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  • 2021/01/19 16:39
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  • 気温マイナス1度とまた氷点下を記録したが風も無くて頬がピリピリする位でそれほど寒くはない月曜日の朝。

    今日の午前10時でこのtextreamも終わるとのことです。どういう終わり方をするのでしょうか? どうぞこのtext reamのナンバー「20848」(2018年12月12日掲載)を見て下さい。そしてグーグルグループの「70歳代のバソコン」をお気に入りに登録してください。お願いします。

    窮状状態の大相撲も玉鷲が二敗で優勝しました。顔つきから想像していたのとは違ってやっぱりモンゴル勢でした。34歳まで優勝しなかったのですから大変な遅咲きということです。

    優勝とはいいながら横綱がいなくなった場所ですからちょっと値打ちがないような気がします。とはいえ優勝は優勝です。おめでとうと言っておきましょう。

    それに比べて窮状昇(急上昇)のテニスの女王大坂なおみは文句無しの世界一です。まだ21歳ですからまだまだ伸びしろがあるのは間違いないでしょう。片言の日本語も楽しいものです。

    ただ試合中と試合後のヘアースタイルやお化粧があまりにも違っていたのには驚きました。別人かと思いました。やはり若い娘なんです。こういう格好がしたかったんでしょう。ただ全く日本人には見えません。

    彼女はアメリカと日本の二重国籍だそうです。アメリカ人とも言えます。ただテニスでは日本人として登録しているようです。嬉しいことですが複雑です。日本がお祭騒ぎをするのはちょっと気が引けませんか?

    アメリカでアメリカ人が優勝したと大騒ぎしているニュースは聞きません。アメリカ人が優勝するなんて当たり前だと考えているのでしょうか。それともアメリカでも彼女が日本人だと思っているのでしょうか。

    とかなんとか言ってもめでたいことはめでたいのです。大いに喜びましょう。

    我が家の庭に黄色の水仙が咲き始めました。(写真) 白い水仙は以前アップしましたが黄色は始めてです。散歩途中に見る水仙はほとんどが白いもので黄色いものは少ないのです。黄色い水仙は花をつける時期が遅いのでしょうか。球根ですので手入れしなくても毎年咲いてくれます。

    往馬山人。

掲示板のコメントはすべて投稿者の個人的な判断を表すものであり、
当社が投資の勧誘を目的としているものではありません。

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    倭文しずり 1月19日 16:39

    往馬山人さんホームラン画像、貴重な「かぎろい」太陽が上がる前の朝焼けを
    見事にキャッチ、おめでとうございます。

    柿本人麻呂の「ひむがし(ひむかし)の のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」
    11月17日、何度も宇陀かぎろいの丘へ朝早くに駆けつけました、大きな三脚を立て50人ほどの
    ファンが待ち構えていますが何年も空振りでした、こんなに美しい「かぎろい」は
    厳寒時に見た事ありません、早速アルバムに頂戴いたします。しずり

  • 朝焼けの見事な写真に感激❗️
    こんな時間帯にはまだ寝床で早朝のラジオを聞いていました。
    実際に見たら圧巻でしょうね😃
    居眠りしながらフトンの中では勿体ない話です。
    でも我が家の近くでは住宅の屋根が邪魔してこんなシーンは見れないのが残念です。
    今は時々雪もちらついたり晴れたりの変な天気です。

  • 気温1度と上がって散歩に出るときには何かチラチラ落ちてきたのでさぞや雪になるかと思った火曜日の朝。雪にも雨にもなりませんでした。

    ただ太陽が出てくる直前に東の空の雲が赤くなりました。ちょっとした朝焼けです。(写真) しかしそんな風流なものでなくて隣街の空襲の後とか大火事の空といった方が似合うかもしれません。振り袖火事かも???

    今朝愛する家内のために朝食を作っていたところ突然電気が停まりました。前のマンションの明かりはついていますから地域的な停電ではないようです。

    そういえば昨年の暮れに関西電力に来てもらったことがあります。時々そういうことが起きるが特に異常はありませんとのことでした。終えられた通り一旦全部ブレーカーを切って順番に入れて行きました。

    一度復活したのですがまた落ちたのです。そのブレーカーの位置は台所のようです。そういえばさっき電気魔法瓶の延長コードを繋いだらチカッと赤く光ったような気がしました。

    そのコードのプラグを外して中を見たら電気コードのビニール皮膜がボロボロになっていました。そこでショートしたみたいです。そういえば前回のときも新しく買った電気魔法瓶を買って繋いだ後でした。さっそくコードを廃棄して付け替えました。これで治ってくれるはずですが?

