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>日本が平和だなぁーって思えるのは自衛隊が一定の抑止力を持っているから このようなスケールの大きい、先を読む政治家は日本にはもう出ないのかな? 吉田茂、昭和32年(1957年)に防衛大学第一期生へと向けた言葉。 防衛大学校第一期学生に対する訓辞 君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかも知れない。非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 どうか、耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ。
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麻生さんは、リーマン・ショック後の日本経済を支えた救世主である。 日経新聞朝刊2024年5月26日(日)の記事の中に、 麻生さんが、「旧民主党にリーマン・ショック対応を任せる決断を しなくて良かった」と振り返る。 麻生さんは、総理就任直後の解散が有利である考えていたが、 日本国民のため、解散ではなく、リーマン・ショック対応を 優先するべきと考えたからだ。 党利党略しかない、旧民主党政権と違い、 命がけでリーマン・ショック対応した麻生さん。 さすが、名宰相吉田茂の孫である(笑)
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> 逆に考えれば、この国が戦争に巻き込まれるかどうかは > 米国の意思次第でない?🤣 米空軍マイク・ミニハン司令官、台湾有事が2025年に起こると予測して準備を急ぐよう指示していた事が判明 https://x.com/newssharing1/status/1793014211301576800?s=46&t=gGyV4xwzvkz00GQ1ypWQsg 予測じゃなくて台湾有事計画だろう。なんせ米軍だからな。 ジェイソン・モーガン氏「自民党全員ディープステート。自民党は日本の政党ではなくワシントンの子会社でグローバリストそのものです。ほとんどのメディアはワシントンのプロパガンダのコピペ。NHKとか」 newssharing.net/jason-m-morgan3 SNS「亡き父は「吉田茂はワンマンじゃなくて、パンマンだ」と言っていました。アメリカの男妾と言う意味です」
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先日、麻生さんの祖父、吉田茂氏が首相在任中の動画をたまたま見ていたら、同じような中折れ帽をかぶっていて、「あ、麻生さんのファッションは祖父譲りなんだ」と感じたのを思い出しました。 ミッチー師匠は、厚生労働大臣などはいかがでしょう。 労働法制の整備の仕事もありますけど、大きなのが年金基金の運用です。 運用で何十兆円も増やすスキームを生み出したら、将来の年金は安心。 ヘタな総理大臣より末代まで語り継がれますよ。
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吉田茂氏は、晩年にカトリックの洗礼を受けましたね 現役時代は、いろいろ差し障りがあるから見送っていました ああいうのを「天国泥棒」って言いますw
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> >それに伴い > >新紙幣の肖像画は > >宮本武蔵 大石内蔵助 黒田如水に > >変更が好ましい。 > > あるいは > 加藤大治郎 谷口けい 加藤文太郎 > > 今の無気力な若者が少しでも何かを感じ > てくれると思う。 ありえないでしょ。 石原裕次郎、美空ひばりをいれることもありうるでしょ❔ 慎太郎はちょっと、、、、 政治は吉田茂、 スポーツ、野球は王貞治 がいいかもしれませんね。
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5月5日にジュネーブで、武見厚生労働大臣とWHOのテドロス事務局長が対談。 岸田政権の治験国家構想は、国際約束なんだろうね。 武見先生のお父さんの武見太郎氏は、元世界医師会の会長という大物。 戦後、超大物政治家の吉田茂首相とは親戚関係だ。 来年中には、エムスリーの株価も10000円ぐらいになると予想します。
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>戦後、送り返しておけば良かった 吉田茂がそれをマッカーサーにお願いしたけど、 却下されたんだよね。 コリアンたちが残りたいってGHQに言ったんだろう。 コリアンたちが帰りたいって言っていれば、実現したはずだ。
吉田は農相に人を得ないとして組…
2024/06/02 23:08
吉田は農相に人を得ないとして組閣を投げ出そうとするが、仲人役の和田を局長から次官を飛び越して大臣にすることで踏みとどまった。和田は中山伊知郎を推薦し応じなかったが、幣原喜重郎、石黒忠篤、武見太郎が吉田茂の外相官邸で膝詰談判をした。和田は石黒に「また、おれを断頭台にのせるのか」と反論したが、かれらはとうとう和田を大臣にしてしまった。43歳の大臣誕生である。与党自由党は鳩山一郎前総裁、河野一郎幹事長以下第一次農地改革の担当者である和田農相に反対し吉田内閣も消えそうになったが、三木武吉の機転でようやく吉田内閣が実現した。 和田は、昭和20年産米が大凶作(農林省は587万トンと公表)となり1千万人が餓死するという流説が飛び交うなかで未曾有の食糧危機を凌ぐとともに、与党の強い反対にも屈せずマッカーサー等GHQの信頼を得て戦前からの農林省の悲願であった自作農創設、小作農の地位向上を内容とする第二次農政改革を遂行した。なお、第一次吉田内閣で和田と並ぶ看板大臣といわれたのが石橋湛山蔵相であった。