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ララさん >『茜唄』読み終わりました。 > >いや~なかなか良かったです。 > >最後は一気に読みました。 それはお勧めした甲斐がありました。 上下巻に分かれているから、上下一気に読みたかった事でしょう。 >歴史は常に勝者が作るから、平家物語のような文学がずっと伝えられたのは珍しい事です。 >平家物語を西仏に伝授した人物をXとしましょう。 > >Xは誰なのか推理小説的興味も最後まで引っ張りますね。 > >私はXは本当は〇んでいない知盛かと思いました。 > >しかし下編最初のころででそうではないと解りました。 > >ではだれなのか?、戦いの場にいた人でなければいけません。 > >それで思い浮かばなかったです。 > >戦いの話だから男性だという先入感があったので。 > >本の表紙の裏に挟んであるの宣伝の紙に「今村翔吾画描く夫婦愛」と・ > >それにしては希子が出てくるシーンが少なくて、最後に出て来るのかなと思いながら読んでいました。 > >平家物語の文章を作ったのは知盛でそれを編集して西仏に伝えたのが希子ということですね。 今村翔吾さんの筆の力ですね。 新しい平家物語の解釈が面白い。 >これは事実のほうの話として、どうして平家は滅びてしまったのだろう? > >義経がいなかったら平家が勝っていたのだろうか? > >しかし世の中の趨勢として長くかかっても源氏が勝ったのかもしれません。 > >その頼朝政権も3代で滅び、それも息子を〇したり、もう一人の息子は甥に〇されるし、悲劇的。 > >両方とも政権としてはぜい弱だったということですね。 >旧体制を壊す最初の勢力は長続きしない、第二の勢力が新しい体制を作るようです。 > >鎌倉時代なら鎌倉幕府を倒した足利政権、その足利政権を倒したのは信長だけど、再度に新体制を作ったのは徳川家康だったように。 そう思うと、徳川幕府はよく15代まで続きました。 それ以後は近代化の時代で滅びる事は無くなった。 そして明治、大正、昭和、平成、令和と天皇制が続いていますね。
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『茜唄』読み終わりました。 いや~なかなか良かったです。 最後は一気に読みました。 歴史は常に勝者が作るから、平家物語のような文学がずっと伝えられたのは珍しい事です。 平家物語を西仏に伝授した人物をXとしましょう。 Xは誰なのか推理小説的興味も最後まで引っ張りますね。 私はXは本当は〇んでいない知盛かと思いました。 しかし下編最初のころででそうではないと解りました。 ではだれなのか?、戦いの場にいた人でなければいけません。 それで思い浮かばなかったです。 戦いの話だから男性だという先入感があったので。 本の表紙の裏に挟んであるの宣伝の紙に「今村翔吾画描く夫婦愛」と・ それにしては希子が出てくるシーンが少なくて、最後に出て来るのかなと思いながら読んでいました。 平家物語の文章を作ったのは知盛でそれを編集して西仏に伝えたのが希子ということですね。 それならすべての戦いにいなかった希子でも西仏に伝えられるという二重構造だから、推理できなかったです。 これは事実のほうの話として、どうして平家は滅びてしまったのだろう? 義経がいなかったら平家が勝っていたのだろうか? しかし世の中の趨勢として長くかかっても源氏が勝ったのかもしれません。 その頼朝政権も3代で滅び、それも息子を〇したり、もう一人の息子は甥に〇されるし、悲劇的。 両方とも政権としてはぜい弱だったということですね。 旧体制を壊す最初の勢力は長続きしない、第二の勢力が新しい体制を作るようです。 鎌倉時代なら鎌倉幕府を倒した足利政権、その足利政権を倒したのは信長だけど、再度に新体制を作ったのは徳川家康だったように。
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ぼくもそうだった。小和田というから陛下だとおもわなかった。明治天皇のことをおじいちゃまと呼んでいた。天照の掛け軸を源頼朝とよみ、一条ただよりと呼んでおられて。はるひこーとみんなが呼ぶんだとおしえてくださった。 > すごいや!!ボンボン先生!! > > 朝日記者「昭和天皇が隣にいるのに、必死で昭和天皇を探すおばあさんがいた。このおばあさんには天空の天照皇大神が見えていたんだろう。バーン!」
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はやくしよう。 > すごいや!!ボンボン先生!! > > 一条家筆頭「源朝臣公は、すぐに高市次期首相と結婚を急いだ方が良いだろう。源頼朝公と北条政子の結婚以来の大型結婚だ、革命だ。バーン!」
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関俊平(せきとしひら) 生没年不詳 平安末・鎌倉時代初期の武将。 常陸国出身。 秀郷流藤原氏で常陸関氏の祖。 通称は関次郎。 父は大方五郎政家。 弟は関政嗣ら。 『保元物語』によると、 1156年、保元の乱では源義朝に従う。 1181年2月、志田義広が頼朝に背いて 兵を挙げると、俊平もこれに参加した。 俊平については以後委細不明だが、 弟達はのちに鎌倉幕府へ出仕している。
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関兼衡(せきかねひら) ?~1184 平安時代末期の武将。伊勢平氏。 父は平信兼。 弟に山木兼隆ら。 1180年、頼朝が伊豆で旗揚げした際、 伊豆目代の山木兼隆が討った。 平氏の都落ち後に父信兼が伊賀平氏の 平田家継と挙兵した際、これに従う。 1184年8月、信兼が伊勢滝野の地で 敗戦して自害。 兼衡は弟の信衡・時兼と再起を図る 為に京で潜伏したが発見され、討死。 平姓関氏の祖は明確になっていない。 鎌倉から室町時代にかけて伊勢国で 勢力を着実に拡大していたが、 戦国時代に織田信長らの麾下に降り、 関盛信らが家を守った。 江戸時代初期に家中内紛の責めで改易。 旗本として存続し、明治維新を迎える。
河口湖町のコンビニの“幕張り”…
2024/05/21 19:20
河口湖町のコンビニの“幕張り”、イイね! 源頼朝の故事に倣って“名所”になるよ(笑)。