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ところで邪馬台国はどこにあったのか⁉️ 今日のテーマ‼️
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議員教育から来賓官僚の講師としての自覚と麻生アマリンによるデイベート官吏の研究勉強会邪馬台国令和派で主導するしかない。
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僕はもう書くつもりはないので最後に言わせてくれ。 ba6氏とは全く無関係。 ba6氏は、ちょ胃悪おやじ→邪馬台国→ba6とIDを変えてきた一部では知られた人 特に日本郵船では有名だった。 書き込みを見れば分かると思うが参考になるものも多く、僕はマ―クしたり同じ銘柄を買ったりしているだけ。あまり相手にされてなかったが旧忍者のIDでは多少交流はあった。 迷惑かけたので君への悪口は書いたけどね。 なんとか精神病氏は全く関係ないと思うよ。 そもそも複垢を使うレベルの人とは思わないよ。
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昨日の為替だと江戸通り越して、邪馬台国までいきますよ。 卑弥呼さまぁ〜!! 戦争に巻き込まれれば、石器時代。
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> ところで、この動画の良いところは、邪馬台国当時の人口に注目した点です。 それは、私も思いました。 > あの銀河さんのように、とんでもない小さい島とかに存在することは、物理的に無理! > 長野県の奥地とか、四国の山岳地帯とか、いろいろな説が有りますが、急峻な場所では、農業ができません。 銀河さんの宝島説は荒唐無稽でしたね。 > 残念ながら、この動画では「阿波の国」としていますが、これも無理っぽい! > そんな人口が有ったのなら、遺跡が沢山出て来るはずです。 > 泡のように消え去る説ですね。 動画ではまだ発掘作業がされてないみたいなことを言っていましたが。 ですが、わざわざ海を渡って纏向遺跡を造りに行ったのですかねえ。? 自然な考え方として、お墓は身近な参拝できるところに造るものではないですか。 それとも既に阿波に住んでいた人たちが纏向遺跡周辺に移住していたとか。? その点は少し疑問に感じます。 それと神武東征とは年代があっているのでしょうか。
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おはぎゃあ~~! ナスダックが、下げています~~~! イスラエルさんが、「イランよぉ、喧嘩上等じゃねえか!」と啖呵を切ったみたい。 ところで、この動画の良いところは、邪馬台国当時の人口に注目した点です。 あの銀河さんのように、とんでもない小さい島とかに存在することは、物理的に無理! 長野県の奥地とか、四国の山岳地帯とか、いろいろな説が有りますが、急峻な場所では、農業ができません。 残念ながら、この動画では「阿波の国」としていますが、これも無理っぽい! そんな人口が有ったのなら、遺跡が沢山出て来るはずです。 泡のように消え去る説ですね。 ぎゃあ、パートに遅刻する。
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もともとの邪馬台国が阿波にあったなんて。(^^)/ 纏向遺跡が邪馬台国の遺跡だと無理やりこじつけているようにも思えますが、その阿波の人たちが、東征して纏向遺跡を造ったという説。 神武東征にしても、なんで九州から近畿にまで、交通手段も船ぐらいしかない時代に遠路はるばる来なければいけなかったのかが疑問に感じていましたが、これなら十分ありえる話です。 畿内説は肯定されたことにはなりますね。 ヨシ子様の大勝利と言える内容です。 長年信じてきたことが間違いでなかったということです。 おめでとうございます。 となると四国の阿波の遺跡を発掘して卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる金印を探し出さないといけないですよねえ。 (^^)/
「日本の国の成立の第一歩は、ヤ…
2024/05/07 14:15
「日本の国の成立の第一歩は、ヤマト王権の成立ということになります。それは、ちょうど卑弥呼が亡くなった3世紀の中頃です。そして、その後5世紀になると〝倭の五王〟と呼ばれる王が5人続く安定的な統一王権が存在したことがわかっています。 でも、その間の4世紀に、どのように王権が推移していったのかは文献からはわからないんです。そのため、「空白の4世紀」と呼ばれています。 また、この空白の4世紀に王陵の場所がすごく変わっています。 3世紀の古墳は、邪馬台国、あるいは初代ヤマト王権の王の王陵と考えられるものが、奈良盆地の南にあります。そして、5世紀になって倭の五王の時代になると、大阪の平野に移っています。 では、4世紀はどうかというと、富雄丸山古墳のある奈良盆地の北に王陵が一時出てきます。つまり、4世紀は王陵の所在地が奈良盆地の南から北を経て、大阪平野へと変化する激動の時代なんです。 そして、富雄丸山古墳の調査によって、ある仮説が考えられるようになりました。 ヤマト王権の王は、畿内地域の諸勢力の中で、どの派閥が担いだ王なのかということです。王権の成立期は奈良盆地の南部の勢力がリーダーシップを握って王を輩出する立場にいた。しかし、4世紀になると弱体化して、主導権が大阪の平野部の勢力に移っていった。自民党の派閥争いみたいなものです。 そのとき、大阪の平野部の勢力のために非常に重要な働きをした人物が、富雄丸山古墳に眠っているのではないかというものです。 というのも、大阪平野に主導権が移ったヤマト王権は、5世紀になると盾形銅鏡に似た形をした革で作った盾や蛇行剣を各地の有力者に分け与えています。それによって連携を強めていきました。 その一番古いものが富雄丸山古墳から出ているのですから、大阪の平野部のヤマト王権に大きな影響力を与えた人だということが考えられるわけです」