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先ほど待望?の臨株開催がリリースされました。2024年6月27日(木曜日)午後3時、場所は前回と同じ一宮・シビックホール。3月決算会社の定時総会集中日(東証情報では634社が開催)にしたところは頂けないけど、午後としたから、まあギリ許せるところでしょうか。9月末までに上場廃止を目論んでいるので、実施しないと思っていた第21期(2022年10月1日から2023年9月30日まで)計算書類承認の件を第1号議案にしました。ということは、少数株主の戦い方次第では、前期決算についてガンガン質問できる(かもしれない)。 基準日は4/15にしたままですから、ウサミを絡めない主要な旧株主グループ(加藤氏、Anela、その他GS社と契約した株主)が50%超を保有しています。なので、会社側は強引に決議して、会社法の形式的要件をクリアしようとしてくるでしょう。 自身の計算では、ファンドは4/15時点で22.9%しか保有していませんので、少数株主が力を結集しても、決議は免れません。じゃあ、どうやって臨株を戦うのか? 会社側はアドバイザリーの助言に従って、短時間で総会を終わらせることを目論んでくると思います。前回定時総会のように「質問は1人1問」なんて、ふざけたことを言ってくるでしょう。でも、前回の総会に出席された方なら覚えていらっしゃると思いますけど、議長の議事裁きが下手なことから、最後はダラダラになっていました。なので、自分の希望としては、1人でも多くの株主の方に出席頂き、延々と質疑応答を続けられたらと思っています。無駄あがきと思われる方がいらっしゃると思いますが、決議は決定しているので、残る手段は総会の中での手続き的な瑕疵状態を作ることだと思います。前回定時総会の質疑応答で「財務制限条項に抵触していない」「指名委員会は適正に判断した」といった黒に近いグレーな応答を繰り返していましたので、今回も議長が誤った発言をすることは期待できます。今日から万全な状態で質問を精査していきたいと考えますので、どうか皆様にも知恵を貸して頂き、一緒に総会を楽しんで頂けたらと思っています。 結末が決まっている総会ですからファンドの出席は分かりませんが、少数株主が集結した会場を想像すると、今からワクワクします。
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1日午後8時半頃、名鉄名古屋本線は、愛知県稲沢市内の踏切で起きた人身事故のため、須ケ口〜名鉄一宮の上下線で運転を見合わせましたが、午後10時33分に運転を再開しました。
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このままだと一宮や岐阜に加えて稲沢もJRシフトする人増えそうだな
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4553年 武田信玄と上杉謙信が信濃(長野県)をめぐって川中島の戦いが勃発(1回目) イギリス女王にメアリ一世が即位する。 四月下旬に尾張国冨田(現在の愛知県一宮市)の聖徳寺において、織田信長と斎藤道三が面会。
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将棋界で最も歴史あるタイトル”名人戦”は、藤井聡太八冠が豊島将之九段を下し、名人初防衛を果たしました。 合わせて、タイトル22連覇も達成です。 北海道・紋別市で行われた「名人戦七番勝負の第5局」は、愛知県瀬戸市出身の藤井聡太八冠が、挑戦者で一宮市出身の豊島将之九段を、99手までで投了に追い込み、勝利しました。 これで戦績を4勝1敗とし、”名人”のタイトル初防衛を果たしました。 藤井八冠は、タイトル初挑戦から獲得と防衛を逃したことがなく、これで負け無しのタイトル22連覇達成です。 藤井聡太八冠: 「内容としてはいろいろ反省点もあったかなと思うけど、なんとか防衛という結果を出せて良かった。これからも対局が続くので、引き続き精一杯頑張りたい」 豊島将之九段: 「どういう将棋をこれから指していくかも、名人戦で指した将棋を振り返って、また考えていけたらと思います」 藤井八冠は現在、”叡王”のタイトルの防衛戦にも挑んでいて、こちらはあと1敗するとタイトルを奪われる、カド番に追い込まれています。 注目の叡王戦第4局は、今月31日に千葉県柏市で行われます。
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東京からだと豊橋は新幹線(のぞみは☓)がとまりますが一宮は名古屋から名鉄尾張一宮なので不便です 今日は軟調な展開らしい…
> 江戸時代に「日本・ニッポン…
2024/06/07 11:37
> 江戸時代に「日本・ニッポン・二ホン」などという言葉も国家も無かっただろ? > だって、俺の父親の国は「越前」だから。 6世紀初頭の段階で、越前には大和の朝廷に匹敵する勢力をもつ王権が存在したと推察される。律令制下に於いて、越前は隣国の近江と並び、国のランクとして最上位の大国に位置づけられた。それだけ多くの人が住まいし、また生産力も高いことを意味するが、可耕地の面積や水利等の自然条件に恵まれただけでなく、農耕技術や鉄製農具といった生産手段の水準の高さが影響していた。このような特色は、越前の地理的条件から導かれたと言うことができる。 越前は、日本海を隔てて朝鮮半島に面した位置にあり、海流や偏西風の影響で、半島からの渡航者が多く行き着く地域であった。越前の南端、地理的には嶺南に位置することになるが、越前国一宮・気比神宮の所在に窺われるように、敦賀は最も重要な機能をもつ越前の港として栄えた。気比神宮の祭神である気比大神は、筍飯大神あるいは御食津(みけつ)大神と称され、御食国として衣食住、とりわけ海産物を掌り、この地に集積された食材が、近江・山背を経て大和の朝廷へ届けられた。 敦賀という名称の由来として注目されるのが、崇神天皇の時代に半島より渡来したという都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承である。角をもつ都怒我阿羅斯等は、長門から出雲を経て越前の筍飯浦に至り、垂仁天皇の時代に帰国したという。その間、気比神宮の祭祀とこの地域の行政に携わったという伝えもあり、現在気比神宮の境内に鎮座する延喜式内社・角鹿神社は、この都怒我阿羅斯等を祭神とし、かつてその政所があった場所と言われる。(立命館大 三都近隣諸国の風土記) 明治以降、太平洋側が栄えて、今は福井県もパッとしないが 大河ドラマの紫式部が行った頃は大都会だったのだろう。