    韓国の文在寅大統領が突然日本と交わした慰安婦合意は政府正式合意であると記者会見で認めました。一旦合意したものを完全にひっくり返してしまったことをこれまたひっくり返したのです。しかし具体的な行動については何も述べていません。

    慰安婦やいわゆる元徴用工問題に対して日本がガンとして動かないので困ってきたようです。いまさら何をいうかと怒りたいところですがまあそういう国のそういう大統領だから仕方がありません。

    日本としては今までの方針をしっかり進めるだけです。遠慮して引くことはありません。一旦引くとまた調子に乗って来ます。相手にせず具体的な行動を見るまで放っておきましょう。

    往馬山人。

    70歳代のバソコン 気温1度と上がって散歩に出るときには何かチラチラ落ちてきたのでさぞや雪になるかと思った火曜日の朝。雪

  • 先生のあだ名を書いて、逆に皆さんにおほめに預かって、なんとも恐縮です。
    昔の先生はユニークな先生が多かったですが、あだ名をつける生徒たちもなかなかでした。

    〇「スワロー先生の思い出」
     先生と言えば、中学の英語のW先生には特に思い出があります。
     W先生は、英語の発音を教える時にツバメの雛が餌をねだるときのように口をすぼめて発音するので、習いたての燕の英語「スワロー」というあだ名が付いていました。
     20年ほど前のある日、テレビを見ていたら突然、この「スワロー先生の顔がUPされてびっくりしました。「遥かなり我が山河」という題のドキュメント番組でした。

     先生は、戦後、佐賀から愛知県の飯田高校に転任されて、山岳部の部長をされていたようです。そして普段「もし俺が死んだら校庭からよく見えるあの南駒ケ岳に眠りたい」と言われていたそうです。その後、飯田高校の山岳部のOBたちが先生のために石碑を交代で担いで、南駒ケ岳の圏谷に建てたそうです。スワロー先生は今もなお、あまり訪れる人もない南駒ケ岳の一隅で雄大な峰々を眺めながら、静かに眠っておられることでしょう。

                         しらん

    70歳代のバソコン 先生のあだ名を書いて、逆に皆さんにおほめに預かって、なんとも恐縮です。 昔の先生はユニークな先生が多

  • 「振袖火事」1月18日
    家々で暖部器具を使い、空気が乾燥している冬場は火事が多いですね。家財もちろん、人間が焼け死んだり痛ましいことです。火事はほんとに怖いですね。
     
     昔、江戸では「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるぐらい、火事が多かったようで、なかでも、明暦3年(1657年)1月18日の明暦の大火、いわゆる振袖火事」が有名ですね。
     浅草大増屋の娘「おきく」は本郷の本妙寺で寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいました。そしてその小姓と同じ振袖を作ってもらい、小姓を思い焦がれていましたが、1655年1月16日に、恋煩いのためにとうとう死んでしまいました。

     大増屋ではその振袖を棺の上にかけて本妙寺に納め、住職は前例に従いその振袖を古着屋に売りました。ところがその翌年の同じ日に、紙商「大松屋」の娘「キノ」の葬儀があり、その同じ振袖が本妙寺に戻ってきました。古着屋でその振袖を買っていたのでしょう。

     そのうえ、更にその翌年にも本郷の麹屋の娘「お花」の葬儀の際にまた、同じようにして本妙寺にその振袖が戻ってきたのです。それも娘はいずれも同じ16歳でした。 (*娘の名前には諸説あり)

     さすがに気味が悪くなった住職は、三人の娘の親の目の前で護摩焚きの火の中に振袖を投げ入れて焼きました。ところがちょうどその時、一陣の竜巻が舞い起こり、振袖は人間の立ち姿のようになって本堂の真上に舞い上がり、本堂は忽ち出火してしまいました。これが有名な明暦3年(1657年)の「振袖火事」で、江戸の大名屋敷はじめ江戸の半分を焼きつくした大火事になりました。その家事はちょうど、おきくの命日の二日あとの1月18日の事でした。
     大蛇になって男を追いかけた安珍・清姫の道成寺の話もあり、とにかく女の情念はすごいですね。オオ、コワ・・

