投稿一覧に戻る ☆せんちめんたる・じゃーにー☆の掲示板 1318 周防 久美子 2021年4月5日 20:13 「橋田壽賀子さん死去 95歳」 私の姉は「渡る世間は鬼ばかり」が大好きで、たまたま電話が長引いたら「渡鬼(わたおに)始まった!」といきなりパチンと切られた(笑)橋田さんの代表作は「おしん」。2019~2020にかけて「おしん」の再放送があり、こんなストーリーだったのかと、昨年初めて全部を見た。 2019年11月には「おしん」の同窓会が放送され、泉ピン子、伊東四朗、小林綾子、東てる美、大橋吾郎、並樹史朗、の6人が出た。おしん役の綾ちゃんは子役からすっかりお姉さんになった。ピン子さんと四朗さんは、おしんの父母役。てる美さんは、おしんの奉公先「加賀屋」のお嬢様加代。大橋吾郎は加代の息子。並樹史郎はおしんの夫。並樹さんは再放送で見ると、めっちゃイケメンだが、今やただのおっさん(笑) ●脚本家・橋田壽賀子さん死去 TBS系4/5(月) 「渡る世間は鬼ばかり」などを手がけた脚本家の橋田壽賀子さんが、4日、亡くなった。橋田さんは、脚本家として、TBSテレビのドラマ「渡る世間は鬼ばかり」やNHKのテレビ小説「おしん」など数多くの名作を世に送り出した。2015年には文化功労者として顕彰され、昨年秋には文化勲章を受章。 橋田さんは、今年2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。先月には、自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けてきた。その後3日に自宅に戻り、4日午前、息を引き取った。橋田さんの遺志により、通夜・告別式、「お別れの会」などは行われない。 ●泉ピン子コメント。 昨日意識がなくなったとき、「ママ」って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いた、それが最後。クルーズ旅行に行く時と、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せ、私がお化粧をしてあげ旅立った。橋田さんは「千の風になってあなたの周りにいるから」といつも言っていた。「私が先に逝くとは限らないけど」と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。 最後は「千の風になって」をかけて送った。今の私があるのは橋田先生のお蔭。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただいた。私も熱海で暮らすようになり、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思う。 返信する そう思う0 そう思わない0 開く お気に入りユーザーに登録する 無視ユーザーに登録する 違反報告する ツイート 投稿一覧に戻る
周防 久美子 2021年4月5日 20:13
「橋田壽賀子さん死去 95歳」
私の姉は「渡る世間は鬼ばかり」が大好きで、たまたま電話が長引いたら「渡鬼(わたおに)始まった!」といきなりパチンと切られた(笑)橋田さんの代表作は「おしん」。2019~2020にかけて「おしん」の再放送があり、こんなストーリーだったのかと、昨年初めて全部を見た。
2019年11月には「おしん」の同窓会が放送され、泉ピン子、伊東四朗、小林綾子、東てる美、大橋吾郎、並樹史朗、の6人が出た。おしん役の綾ちゃんは子役からすっかりお姉さんになった。ピン子さんと四朗さんは、おしんの父母役。てる美さんは、おしんの奉公先「加賀屋」のお嬢様加代。大橋吾郎は加代の息子。並樹史郎はおしんの夫。並樹さんは再放送で見ると、めっちゃイケメンだが、今やただのおっさん(笑)
●脚本家・橋田壽賀子さん死去
TBS系4/5(月)
「渡る世間は鬼ばかり」などを手がけた脚本家の橋田壽賀子さんが、4日、亡くなった。橋田さんは、脚本家として、TBSテレビのドラマ「渡る世間は鬼ばかり」やNHKのテレビ小説「おしん」など数多くの名作を世に送り出した。2015年には文化功労者として顕彰され、昨年秋には文化勲章を受章。
橋田さんは、今年2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。先月には、自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けてきた。その後3日に自宅に戻り、4日午前、息を引き取った。橋田さんの遺志により、通夜・告別式、「お別れの会」などは行われない。
●泉ピン子コメント。
昨日意識がなくなったとき、「ママ」って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いた、それが最後。クルーズ旅行に行く時と、お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せ、私がお化粧をしてあげ旅立った。橋田さんは「千の風になってあなたの周りにいるから」といつも言っていた。「私が先に逝くとは限らないけど」と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。
最後は「千の風になって」をかけて送った。今の私があるのは橋田先生のお蔭。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただいた。私も熱海で暮らすようになり、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思う。