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株と小説創作の掲示板

 常神半島奇譚

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 魚史郎が鯖の運び屋としてしっかり稼げるようになり、たみが文次と所帯を持ち、翌年にははるが京の町へ奉公に行くなど、魚史郎の周辺では次々と変化が訪れた。だが、はるがいなくなって親子三人だけになった弥助の家に、突然の不幸が襲い掛かって来た。

 はるが京の若狭屋へ奉公に行ってしばらくしてから、若狭湾一帯では疱瘡が大流行したのだ。のちに天然痘と呼ばれる流行り病である。不幸にも弥助宅の家族三人がこれに罹ってしまった。
 大恩ある弥助一家である。魚史郎は外出の出来ない弥助の家にせっせと食料や、治療効果があるかも知れないと聞いた薬を運んだ。顔を合わせる訳には行かないので声をかけて裏口に置いて帰っただけである。魚史郎が仕事で京へ出かけているときにはたみが、文次と一緒に実家に帰った。両親と言葉を交わすだけでも、と思ったのだが、声を聞いて元気づけるだけで、顔を合わせることは出来ない。
 数カ月のち、流行が収まった時には多くの人が命を落としていた。弥助宅でもせつとうめは無事回復出来たが、弥助は助からなかった。
 その翌年、享保十四年睦月、今度は若狭地方では大雪となった。六尺を超える雪をかき分けて、かんじきを履いた魚史郎が食料を背負って通(かよ)った。
 そして雪が解けた春に庄屋の勧めもあって魚史郎はせつと夫婦(めおと)になった。魚史郎は四十四歳、せつは三十八歳になっていた。令和から享保の時代へやって来て八年、令和に戻ることは出来ないし、戻りたいとも思わなくなっていたのと、一人暮らしの生活の不便さもあって、せつとの結婚に迷いは無かった。
 せつとうめは住んでいた貝村を引き払い、魚史郎が用意した小浜の家にやって来た。そこは文次とたみが住む長屋のすぐそばで、鯖の運び屋の仕事で稼いだ金で建てた家だった。
 魚史郎にはこの家を建てるとき、ひとつの思いがあった。それは、はなが、京の小間物屋で何年か勤めた後、小浜へ帰って来てここで店を開く事があるかもしれないと思ったので、いつ、そうなってもいいように場所を選んだのであった。
 はなが若狭屋へ奉公に上がって四年目、十九歳になった時、魚史郎は若狭屋の主人に話をした。
 「親方、えらいすんまへんが、そろそろ、はなと順平に所帯を持たせてのれん分けをして貰うわけには行かしまへんやろか」
 順平というのは手代の一人で、同じ若狭から来ていた二つ年上の若者だった。口達者なはなと、どちらかと言えば大人しい順平とは似合いの夫婦になるだろうと前から思っていた。
 のれん分けの話は、はなが勤めに入った時から魚史郎が主人に話していたことなので、主人も、しぶしぶながら応じてくれた。若狭屋が困らないように、読み書きそろばんが出来る代わりの娘を近所で見つけて連れて行った。
 初めは十七歳になっていたうめを、はなの代わりにと思っていたのだが、うめには幼馴染の貝村の漁師から求められて所帯を持つことになり、弥助が建てた元の家を改装して二人の新居とするための普請に取り掛かっていた。
 「そうやなあ、はなと順平が辞められるのは困るけど、ふたりの幸せも考えてやらなあかんしな」
 と、若狭屋の主人が言った。
 この年、魚史郎は四十七歳、体力がだいぶ衰えて来たので運び屋として京に通うのも月に三回ぐらいに抑えていた。はなが店を開いてそれを手伝うことが出来ればそれが新しい生きがいになるだろうと思った。
 そして三カ月の後、暑い盛りの文月(七月)に住まいの一部を改装した店舗が出来上がり、若狭屋を出て、はなは四年ぶりに順平と共に小浜へ帰って来た。
 店の名は二人の名を合わせて《はな順》と決まった。
 ・・・・・・
  はな順では、初め針や糸、端切れなどのこまごました商品を近所のおかみさん相手に商っていただけだが、京とは違って人口の少ない小浜では、開店して数日の間賑わっただけで、その後は一日四~五人の客が訪れて世間話をするだけになってしまった。
 しかし魚史郎は令和から来た人間だ。鯖の運び屋の仕事を徐々に減らして、店で女たちの様子を観察しているうちに、ほとんどの女たちが、手芸をもっと上手くなりたいと思っているようだという事が分かって来た。令和とは違い、この時代には既製品の衣類を売る店は無い。庶民が普段着る物は自分で手縫いするのが当たり前だった。
 そこで魚史郎は考えた。店は十分広いので、その一画を利用して、手芸教室を開くことにしたのである。それまでも店に来た客に、はなが個別に指導するという事はあったが、組織的に、時間を決めて、課題を決めてそれを行うようにしたのである。うわさを聞いて、たちまち、小浜の町内だけでなく近隣の村々からも大勢の女たちが通ってくるようになった。
 江戸時代初期には上流階級の普段着として着用されていた小袖を、ちょうどこのころ京の町では一般庶民も好んで着るようになっていたので、はなはそれを小浜の女たちにも広めようとした。するとそういう流れの中で襦袢や内着などとの重ね着の配色や模様を工夫することが、センスの見せ所という事になって、競って新しい作品を作って皆で見せ合って楽しむようになっていった。
 店が忙しくなって、せつはもちろんだが近くに住む、たみも店を手伝っていた。
 女たちの様子を見た魚史郎は、今度はそれら教室で生まれた作品を、年に一度、競わせて発表会をするようにしたところ、大評判になったのである。男には酒を飲んだり、廓通いをするなど、いろいろの楽しみがあったが、女には何もない。それを狙った魚史郎の目論見は見事成功した。

 小浜の町の女たちは年に一度の発表会を何よりの楽しみとし、そのためにさまざまな工夫を凝らし、小物入れや身の回り用品など、次々としゃれた商品を考案した。そして新しい商品が出来ると、店で買い取って、鯖の運び屋である、たみの旦那たちに託して京の町に売り込みに行った。令和の時代なら誰でもが考えつくような営業戦略だがこの時代としては画期的な販売促進策となったのである。