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(株)オリエンタルランド【4661】の掲示板 2024/04/03〜2024/04/10

>>653

博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した[1]。開発当初は「新巴里」「第二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。

1911年に開業した阪堺電気軌道は、難波に拠点を置く南海鉄道と路線が競合することになった。ターミナルの立地面で不利な阪堺は、新世界を集客施設と位置づけ、その運営に深く関わっていく。南海は1914年(大正3年)、「ミナミの大火」で壊滅的な被害を受けた千日前に「楽天地」を開設し、対抗した。

新世界のコンセプトは、現在の「テーマパーク」に似ており、フランスの首都パリおよびアメリカ合衆国ニューヨークという、欧米を代表する二大都市の風景を模倣しながら、最新の文化や風俗を輸入・融合させる試みを行った。

街は北から順に、恵美須町1丁目(現:恵美須東1丁目)には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」(現・通天閣本通)、「玉水通」(現:春日通)、「合邦通」と命名された。北霞町(現・恵美須東2丁目)には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。南霞町(現:恵美須東3丁目)にはニューヨークのコニーアイランドに当時あったルナパークに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。

この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ(Ceretti&Tanfani)社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まるようになった。

1915年(大正4年)、新世界の運営に深く関わってきた阪堺電気軌道が南海鉄道と合併し、事実上、新世界の運営から手を引くことになる。同年、隣接する天王寺公園内に大阪市立動物園が開園した。1918年(大正7年)には南東に隣接して飛田遊廓( - 1958年)が開業、1919年(大正8年)には新世界に大阪国技館が建設されるなど、経営環境や周辺地域が目まぐるしく変化する中、新世界は道頓堀、千日前に次ぐ歓楽街として隆盛を極める。