交付されていたということです。
会計検査院は農林水産省に対し、水田の機能を維持していると判断する基準を明確に定め、収量の適切な把握をするよう改善を求めました。
農林水産省は「指摘を真摯(しんし)に受け止め、交付金の適切な運用に努めていく」としています。 -
.なぜ米国はイスラエルを支援するのか
第2次大戦以降、イスラエルが米国から受け取った支援額はミサイル防衛の資金を合わせ約1580億ドル(現在の為替レートで約23兆6000億円)と、他のどの国より多い。48年の建国宣言後、最初の20年間はイスラエルが米国の特に親しい同盟国というわけではなかった。60年代と70年代にソ連がイスラエルと敵対するアラブ諸国を支援する中で、冷戦の打算もありイスラエルに接近した。91年のソ連崩壊までには、米国とイスラエルの関係に新たな支えが生まれる。米国民の支持だ。反ユダヤ主義の後退で積極的に発言するようになったユダヤ系米国人は、議会とホワイトハウスがイスラエルと緊密な関係を維持することを期待している。
イスラエル建国がキリスト再臨の予兆だと信じるキリスト教福音派も同じだ。イスラエルの初期段階の左派的方向性やユダヤ人との関係もあって、同国支援はもともと民主党の政治目標だった。しかし、キリスト教福音派が共和党支持に傾いているため、超党派の政策となった。イランのイスラム革命、2001年9月の同時多発テロなど米国を標的とするイスラム主義者の攻撃を受け、米国人はイスラエルに敵対する勢力に理解を示さなくなった。 -
ヨルダン川西岸地区はどんな状況か
約300万人のパレスチナ人とイスラエルからの入植者約46万人が生活する西岸地区は、オスロ合意に基づき、パレスチナ自治政府が統治している。イスラエルと共存するパレスチナ国家樹立とエルサレムの帰属問題決着に向け、パレスチナの最終的地位交渉を進めることを前提とした暫定自治の取り決めだったが、衝突激化で協議は中断したままだ。 -
現代ビジネス
現代ビジネス
ケネディ大統領「暗殺」の陰謀論の原因となった「一人の外科医」…その「驚愕の秘話」
週刊現代 によるストーリー • 4 時間前
ケネディ大統領と暗殺犯を手術したのは同じ外科医だった
'63年11月22日、テキサス州ダラス市内をパレード中だったジョン・F・ケネディ米大統領が銃撃され、近隣のパークランド記念病院に運ばれた。何人もの医師たちが懸命に治療にあたるなか、執刀医の一人マルコム・ペリーは患者の呼吸がおかしいと気づき、喉と気管を切開して肺に空気を送り込むためのチューブを通す「気管切開」という処置を行った。しかし必死の治療もむなしく、ケネディは到着から22分後に亡くなってしまう。
事件の2日後、当直を務めるペリーのもとに小柄な男が救急搬送されてきた。彼の名前はリー・オズワルド。ケネディを射殺したとされる容疑者だった。オズワルドは警察署から護送される際にジャック・ルビーという男に銃撃され、その日のうちに病院内で亡くなった。奇しくもペリーは暗殺犯と被害者の手術をともに担当し、両者の死を見届けたのだ。
Photo by gettyimages
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© 現代ビジネス
数奇なのはこれだけにとどまらない。何かと陰謀論が取り沙汰されるケネディ暗殺事件だが、実はこの外科医も原因の一端を担ってしまっている。ケネディは後方から2発撃たれたため、体内に弾が残っていない以上、それぞれの射入創と射出創、合計で4つの銃創が体にあるはずだった。しかし検死解剖では銃創が3つしか見つからない。実はペリーが気管切開をする際に、喉にあった射出創の上から切開してしまい、銃創が見えにくくなっていたのだ。
そのうえペリーら医師たちはケネディの首の後ろ側にあった射入創を確認せず、手術後の記者会見にて喉の射出創を誤って「射入創」と呼んでしまった。言葉通りに受け止めれば、ケネディは前方からも撃たれていたことになる。こうしたミスが積み重なり、「もう一人の犯人がケネディを前方から撃った」「政府は不都合な真実を隠している」といった陰謀論が広まってしまった。
その後、正式な解剖報告書では後方から2発撃たれたという事実が確認されている。しかし歴史に残る手術を担当した外科医は、違った形でも名を残してしまった。(岸) -
2019年2月4日、鳥取大学の岡崎健治らの研究チームが、
中国・上海の広富林遺跡で出土した女性人骨から 約5千年前の結核発症の痕跡
を発見したことを明らかにした。東アジアでは最古の結核症例という。人骨は埋葬された20~30代の女性のもので、2010年に出土した184体の人骨を分析する過程で発見した[30]。特徴的なのは、背骨の胸椎と腰椎の一部に、結核が原因で骨が溶解・癒合する病気「脊椎カリエス」の症状が認められた。
結核は 縄文時代の日本列島では未確認で、研究者は弥生時代に渡来したと考えられており、今回の発見は、結核はこの地域から稲作文化とセット で日本にもたらされた可能性を示唆するという。 -
1万年前日本列島
の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなった。この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となった。木の実の生産性は照葉樹林より落葉樹林、特に暖温帯落葉樹林が圧倒的に高いため、こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したといわれる。氷河が溶けて海面が上昇し、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込ん奥東京湾などを形成したのもこの高温期のことである(いわゆる縄文海進)。
4500年前から
気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。
弥生時代以降、
稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長した。歴史時代にはいると人口推計の方法は戸籍など文献資料が中心となる。8世紀を過ぎて人口成長率は落ち、10世紀以降は停滞的となったとみられる。理由としては、律令制的な水田開発に代わって主流となった荘園領主の土地開発が限界に達したためと考えられる。
16~17世紀は、
農耕の開始に次ぐ人口革命の時期である。戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられる。18世紀に入るとこうした動きは限界に達する。江戸、大坂といった新たに誕生した巨大都市は、高い未婚率と衛生状態の悪さから人口のマイナス要因となっていた(都市蟻地獄説)。かつての大都市の平均寿命の低さについては図録7254参照。16~17世紀の人口急増に伴って日本人の身長が縮んだ点については図録2182参照。 -
ハンセン病はいつ頃から出現したのですか?
