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まさか覚えていての鋭い質問。 KO君、留年。だから今、就活。 息子は右から左の億単位の金にも慣れたのかな、 銀座支店6年ぶり一人の新人ながら、副支店長の横デスク。 証券外交員の資格、96点合格。 過去問で70点以上は取れてみたいだけど、いざ本番。 僕の得意なとこばかり出題されていた! 次はFP2級(3級は取得済)にチャレンジ これで、母さんと並ぶねw
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子ミッチー。 休憩中は銀座6の本屋さんと散歩。 証券外交員、保険外交員の資格も取得して、 為替、株、金利、日本経済の中枢にいるよ。
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>仕手と言えば加藤さんが有名でしたね。 >大物政治家ともパイプがあり、誠備グループとして派手に活動していた時に脱税容疑で逮捕されましたが、検察の狙いは、誠備グループの仕手株投資に加わっている政治家の名前をゲロさせることだったそうです。 そんな凄い相場師が居たのですか。 <ウィキペディアより> >1973年、黒川木徳証券の歩合外交員として兜町に復帰。ここで説得力のある弁舌と、明晰な頭脳、また人間的魅力で顧客を獲得していった。特に総会屋を通じて、大企業の経営者、政治家に近づいたと言われる。 1976年から1977年にかけてのヂーゼル機器株および岡本理研ゴムの仕手戦で、笹川良一の信頼を得てから、さらに力を付けたものらしい。このヂーゼル機器株の場合は、平和相互銀行系の資金のほかに自ら個人客も結集して株を買い集め、その名義を隠すために1976年10月、誠備投資顧問室の前身「日本橋信用」を発足させたとされる。玉置和郎と昵懇になりグループを結成したという説もある。 1977年、「誠備」の前身ともいうべき、「ダイヤル・インベストメント・クラブ」を結成、銀座スポニチビルに事務所を開く。加藤はこれ以前、笹川グループや平和相銀グループなどの仕手株を扱う兜町の窓口的存在に過ぎなかったが、この事務所を開いて後、独立した仕手筋として兜町でのし上がっていく。 1977年暮れ「ダイヤル・インベストメント・クラブ」を解散させ「誠備」として発足、あるいは1978年11月「誠備」として発足、1979年6月「誠備グループ」として名称変更。本拠は日本橋茅場町に置いた「誠備投資顧問室」であった。
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東京海上さま 日経225銘柄 決算でしくじり保険だしてください 損失利益の25%を保証しますとか 外交員の営業成績あがるとおまいます 何卒よろしくお願いいたします
保険外交員は聞いたことありまし…
2024/05/29 15:20
保険外交員は聞いたことありましたけど、証券外交員など、色んな資格があるんですね。 資格と経験と、その先の独立まで視野に入っているのでしょうから、20代にして将来展望を考えていて、一言「すごい」です。 私なぞ、大学を出て、とりあえず希望の職種に就けたものの、何の資格もなく、ただただ馬車馬のごとく50代まで走り続けました。体を壊してからようやく自分の人生を振り返ってみているという、なんとも行き当たりばったりの生き方でした。 うちの子を見ていてもそうですが、日本の先行きが明るくないことを知っているからか、ミニマリストで資格を取ってますもんね。我が家では、高校生の息子と私を除き、妻も娘たちもみな「食える国家資格」保持者です。 そう考えると、ここまで好きなように仕事として、好きなように遊んで来て、まあまあ楽しく暮らしてきましたから、私は幸せです♪