ここから本文です
ネット小説大賞 ヤフー株板編
投稿一覧に戻る

ネット小説大賞 ヤフー株板編の掲示板

 高校教師

 八  
 三ヶ月が過ぎる頃にはすっかり社員食堂として、毎日しっかりと、川田が期待していた通りの役目を果たせるようになった。スタッフは一人だけ正社員の調理師を雇ったが、ほかはパートで近所に住む農家の主婦の七人だ。皆良く働いてくれる逞しい女たちだった。
 朝、出勤してくると米を研いで業務用の炊飯ジャーのスイッチを入れる。そして前日用意した材料を煮たり焼いたりして料理を作り、十一時頃から盛り付けを始める。早い社員は十一時半ごろに来る場合もある。その日何人の利用者があるかは二日前に人事部の方から連絡がある。社員は現場と事務職と合わせて七十人ほどだが、支店勤務の者、出張中の者や弁当派の者もいて、毎日用意するのは大体四十〜五十人分ぐらいだ。メニューは十〜十五点ぐらいのうちから好きなものを選んでもらうバイキング方式を取る事にした。
 終わった後は残飯をディスポーザーにかけたあと食器をざっと手洗いし、食器洗い乾燥機にかける。そのあと翌日の食材の皮を剥いたり切ったりと、作業が続く一方で、食堂全体を掃除してアルコール消毒を済ませる。それで大体、六時近くになる。慣れてくると、雪乃が何も言わなくても、一連の作業がパートの人達だけでスムーズに流れるようになった。
 ・・・・・・・
 雪乃を川田鉄工へ紹介したあと、『ユキ』へ行く楽しみが無くなった孝太郎は同僚が良く行く学校近くの『辰巳屋』という小料理屋へ行くようになった。雪乃という話し相手のいない酒は少しも‟旨い”ものではなかったが次第に慣れていくより仕方が無かった。
 半年ぐらい経って、久しぶりに、また川田社長から電話があった。今度はその『辰巳屋』で逢おうというのである。ユキが閉店してからはこの店が孝太郎の行きつけの店になっていることをちゃんと掴んでいたらしい。七時頃と言われたが、馴染みの店なので早めに行って待つ事にした。
 「先生、ご無沙汰しています。今日はちょっと、ご報告したいことがあって、ご足労をお願いしました。実は・・・・・」
 と言われただけで、なんとなく予感がしたのだが、やはり、予感は的中した。
 「実は、妻とは仲違いしたつもりは無かったのですが、ほとんど実家へ帰ったきりだったので、たまには娘と二人で帰って来いと言ったところ、田舎住まいにはとても耐えられないので別れさせて下さいと言って来たのですよ。そして娘も取り敢えず妻の実家の方で預かるが、親権は俺の方につけてもいい、と言って来たので、それなら、ということで別れる事にしたんです。そして・・・」
 「分かった。その話を二人で言いに来たということは・・・・・つまり、アレだな、雪乃ちゃんと・・・・・」
 「お察しの通りです。なんか妻から言ってくるのを待っていたように見えるかも知れませんが、決して・・・・」
 「いや、いつだったか、摩天楼で飲んだ時、そんな気がしていたんだよ」
 「そうか、まあ、とにかくお目出とう。今日のここは私の馴染みの店なので、お祝い替わりに勘定は私が持たせてもらうよ。ところで式はどうするのかね」
 「はい、別れてすぐ、というのもまずいので、半年ぐらい後に、近い身内だけでひっそりとやろうか、と考えています。先生にはどうか媒酌人としてご出席をお願いします」
 「分かったよ。雪乃ちゃん、よかったね。本当におめでとう」
 孝太郎は前に、雪乃の自宅で誘われた時、自制心が働いて誘惑をおさえ込むことが出来た事にホッとしていた。あの時、成り行きに任せて雪乃との間で一線を越えてしまっていたら、こんなに気持ちよく二人を祝福する事は出来なかったであろう。
 だが、そう思う一方で、雪乃との間にもっと深い繋がりが出来ていたら、退屈極まりない彼の人生に華やかな色どりを添える事が出来たかもしれないと思うのであった。
 人は誰でも、欲望と自制心がせめぎ合う中で、判断を迫られることがある。教員として長く勤(つと)めているうちに身についた自制心を、くそ喰らえ‼ と思うこともあるが、ようやく校長の辞令を受け取ったばかりの孝太郎にとって、まだしばらくは、謹厳実直の教育者という仮面をかぶっていなければならないであろうと、心に誓うのであった。

           了