ここから本文です

宗教史の掲示板

  • 23
  • 0
  • 2024/05/28 06:26
  • rss

掲示板のコメントはすべて投稿者の個人的な判断を表すものであり、
当社が投資の勧誘を目的としているものではありません。

  • 22(最新)

    okabe 5月28日 06:22

    極楽 とは、阿弥陀仏の浄土であり、「スカーヴァティー」とは
    「幸福のある(ところ)」の意味。

    須呵摩提、蘇珂嚩帝などと音写され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。

    浄土 とは、大乗仏教において、
    一切の煩悩やけがれを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、
    仏や菩薩が住む清浄な国土のこと。

    清浄仏土、仏国、仏刹 、浄刹 、浄国、浄界などとも言われる。煩悩に汚染されている衆生が住む穢土 と対比される語である。

  • 四諦から三宝への変遷、
    興味深く拝読いたしました。
    四聖・四諦・四禅について禅定門では「臭皮袋の習禅に初禅・第二禅・第三禅あり。四禅比丘は聖教を習学する力量ありと云えども(魂が)聖教に反する思いなし。」と戒めています。近代普説仏教の「苦集滅道」は千字文から引用した定形四文字熟語ではありませんが、仏教の教えの要めであるとの一般学識になっております。禅語「苦集滅道」の出典は禅定門の摩訶般若波羅蜜(未完下書き経典)で、原罪とに通底する古代天台経典(法華経)になります。最近は創価学会のほうでも般若教典(釈迦の教え)が解禁になったようですから、「苦集滅道」は一般仏教としても、通説・普説になることでしょう。「仏教とは妙法蓮華経のことである。」というのは禅定門でも同じ認識です。しかし、長らく日本の学界・学会は認めていませんでした。他説(神説)を不要と考えることは「魂による諦観」によらなくても、かつ、キリスト教・ユダヤ教が指摘せずとも「大罪にあたる。」という現行同意で良いと思います。仏教の四諦は他界の者ですが、神ではありませんので、一神教と多神教とは矛盾しません。「神ではない者」を神として崇拝する者または、「神であるから反逆する者」を「公明な滑稽者」と云います。「地獄・餓鬼・畜生」を三つの宝として挙すのは白蓮分宗のイデオロギーとしても、驚嘆いたしております。何かが起因しそうな予感がします。昭和天皇の語録である「万機公論に附す。」は、「神としての言葉」ではありませんでした。(微笑)

  •   
    三毒(貪り、瞋り、癡か)という 苦しみを伴う 三つの
    根本的な煩悩 に 振り回される

    ・地獄(瞋り:怒り 怨み)
    ・餓鬼(貪り):むさぼる
    ・畜生(癡:妄想 、混乱、鈍さ、愚か)

    の 三悪道

    根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に  修羅界を加えて「四悪趣」

        ⇓

    強く 又 勇気 の ある 心
    美しい 所作
    叡智 知恵 知性 を 求める。
    平穏な、人間らしさ を 保っている 境涯 

       ⇓
    (5)人界(にんかい)

    人界は、穏やかで 平静な生命状態にあり、人間らしさ を保っている境涯を
    いいます。大聖人は「平らかなるは人」と仰せです。

    人界の特質は、
    因果の道理を知り、
    物事の善悪を判断する理性の力 が 明確に働いていることです。

    大聖人は「賢き を 人といい、はかなきを 畜という」善悪を判別する力を持ち、
    自己のコントロールが可能になった境涯です。

    この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません。実際に、悪縁が多い世間にあって、人間が「人間らしく生きる」ことは難しいものです。それは、絶え間なく向上しようとする自分の努力がなければ不可能です。いわば人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。

    人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって仏法の覚りの境涯である四聖への道を進むことができる可能性を持っているのです。

  • (1)地獄界(じごくかい)
    苦しみに縛られた最低の境涯 心理状態
    周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心 怒りの心(瞋り)

    (2)餓鬼界(がきかい)
    欲望を創造的な方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむ


    (3)畜生界(ちくしょうかい)
    動物のように、因果の道理 が分からず、正邪・善悪の判断が無く
    目先の利害に 従って行動してしまう心 境涯。
    理性 が働かない「愚かさ」です。

    (4)修羅界(しゅらかい)

    内面と 外面 が異なり、心 に裏表 がある心理
    自分よりも 強いものと出会ったときには、卑屈になって 諂う。

    謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では 自分より優れたものに対する妬みと 悔しさに満ちています。内面と 外面が異なり、心に 裏表がある。

