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徒然なる団塊部屋の掲示板

>>191

ずいきさん

私は東京西部でしたから、学童疎開を受け入れる側でした。
生徒数が、2倍から3倍に増え、教室は身動きがとれないほどでした。

都内から来た子どもは、身なりもこざっぱりして、勉強も良く出来ました。
級長は疎開っ子、威張りチラされ、地元の子らは、力で負けまいとして、諍いばかりでした。
地元の子でしたが、両親のお陰で、疎開の生徒と、身なりも学力も互角でした。
疎開の子は、私を疎開の子だと皆が思っていました。
終戦になり、ほとんどの疎開の子は.元に戻りましたが、残った子もいました。

昼間、青い空に銀色の飛行機が西へ向かって飛んでいました。
当時は、編隊を組んだB29が.山梨方面から、都心に向かってゴーゴーと飛んでいきました。

2月10日の東京大空襲も覚えています。
姉が、学徒動員で、金町にある教科書会社に働きに行っていたのですが、ようやくたどり着いた工場は焼け、焼夷弾が体に刺さって、燃えている状態だったそうです。
電車だけは動いていたのですね。