    戦中、戦後、町内の隣組で、拍子木を叩いて火の用心の夜警をさせられました。

     ♪マッチ一本火事の元
      芋は焼いても家焼くな・・ 

      一筆啓上、火の用心、おさん泣かすな、馬肥やせ・・

     皆さんも火の元にはくれぐれもご用心ください。

    (外人の描いた振り袖火事) しらん

    70歳代のバソコン 「振袖火事」1月18日  家々で暖部器具を使い、空気が乾燥している冬場は火事が多いですね。家財もちろ

  •  これは司馬さんですね。画像が間違いました。
     安野さんは、中央です。(台北にて)

                       しらん

    70歳代のバソコン  これは司馬さんですね。画像が間違いました。  安野さんは、中央です。(台北にて)         

  • 画家の「安野光雅さん」が亡くなられましたね。
    20年ほど前、台湾で行われた「司馬遼太郎を偲ぶ会」に出席された時に、同級生数人と共に同行させてもらいました。

     淡い色調の画風で人気があり、司馬遼太郎の随筆「街道をゆく」の挿絵を担当されていました。半白の頭髪が柔らかく、画風同様に、気取らない庶民的な気さくな人柄でした。

        (台北にて・・中央)     しらん

    70歳代のバソコン 画家の「安野光雅さん」が亡くなられましたね。 20年ほど前、台湾で行われた「司馬遼太郎を偲ぶ会」に出

  • 戦時中の鉄の不足からか、大阪駅は戦中戦後にかけて、永い間、半分出来かけで鉄骨がむき出しになっていました。

         (大阪駅、昭和10年代)   しらん

    70歳代のバソコン 戦時中の鉄の不足からか、大阪駅は戦中戦後にかけて、永い間、半分出来かけで鉄骨がむき出しになっていまし

  • 往馬山人さん菅総理が演説の時々に方言がでて急に声が小さくなるのは気の毒です
    むかし社会党の佐々木さんみたいに堂々と東北弁で喋ればもっと人気が
    出ると思います。二階のおっさんさえ居なければですが。

    紫蘭さんの記憶力には驚嘆いたします、やはり25本の天然歯で何でもかみつぶして
    咀嚼されるから、常に脳が刺激され何時までも脳細胞が生き生きと働く
    のでしょう、
    漱石の「坊ちゃん」山嵐、赤シャッ、マドンナ、の如く
    紫蘭さんの先生方のあだ名が面白くて小説読んでる様に引き込まれます、
    ご投稿そのものが既に小説です。  1ファンしずり

  •  皆さん、こんにちは。空気が冷たく、肌寒いですね。

    大阪の難波周辺が懐かしいです。
    下宿が南海沿線の粉浜という所にあり、上本町八丁目の母校までの登下校の際には、心斎橋や難波あたりを通らねばなりません。そのころは高島屋の地下には大食堂があるだけで、地下商店街はありませんでした。下校時にこの大食堂で、カレーやハンバーグをよく食べたものです。その頃は、長ーいカウンターが何列もあって、和食、洋食などに分かれていて、みんな食券を買って一列の泊り木に腰を掛けて食べていました。

     大阪駅も半分出来かけで、鉄骨がむき出し、地下鉄も梅田から難波までの一直線だけで判りやすかったです。
     高島屋の南口には、まだ大阪球場はなく、西宮球場には「六大学のOB早慶対抗戦」を見に行ったと、昭和17年の日記に書いています。
    当時の野球界は、ノンプロの甲子園の中学野球と六大学野球が中心で、プロ野球は職業野球と言い、神聖なスポーツを金をとって見世物にするなんて、けしからんという世間の風潮から、国民には人気がありませんでした。
     今は、プロ野球全盛の時代、世の中の変遷に感無量です。

       (昭和20年代の大坂球場)     しらん

    70歳代のバソコン  皆さん、こんにちは。空気が冷たく、肌寒いですね。  大阪の難波周辺が懐かしいです。 下宿が南海沿線

  • 気温マイナス2度とまた氷点を割ったが風もなくてそれほど寒いとは感じなかった月曜日の朝。風の具合かあちこちが凍っているところは見られませんでした。

    紫蘭さんの記憶力は大したものです。私も倣って学生時代の先生のことを思い出してみましたがあだ名なんか全く覚えていません。また私の時代には先生にあだ名をつけることは滅多にありませんでした。

