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猫に札束
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鉄道王・根津嘉一郎 ②

明治32年(1899)には、東京電燈(現在の東京電力の前身)の取締役に推挙されました。
若尾が示唆した「灯り」事業です。
しかし、当時の東京電燈は経営不振にあえいでいました。
嘉一郎は会社再建に取り組み、堅実な経営体質に変えていきます。
この頃から嘉一郎自身も、奔放な暴れん坊から、一回り大きな事業家、経営者へと変貌を遂げていったようです。
以後、嘉一郎は経営に行き詰まった会社を買収し、経営を再建させていきました。
そんな彼を「ボロ買い一郎」「火中の栗を拾う男」などと揶揄する向きもありましたが、嘉一郎は「社会から得た利益は、社会に還元する義務がある」という信念のもと、黙々と再建事業に取り組みます。

明治38年(1905)に嘉一郎が46歳で社長に就任した東武鉄道もそうでした。
当時の東武鉄道は北千住から久喜まででしたが、併行する利根川水運との競争に勝てません。
そこで嘉一郎は利根川に架橋し、路線を北に延ばします。
その結果、日光や鬼怒川温泉と結んだことで旅客は倍増しました。
他にも嘉一郎は東京地下鉄、南海鉄道など、関係した鉄道会社は24社に及び、「鉄道王」の異名をとることになるのです。

その一方で、大正11年(1922)にはわが国初の旧制7年制の武蔵高等学校、現在の武蔵学園(武蔵大学、武蔵高等学校、武蔵中学校)を設立。
「国家の繁栄は、育英の道に淵源する」という思いからでした。
さらに昭和11年(1936)には武蔵高等学校に根津化学研究所を創設し、物理化学の高度な研究を推進します。

嘉一郎は明治37年(1904)以降、衆議院議員を4期務め、大正9年(1920)より勅選貴族院議員として、政界でも活躍しました。
昭和15年(1940)没。享年81。
傑出した実業家でありながら政治家、教育者の顔も備え、「社会から得た利益をどう社会に還元するか」を追求した嘉一郎。
当時の実業家のスケールの大きさと、志の高さが伝わってくるように思います。

猫に札束 鉄道王・根津嘉一郎 ②  明治32年(1899)には、東京電燈(現在の東京電力の前身)の取締役に推挙されました。 若尾が示唆した「灯り」事業です。 しかし、当時の東京電燈は経営不振にあえいでいました。 嘉一郎は会社再建に取り組み、堅実な経営体質に変えていきます。 この頃から嘉一郎自身も、奔放な暴れん坊から、一回り大きな事業家、経営者へと変貌を遂げていったようです。 以後、嘉一郎は経営に行き詰まった会社を買収し、経営を再建させていきました。 そんな彼を「ボロ買い一郎」「火中の栗を拾う男」などと揶揄する向きもありましたが、嘉一郎は「社会から得た利益は、社会に還元する義務がある」という信念のもと、黙々と再建事業に取り組みます。  明治38年(1905)に嘉一郎が46歳で社長に就任した東武鉄道もそうでした。 当時の東武鉄道は北千住から久喜まででしたが、併行する利根川水運との競争に勝てません。 そこで嘉一郎は利根川に架橋し、路線を北に延ばします。 その結果、日光や鬼怒川温泉と結んだことで旅客は倍増しました。 他にも嘉一郎は東京地下鉄、南海鉄道など、関係した鉄道会社は24社に及び、「鉄道王」の異名をとることになるのです。  その一方で、大正11年(1922)にはわが国初の旧制7年制の武蔵高等学校、現在の武蔵学園(武蔵大学、武蔵高等学校、武蔵中学校)を設立。 「国家の繁栄は、育英の道に淵源する」という思いからでした。 さらに昭和11年(1936)には武蔵高等学校に根津化学研究所を創設し、物理化学の高度な研究を推進します。  嘉一郎は明治37年(1904)以降、衆議院議員を4期務め、大正9年(1920)より勅選貴族院議員として、政界でも活躍しました。 昭和15年(1940)没。享年81。  傑出した実業家でありながら政治家、教育者の顔も備え、「社会から得た利益をどう社会に還元するか」を追求した嘉一郎。 当時の実業家のスケールの大きさと、志の高さが伝わってくるように思います。