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ノートの掲示板

電気自動車に惚れ込んだ2人の起業家

 このころ、「リチウムイオン電池駆動のクルマ」というアイデアに惚れ込んだ起業家が北カリフォルニアにも2人いた。マーティン・エバーハードとマーク・ターペニングである。2人は1997年にヌーボメディアという会社を立ち上げ、電子ブックリーダー草創期に「ロケットイーブック」を開発している。この業務を通じて、最先端のデジタル家電の世界に精通し、ノートPCなどのリチウムイオン電池の驚異的な進化も知っていた。

 電子ブックリーダーは時代を先取りしすぎて商業的には失敗に終わったが、その技術力はTVガイドなどの電子番組ガイド技術を持つジェムスター・インターナショナルの目に留まり、2000年3月にジェムスターがヌーボメディアを1億8700万ドルで買収する。莫大な利益を手にした後も2人は連絡を取り合い、シリコンバレーの高級住宅街に移り住み、次のターゲットを探していた。

 エバーハードは才能あふれるエンジニアだが慈善活動にも熱心で、地球温暖化対策にも早くから真剣に向き合っていた。そのため、ガソリン車に代わる代替策には敏感だったのだ。まずは水素燃料電池の可能性を探ったが、いまひとつだった。かといって、ゼネラルモーターズ(GM)が発表した電気自動車「EV1」のリースというアイデアもピンとこなかった。

 そんなとき、ACプロパルジョンが提唱する「100%の電気自動車」というアイデアには大いに興味をそそられた。エバーハードは2001年にACプロパルジョンを訪れ、「50万ドル出すので、鉛蓄電池ではなく、リチウムイオン電池版を作ってもらえないか」と頼んだが、受け入れてもらえなかった。そこで自ら会社を起こし、リチウムイオン電池の電気自動車を開発しようと考えた。

 エバーハードは、重量、バッテリー搭載数、タイヤや車体の抵抗などといったバランスを調整しながら最適な形状と性能を検討した。その結果、当時流行っていたSUV車や小型トラックでは難しいことがわかった。軽量の高級スポーツカーに最適だと結論を下した。走りが速く、運転する楽しさがあるのはもちろんだが、人々の予想を超える走行距離を確保することも大切だ。

 一方、仲間のマーク・ターペニングは、電気自動車購入者層の財務面を調査していた。これにエバーハードの技術仕様を重ね合わせ、プロジェクトの実現性を探ろうとしたのである。当時、カリフォルニアではトヨタのプリウスが発売され、環境問題に敏感な富裕層を中心に広がりを見せていた。

 「ゼネラルモーターズのEV1のオーナーの平均年収を調べたんですが、だいたい20万ドルでした」とターペニング。レクサスやBMW、キャデラックを追いかけていた層にとって、電気自動車やハイブリッド車はまた別の意味でステータスシンボルだった。こうした米国の高級車市場規模は当時30億ドル。2人はこの市場に狙いを定め、富裕層が乗って楽しいクルマの開発をめざすことにしたのだった。

新会社「テスラモーターズ」を立ち上げ

 2003年7月1日、エバーハードとターペニングは新会社「テスラモーターズ」を立ち上げた。電気モーター技術に道を開いた発明家のニコラ・テスラに敬意を表したものであり、同時に響きがよかったことも採用の理由となった。

 数ヵ月後、イアン・ライトというエンジニアが入社する。ライトもまた、電気自動車の可能性を夢見ていたが、身近な友人らに事業プランを話しても、いつも一笑に付されるばかりだった。

 一からクルマの設計・製造を行うには、当然ながら幾多の困難を乗り越えなければならない。テスラの創業者らもそのことは重々承知していた。電気モーターの動力を車輪に伝えるドライブトレーン(動力伝達装置)の開発は決して不可能ではないとエバーハードらは考えた。自動車本体や関連部品の製造工場を造るのも大きなハードルだと彼らは思っていたが、自動車業界を調査しているうちに、実は大手自動車メーカーでさえ、もはやクルマの製造にはほとんどかかわっていないことに気づく。

 「BMWはフロントガラスも内装もバックミラーも作っていなかったんです。大手が今も手放していない部分は、内燃機関の研究、クルマの販売、マーケティング、最終組み立て工程だけでした。素人なもので、全部同じ業者から部品を調達できると僕らは思ってたんです」とターペニングは笑う。

 テスラ社が考えたプランは、ACプロパルジョンからtzeroの技術のライセンス供与を受け、英国のスポーツカーメーカー、ロータスの「エリーゼ」のシャーシ(車体を支える台)を車体に採用するというものだった。ロータスは1996年に2ドアのエリーゼを発売、車高を抑えた流れるようなデザインで高級車ファンの心をつかんだ。カーディーラー業界の関係者の話を聞いた末に、パートナー経由で販売するのではなく、直販方式にこだわることに決めた。

「これはダメですな」

 2003年1月、テスラの3人は資金調達のため、ベンチャーキャピタルまわりを開始する。投資家にリアリティのある話をするため、ACプロパルジョンからtzeroを借り、ベンチャーキャピタルがひしめくサンドヒルロードに乗りつけた。フェラーリよりも加速力がある電気自動車。それだけでも投資家にはぐっとくる謳い文句だった。

 ただ、ベンチャーキャピタルの連中はそれほど想像力が豊かなわけではない。安っぽいプラスチック仕上げのキットカーを目の前にして、その先に生まれるであろう高級車の姿を想像してもらうのは無理があった。反応してくれたのは、コンパス・テクノロジー・パートナーズとSDLベンチャーズだけだったが、どちらもあまり乗り気ではなかった。消極的ながらもコンパスが手を挙げたのは、同社が、彼らが以前に手がけていたヌーボメディアに関わって利益を上げたことがあり、創業者の2人にはそれなりの恩義を感じていたからでもある。

 「『これはダメですな。でも、まあ、この40年、弊社は自動車ベンチャーにはもれなく投資してきたので、今回もお断りはしませんがね』と言われてしまって」とターペニング。多少の足しにはなったが、とても足りない。テスラとしては、試作車開発に必要な700万ドルの大部分をポンと出してくれるメインスポンサーが必要だった。そこまでたどり着けば、現物を使って売り込みができるので、資金調達もスムーズに進むという計算だった。(翻訳 斎藤栄一郎)