    ただ先生たちがよく生徒を殴っていたことは確かです。今ならあっと言う間に新聞のニュースになりそうなことも平気で行われていました。女子生徒に対するセクハラもよくあったようです。

    軍事教練はもうありませんでしたので配属将校の話なんかは面白く聞かせていただきました。昼飯を食べに来るだけの准尉なんて珍しい話です。

    昨日はちょっとした用事で大阪難波に出かけました。ついでに貧乏人の贅沢である珉珉の餃子・酢豚・キュウリの漬け物に生ビールという昼食を頂きました。

    大阪も緊急事態宣言が出ています。前回のときには大阪難波の虹の街も商店街が閉まっていました。地下街の照明も暗く人通りも全くありませんでした。

    しかし昨日は商店街も全部開いていて人通りは日曜日としては少ないかなという程度でやはり賑わっていました。(写真) もうあの宣言も市民には慣れてしまったようです。

    GoToも強行したかと思うと中止になったりしてどうも政府の方針が一定していないような気がします。なにか場当たり的な対策が国民に嫌われて菅首相の支持率もぐんと下がってきました。

    官房長官としては優秀だった菅さんもトップになると戸惑っているようです。もっと強力な指導力を発揮してほしいものです。

    往馬山人。

    70歳代のバソコン 気温マイナス2度とまた氷点を割ったが風もなくてそれほど寒いとは感じなかった月曜日の朝。風の具合かあち

  • 先生のあだ名②
     国語のK先生がノンキー、(方言で飴玉のことをノンキーと言いますが、同じ名前のノンキー屋がありました)
     軍事教練の梅井准尉が「梅チン」で、配属将校のA少将が「ランチ」とか「昼めし食い」。こわいランチ閣下は、12師団から昼ごろやってきて昼飯を食って何もせずに帰っていました。 
     園芸の先生が「獅子舞」で、怒ると獅子舞のようにたけり狂います。

     暴力禁止の今では、到底考えられない事ですが、昔の中学の先生たちは、軍隊同様、よく生徒を殴りました。(でも、怪我をした生徒は一人も居ないから不思議です。それに殴られたからと言って先生を恨む者もいなかった。少年時代には、いつも殴られたので、軍隊で殴られても案外平気だったのは、この体験からなのかもしれない)
     中でも4年時の担任のK先生は風呂敷のような大きな手で殴るので余計にこたえた。そこであだ名は「フロシキ」なのであった。

     五年次の担任だったT先生は図画の先生で、あだ名は方言でベコ(あひる)だった。小さい体であひるのようにベタベタ体をゆすって歩く。ベコさんは体は小さいのに大きい生徒たちもよく殴った。小さいので背伸びして飛び上がるようにして叩くのである。ある友達は二階から授業中に隣の女学校の運動場をぼんやり眺めていただけで、ポカンと殴られました。彼は、何も運動場の女生徒の太ももを見ていたのではないのに‥と、あとでぼやいていました。

     でも、ベコ先生の水彩画は上手かった。(今も先生の画集が手元にある) 夏休みの宿題にスケッチブック一冊の宿題があったが、8月末になっても一枚も描いていなかった。仕方なく8月31日の一夜漬けで、家の周りの風景や草木を無茶苦茶に描きなぐって行った。これじゃー、てっきり最低の(D)評価だろうと思って居たら、豈はからんや! 滅多に呉れない(A)の評価を頂いた。うまいのか、へたなのか、絵の評価は、ほんとに分かりません。

    そのころは「俺にもこんな隠れた才能があるのか!」、と少々自惚れていたが、これは進学を前にして内申書の点数を上げるための先生の温情だったかも知れないと、後年になって思いついた次第です。

                      しらん

  • 「あだ名の話」①
     アンビー先生で思い出しました。中学時代の先生は、名前は忘れても、あだ名はよく覚えているものです。アンビー先生に限らず、先生には、みんなあだ名がついて居ました。