大変古くから存在する病気です。今から4000年前(紀元前2000年ごろ)に、エジプト、中国、インドの古い文書こもんじょにハンセン病について書かれています。日本では、1300年前(8世紀前半)につくられた「日本書紀にっぽんしょき 」という歴史書に100年前(7世紀前半)の出来事として「白びゃくらい」(皮膚にできる白い発疹)のことが記されています。 -
日本[編集]
1512年に記録上に初めて登場している[40]。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播から、わずか20年でほぼ地球を一周したことになる。
戦国時代から江戸時代初期の著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などが梅毒で死亡したとみられている。本病が性感染症であることは古くから経験的に知られ、徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた。江戸の一般庶民への梅毒感染率は実に50%であったとも推測される[41]。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害を抱えたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。
昔は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、夜鷹などには『鼻欠け』が多かったので、「鷹の名にお花お千代はきついこと」などと川柳に詠われた。“お花お千代”は“お鼻落ちよ”にかかっている。
同様の症状を呈するハンセン病と同一視されていた時期があり、ハンセン病を患ったダミアン神父は、梅毒と誤認されて姦通の嫌疑を受けた。
日本語の「梅毒」という呼称については、この病気によって生じる瘡が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたため「楊梅瘡」と呼ばれていて、これが時代とともに変化したとする説がある。
江戸時代末期、長崎の稲佐の地に丸山町と寄合町の遊女が出張して、ロシア人の船員達の相手を務めることになった。この際、ロシアの海将ニコライ・ビリリョフは、遊女の梅毒検査をするよう要求した。長崎奉行岡部長常は長崎海軍伝習所の松本良順に対応を諮問し、良順はこれを受けるべきと回答した。これにより、万延元年(1860年)、日本初の梅毒検査が長崎で実施された。 -
渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡かさ発いでて死みまかる者――身焼かれ、打たれ、摧くだかるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も、天然痘の可能性が指摘されている。
735年から738年にかけては、西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。
この時の天然痘について『続古事談』の記述から、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって、同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている[11]。奈良の大仏造営のきっかけの一つが、この天然痘流行である。
16世紀にキリスト教布教のため来日した、カトリック教会イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は、天然痘によるものと考えられる -
横井湘南
鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。
小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。
体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。
共和制(大統領制)を「尭舜の世(禅譲)」と評したことでも知られる -
哲人政治と衆愚政治
哲人政治の「哲人」という言葉ですが、
これは「魂を構築する要素の中で、最も理性を占める割合が多い人」
を指しています。
「哲人」という言葉を理解する前に、
まずは「魂の三分説」というものを簡単に紹介しておきます。
これもプラトンという哲学者が生み出したもので、
「魂は三つの要素、理性・意思・欲望からできている」
という思想です。
その中でも「理性」は
「意思」と「欲望」の舵を取る役割を果たしています。
プラトン魂の三分説をわかりやすく
プラトンはその理性の多い人間を「哲人」と考え、
その「哲人」が政治を行う体制のことを「哲人政治」と呼びました。
哲人政治と衆愚政治
プラトンは一言でいうと、
「自分達のような哲人(=哲学者)が政治を行うえば、理想的な国家を創れる」
と主張したのです。
しかしこれには、それなりの理由があります。
それは「衆愚政治」が原因です。
衆愚政治とは「民主制」が腐ったものです。
おどろくかもしれませんが、
「民主主義」は古代ギリシア時代から採用されていました。
民主主義のいいとことは、
市民全員が政治に参加できるところです。
しかし、それが逆効果となり、
当時の選挙で勝つのは口がうまいとか、
単に人気があるだけとか、そんな人物でした。
そんな人物ばかりが政治を行うと、
まぁ政治はうまく機能しなくなります。
この民主制が腐った状態のことを「衆愚政治」と言います。
哲人政治のメリット
そして、この衆愚政治を生み出す「民主制」を否定し
「哲人政治」がベストだと考えたのがプラトンでした。
プラトンは「哲人」こそが「理想的な国家」
を知ることができると考えていたのです。
それはプラトンが「イデア論」という思想を「核」にしていたからです。
プラトンの思想をものすごく簡単に説明すると、
「理想的な国家をつくるためには、理想的な国家を知っていなければならない
それを知ることができる人間は哲人のみ!!」
って感じです。
プラトンはエリートが政治を行うべきだと考えていました。 -
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okabe 2021年1月2日 19:46
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