    自分と他者 を比較し、常に 他者に勝ろうとする「勝他の念」が 強く
    他人と 自分を比べて、他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして 他を軽んじる。
    「諂曲なるは修羅」と説かれています。
    「諂曲」とは 自身の本音を隠して相手に迎合していくことです。「諂」は「へつらう、あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということです。

  • (5)人界(にんかい)

    人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平らかなるは人」と仰せです。

    人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。

    大聖人は「賢きを人といい、はかなきを畜という」善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。

    この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません。実際に、悪縁が多い世間にあって、人間が「人間らしく生きる」ことは難しいものです。それは、絶え間なく向上しようとする自分の努力がなければ不可能です。いわば人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。


    人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって仏法の覚りの境涯である四聖への道を進むことができる可能性を持っているのです。

    (6)天界(てんかい)。善い行いをした者は来世に天に生まれると考えられていました。

    仏法では、天界を生命の境涯の一つとして位置づけています。努力の結果、欲望が満たされた時に感じる喜びの境涯です。

    欲望といっても、睡眠欲や食欲などの本能的欲望、物質的欲望、社会で地位や名誉を得たいという社会的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したいというような精神的欲望などがあります。それらの欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。

    天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。

    六道から 四聖へ

    以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。
    欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落します。
    環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。

    これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。そして仏道修行によって得られる覚りの境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。

  • 苦しみを伴う不幸な境涯

    三悪道  
    三毒(貪り、瞋り、癡か)という三つの根本的な煩悩に 振り回される
    地獄・餓鬼・畜生の三悪道

    (1)地獄界(じごくかい)
    苦しみに縛られた最低の境涯

    思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。苦の世界に囚われ、どうすることもできない生命のうめきが瞋りです。

    (2)餓鬼界(がきかい)
    餓鬼界とは、欲望が満たされずに苦しむ境涯です。
    とどまるところを知らぬ激しい欲望の火に、身も心も焼かれている生命状態を餓鬼界と表現します。

    欲望が人間を進歩、向上させるエネルギーとなる場合もあります。しかし、欲望を創造的な方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。

    (3)畜生界(ちくしょうかい)
    畜生という言葉は、もともとは獣や鳥などの動物を指します。畜生界の特徴は、目先の利害にとらわれ、理性 が働かない「愚かさ」です。

    「癡かは畜生」と説かれています。因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯。

    (4)修羅界(しゅらかい)
    修羅とは、もともとは阿修羅といい、争いを好む古代インドの神の名です。

    自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっている。
    他人と自分を比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじます。

    本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって 諂うものです。

    自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。

    大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。
    「諂曲」とは 自身の本音を隠して相手に迎合していくことです。「諂」は「へつらう、あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということです。

    修羅界は、と異なり、
    自分の意思で行動を決めている分だけ、三悪道を超えているといえます。

    しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。

  • 3宗教をそれぞれ比較して考えた時の魂の行く先とは

    長い歴史の間に、あるいは国であったりその土地の風習等と結びつく等して、それぞれの宗教は色々な宗派が出ていたりもします。例えば仏教の場合でも真言宗もあれば、禅宗も存在していますし、キリスト教にしても原点となったユダヤ教であったり、後に成立したイスラム教やローマカトリックとロシア正教等でそれぞれ考え方は相当に違います。

    死後の世界に関しても、古代の成立当初から現代に至るまでの間に、相応の変遷をしている事もポイントです。その意味で言うならば、現在は一定の形でまとまっていますが、これから世界の価値観の変化等の影響で思わぬ形に変わっていく事もあり得ないではありません。ただ、これからもどの時代や宗教においても、死者の死後の冥福が幸せであってほしいという点は共通するものとして残ると思われます。そういった点を勘案するのであれば、あるいは誰かの葬儀がある様な時には、故人に敬意を払うという意味でそれぞれの宗教の流儀を大事にするという事はとても大事な考え方になります。

    まとめ
    神道は「根の国や黄泉の国」等の、死者の世界で生まれ変わるという考え方で
    仏教は 生前の行いに基づいて7つの世界のどこかに生まれ変わるという考え方になります。

    そして、キリスト教は最後の審判の時までの長い眠りについていて、その日が来たら再び生を受けるという事で考えておけば齟齬は無いです。

    それぞれ、地域や国によって独自色を持っている場合も多いですが、故人の冥福を祈るという点では共通ですので、葬儀の際等には故人への敬意の意味も含めて、信仰を大事にする考え方はとても重要になります。

読み込みエラーが発生しました

再読み込み