     あだ名はまずその風貌によるものが多い。
     T校長先生は、鋭い目つきで「ヒットラー」或いは「ライオン」また、獰猛な?顔つきなので「アイヌ」とも言っていた。おそらく教科書のどこかに、似たような写真が載っていたに違いない。

     【*ヒットラー校長先生は東北出身で2年生の時、転勤て来られた。当時佐賀中学と鹿児島一中は陸士、海兵の合格率で全国一、二位を争っていたので、訓示の際、校長は決まってヒトラーのような「大獅子吼」ともいうべき大演説で生徒にハッパをかけていたのである。】

     K教頭先生のあだ名が「アンビシャス」だった。
     【先生は英作文の先生で、口癖がクラーク博士の「ボーイズ ビー アンビシャス・少年よ、大志をいだけ!」だった。  顔が色黒で、ごきぶりに似ているので、ゴキブリである。【方言】では「ごっかぶい」とも呼んでいた。】

     僭越ながらその他の先生たちのあだ名を少し列記してみると。。
     博物の先生の「ニグロ」「チムニー」「闇夜のからす」は、共に色が黒いからだし、国語副読本の「黒チン」先生は単に黒メガネというだけの事である。何とも他愛もないあだ名であった。
    「マンドリン」「夏ミカン」「山男」「シオブタ」「シブガキ」・・はそんな顔つきだというだけの理由で、「キズモン」とは目の上に少しばかりの傷があっただけなのに、子供の目はなんとも辛辣です。

     雰囲気から「坊ちゃん」とか「キートン」「モダンボーイ」などの楽しいあだ名もあったが、「ナフタリン」は顔色が生白くて、みんな「虫が好かん!」から付いたあだ名だった。

     一方「ラシウ」先生は豪快で、いつも「お前たちは、男らしくあれ、男らしう・・男らしう」と言っていたから「ラシウ」と言うあだ名で呼ばれていた。そうそう、歴史の先生で山岳部の先生はゴリラのような豪快な顔つきなので「山男」のあだ名で呼ばれていたが、性格はやさしかった。
      
                       しらん

  • 紫蘭さんの 人間性人柄が少しわかりました感心ばかりです・・
    いまだに元気で頭脳明正 古本でも前向きにいまだに勉学に励む姿
    立派ですね 見習いたいが我はついて行けずで悲しいです
    認知症の心配なしでまだ楽に十年は青春でいられますね
    これからも知らない事は教えて下さい・・・

  • 〇「アンビー先生」「Boys, be ambitious」

     今日は晴れ間も多くて過ごしやすい一日でしたが、やはり北風は冷たいです。北国や北海道あたりはさぞ寒い事でしょう。

     その北海道に、明治9年(1876年)、アメリカから札幌農学校(現、北海道大学)の初代教頭として「ウイリアム・スミス・クラーク博士」がにやって来て、有名な「Boys, be ambitious」ボーイズ ビー アンビシャス(少年よ、大志を抱け)・・という有名な言葉を残しています。

     シランの中学時代の教頭先生は色が黒くて目玉がぐりぐりした先生で「ゴキブリ」というあだ名がついていましたが、先生は英語の時間に、「ボーイズ ビー アンビシャス!と声高に叫んで、いつも生徒に勉強しろ、勉強しろと、はっぱをかけていたので、別名「アンビシャス」というあだ名もついていました。
    あれからもう80年が過ぎて、あだ名の「アンビー先生」は覚えていても、果たして大志を貫徹できたかどうか、我が身を顧みて忸怩たるものがあります。

     ところで、このクラーク博士は、「Boys, be ambitious」(少年よ、大志を抱け)・・という精神的な言葉の遺産だけでなく、物質的、実用的な遺産も北海道に残しています。それは、俗称「フランクリンストーブ」という鋳物製の石炭ストーブでした。 フランクリンと言えば、嵐の中で、凧を挙げて雷の実験をしたことで有名ですね。
     
     言うまでもなく北海道の冬は途轍もなく寒いです。しかも当時、北海道に移住した開拓者たちは囲炉裏やコタツなどの暖房器具しか持って居らず、ただただ寒さに震えるばかりでした。

     そこへクラーク博士が持ってきた鉄製のストーブは、「ペンジャミン・フランクリン(1706年1月17日生まれ)が1742年に、不燃状態のガスの有効利用を図って発明した暖房効果の高いもので、北海道にはうってつけの暖房器具でした。
     クラーク先生のこのストーブは、やがて札幌農学校を中心に北海道全土に広がり始めたのです。

