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任天堂(株)【7974】の掲示板 2023/04/15〜2023/04/19

  • >>107

    なぁにが、『諸君、元気で何よりだ』だ
    誰もおめぇなんか待ってねぇし覚えてねぇわ
    偉そうに

    頓珍漢な日計り取引の末、退場後二年ぶりにバイトで種ゼニ貯めてまた任さまに挑戦しようというその根性は認めてやるわ 笑

  • >>107

    壊王様生きてたんですね!約1年半ぶりの口の臭い書き込みありがとうございます(^ω^)

    ところで今まで何してたんですか?壊王様のことだから給付金詐欺でもして捕まってたのかな?(^ω^;)

  • >>107

    あんたも出てきたんか。
    久しぶりだねえ。
    チャート職人というのは、数学なのに本人にしか理解できないロジックがあるようだ。
    教えます!という類は全てクズだ。

    それからねえ、セレビィの天使的性質で動揺させた過去の挨拶はまずかったと反省しているよ。「ローマの白い羽」補足 エンジェルセラピー
    私には任天堂との交渉をした過去があって、それはもうクズ連中に食いちぎられたよ。
    ーーーーーーーーーーーーーーー
    私はもともと、母親が晩御飯のおかずを買いに行く間に、お店を見てくれと頼まれて一人でお店版をしたのが小学校1年生の時である古いおもちゃ屋で育った。
    プラモデルは中学生から親の手伝いで発注書類を作成していた流れで、高校生の時にはファミコンの仕入れをしていた。
    当時のファミコン流通は初心会という内容が実質的な金融マフィアで、私はそのマフィアの上位の親分から知恵袋として重宝された。
    流通用マフィアである初心会のほかにゲームソフトメーカーに出資する別の金融マフィアを存在した模様で、初心会の兄貴から話を聞いたのであろう情報交換の申し出があった。
    その中で実績を上げたのが、ドラクエグッズという名前で売り出された商品群の立て直しで、文具メーカーの商品に比べて独自発売の文具は競争力が乏しいから、販路であるおもちゃ業界に合わせて、おもちゃの要素を取り入れる必要がある。
    具体的な引用として、ドラクエのコマンド選択式バトルというのが認知されているから、コマンド相当を鉛筆にプリントしてさいころのように使うという提案をした。
    そのまま発売されえたドラクエバトル鉛筆は当時のヒット商品になった。
    その後に話を聞いたであろう他のゲームメーカーが複数打診してきた。
    その中には任天堂も含まれる。
    ポケットモンスターは1996年発売で、もともとはサードが弱小下請けに開発を任せて、完成目前でキャンセルされて世に出ることがなかったであろうゲームだ。
    任天堂との交渉で私はこのゲームソフトを売り出すことを1995年に提案した。
    トレーディングカードゲームの始まりは1994年で、特異な「つくよみ」という手法で因果関係を交えて了解していた私は、ポケモンの発売にあたり関連してポケモンカードも発売することを提案した。
    当時の日本製アニメは、鉄腕アトムがモノクロテレビ時代に注目されたことを始まりに、セーラームーンやドラゴンボールが少数派に注目されるだけだったので、ポケモンのアニメ化を提案した。
    その時にポケモンの資料から偶発的にたとえ話として指定したピカチュウが実現する際に実際にそのまま看板になった。
    こうした骨格からポケモンは世に出て、私が話したのは、ポケモンは良いゲームだという話だけではなくて、メディアミックスと後に言われるようになった営業手法の話が主体だった。
    この大きな個人的な成功は、のちに私の人生を悲惨なものにする。
    任天堂は私を社会的に抹殺して、成果を社内で保留しようと寡作した。
    私は雑談でポケモン構想をしたので、報酬として申し出たのは「セレビィ」というポケモンの採用だ。
    セレビィは2001年に映画に登場して、抹殺された私は2001年8月に統合失調症を発病して7年間は寝たきり同然の状態になった。
    セレビィというのは翻訳書籍にある「インナーチャイルド」「エンジェルセラピー」という紹介される概念に近い私の人格の一部だ。
    セレビィを任天堂が所有したので、私は障碍者申請書に「2001年にセレビィを見て、自分がセレビィだと自覚した」という証言で「ああ、まさに病気ですね」と認定されたんだ。
    そして、病気を克服するためには、セレビィを取り戻すという挑戦が含まれるから、任天堂に攻撃的なテキストを流布するんだ。
    当時私には入社したての今の古川社長が担当者として面会していた。
    古川の事はおたがいに見習い仕事をしている時代に親しく言葉を交わした私の後輩だからどうにも憎み切れないが、古川が社長に上り詰めることが出来たのは、私と接触する担当者になったことで、社内の重要な会議に顔を出したからだろうよ。
    --------------------------
    差し出すことになったセレビィの他に私には報酬の要求をしていたさ。
    1995年に地雷探査犬の話をした。
    任天堂への行動に移す要請とを兼ねてね。
    任天堂はそれで、ある程度は動いたらしい。
    2000年、地雷撲滅運動はノーベル賞を受賞した。
    任天堂が陰でどのような仕事したかは知らない。
    報告と確認は古川から少し受けたよ。
    もしかすると任天堂はノーベル賞で名前が挙がったかもしれなかった。
    そこで次に考えたのが、ドローン型のオートキラーについてだ。
    クアッドローターのドローンが実用になったのちに、オートキラーの私の論述は、個人が記述したマイナーなSNSでの記述であるのに日本のグーグルで「ドローン」という単語を入力して検索すると3年にわたってトップページだったよ。
    地雷犬の時は派生効果としてNPOが普及した。
    オートキラーで仕掛けたかったのは、投資市場に自発的に世界平和のための投資を促す金融市場の創設だ。
    こうした構想は古川へのメッセージでもあり、「今度こそ任天堂がノーベル賞を受賞しなよ」そう激励したんだ。
    古川の社長業として最大級の贈り物だっただろう。
    しかし、私は病人で、任天堂関連の過去経験から、「医者も認めるフラッシュバックの発作」が発生して、話を詰める前に自分でぶち壊したけどね。
    多分ねえ、胸糞悪い殺戮現場を前もって宣伝しておけばウクライナも変わっていたと思うんだ。
    古川がヘタレで敗北宣言できないから、人が死んだと私は思案にッふけっている。