      (クラーク博士) 画像が出ません・・m(__)m   

                     しらん

  • mfjさん、こんにちは。
    シランは、無位無官、当年97歳のどこにでもいる、ただの物好きなじいさんです。
     (友人には学者や、作家、社長、元大臣など色々いますが、、)

    「正月行事のいろいろは、手持ちの佐賀市史が三巻ありますので、それを参考にしています。

     シランは、佐賀県の生まれで、旧制佐賀中学から大阪外語(現大阪大學外国語学部)中国語の出身です。
    読書が好きなので、戦時中に大阪日本橋の「天牛本店」で買った古本が山ほどありますので、時々引っ張り出して参考にしています。

     また、自分の若いときからの日記が残っているので、なにかと、消えかかった記憶を呼び戻しています。もともと、文章を書くのは好きなので、大阪外語時代は新聞記者志望で、共同通信社(当時は同盟通信社)の入社試験を受け、編集局勤務の辞令を貰いましたが、あいにく学徒出陣で豊橋予備士官学校に入り、戦後は九大で経済を勉強しました。

     外語から一緒に共同通信社に合格した、ドイツ語のA君は、ドイツ特派員から専務になっています。外語からは新聞記者志望が多く、また、作家や大学教授が多く出ています。同期の司馬遼太郎は産経新聞から作家に、赤尾兜子は毎日新聞から俳人になっています。一級上のインド語に後の作家、陳舜臣が居られました。

     シランは勉強よりも部活の射撃部に夢中で、毎週土曜日に、鉄砲と弾薬を持って、チンチン電車に乗って大阪城まで行き、城内射撃場で実弾射撃をしていました。 関西学生射撃大会で、二位になり、学生射撃指導員の免状を貰ったことがあり、おかげで軍隊では助かりました。

     東京の陸軍戸山学校であった、全国学生射撃大会に出場した時、部長で一級上のKさんから誘われてビヤホールに行き、生まれて初めてビールなものをおごって貰いました。その時は、先輩はどうしてこんなにニガイ物が好きなんだろう?と、不思議に思ったものです。残念乍ら、そのK部長は終戦時、ソ満国境で侵入してきたロシア軍と戦い、戦死されました。

     以下、ムニャムニャ・・
     ささやかなプロフィールの一端です。。

    生駒山の西に外語の運動場があり、軍事教練や運動会でよく行ったので、上六の奈良電鉄や生駒山が懐かしくてこちらに寄せて貰っています。。

        (19歳・若い時は若かったです‥)   しらん

    70歳代のバソコン  mfjさん、こんにちは。 シランは、無位無官、当年97歳のどこにでもいる、ただの物好きなじいさんで

  • 気温3度と寒さも緩んだが雲も低くて暗いので楽しい散歩とは言えない日曜日の朝。いつものサンデーランナーも見えませんでした。

    紫蘭さんの蘊蓄は尽きません。佐賀のモグラ叩きの写真はのどかで楽しいものです。本来は畑などの地面を叩いてモグラを追い出すのが目的でしょうがそれが遊びになるとは楽しい話です。

    私が奈良・生駒へ住み始めたのはもう五十年近くになるでしょうか。わが家は全くの新興住宅地で山林を削った土地の上に建っています。しかし小道一つ隔てるともう畑や田んぼでした。

    そこからやってきたのでしょうかわが家の猫の額ほどの庭にモグラが出没して庭中穴だらけにして困ったことがあります。モグラが餌にしているミミズを探していたのでしょう。

    しかし出来たばかりの土地ですからミミズが育つほど土が豊かになっているはずがないのです。ただそこに花を育てて球根を植えていましたから穴ぼこだらけになると困るのです。

    穴にモグラ用の鉄製の罠を置いたりしましたが捕まえる前に出なくなりました。今は結構ミミズが見られるくらいに土が豊かになってきましたがもうモグラが出ることはありません。

    倭文しずりさんやはんめいさんの地区でもごみの不法投棄が目立つようになりましたか。我が地区ばかりではないようです。困ったもんです。

    「小正月の尻叩き」なんて行事はこれまたのどかな行事です。私も参加して初嫁のお尻を叩きたいものです。もちろん素手で!!! しかし現代だったらすぐにセクハラだと大騒ぎになるでしょう。手が背中に回るかもしれません。

    mfz*****こんな行事を復活させたら日本の人口も増えるのではないでしょうか? 

    寒いのでブクブクに着膨れして散歩していますが元気なのは水鳥たちです。今朝は小鴨たちが元気でした。そろそろ相手を探して巣作りをする時期になって北野かもしれません。

    往馬山人。

    70歳代のバソコン 気温3度と寒さも緩んだが雲も低くて暗いので楽しい散歩とは言えない日曜日の朝。いつものサンデーランナー

  • どなた様もお早うさん・・
    今朝もこちらは暖かいですね 早朝のオゥーキングも楽ですが
    温度はあまり上がりそうもないようです・・

    しかし紫蘭さんは歴史学者ではないですかね・・ よく昔の歴史を知っている
    感心ばかりです 昔は何のお仕事されていましたか? ご自身のプロフィール  知りたいですね・・・

    モグラたたきの投稿写真 昔の田舎の風景を思いださせますね・・
    今は田舎も子供も人の姿も見かけませんね 寂れてさびしい限り
    少子化対策に力を入れてこなかった政府の責任と思います
    国の繁栄は政治家の良し 悪さで決まる・・つい愚痴に出る

  • 「小正月の尻叩き」    
     尻叩きと言えば、一般には子供のしつけのための罰の一種で、お尻ペンペン‥などと言って、子供相手のものですが、昔は、大人の女性同士の小正月(正月15日)の行事としての「尻叩き」も行われていました。
      佐賀地方では、14日のモグラ打ちの際に、所によっては新婚のお嫁さんの家に行って、「お嫁さんの尻打たせんかい」という「尻叩き」の風習がありました。
    この「尻叩き」の行事は佐賀県の北部では明治40年ごろまで行われていたようで、当時の「佐賀・・伊万里歳時記」によれば、正月の14日に子供たちがカシの木で作った直径5㌢、長さ30㌢の「尻打ち棒」で、その年に部落に嫁入りした(初嫁)のお尻を叩く、という正月行事でした。

     子供たちは「嫁御・よめごの尻うたせんかい」といって初嫁の家に行き、「餅だすか、酒出すか、出さんにおいては、嫁ごの尻打ち、ポカーンショ」と言って尻を叩いたそうです。
     この15日の「尻叩き」の行事は、いずれも女性の多産を願った小正月の行事ですが、佐賀県の北部の唐津藩で主に行われ、佐賀南部の佐賀藩では主に「もぐら打ち」が行われていたようです。江戸時代の藩政区分の影響で、同じ県内でも行事や風習には色々と違いがあったのでしょう。
     この尻たたきの由来は、平安中期の清少納言の随筆「枕の草紙」に載っています。
     昔の宮中では正月15日に望粥(もちがゆ)という小豆粥を食べる風習がありました。
     この日、宮中の女性たちは「粥の木」を隠し持って、お互いにお尻を叩こう、叩かれまい、とひそかに伺いながら、誰かが打ち叩かれるとみんな大喜びで笑い興じていたと言いいます。この「粥の木」は十五日の(望粥・もちがゆ)を煮た時に使った棒で「粥杖・かゆづえ」と言い、これで女性の腰を打つと男の子が生まれると言う、言い伝えがありました。
     そこで宮中では、官女同士が粥杖を持ってお互いに追っかけ回して、お尻を叩き合っていたと「源氏物語」や「枕草子」にも書いてあります。

                   しらん

    70歳代のバソコン 「小正月の尻叩き」      尻叩きと言えば、一般には子供のしつけのための罰の一種で、お尻ペンペン‥

  • 時代の進化と共に日本人のマナーレベルは低下したようです。
    我が方でも生活ゴミ以外の大型ゴミの収集日には必ず回収されない廃棄品が残されています。
    こんなゴミ捨て~ション?にも監視カメラが必要なんて情けないことですね。
    報道によると「使い捨てマスク」のポイ捨てが目立ち始めたとのことです。
    雑菌だらけの使い捨てマスクが世界の海岸に漂着しているんだとか・・・❓️
    一人一人のマナーが悪いとこうなるんです。
    困ったモンですな❗️

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