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小さな田舎町なのに、一日でお寿司16万円分捨てたり、パンを90ℓの袋3倍分捨てたこともあると聞きました。店長が品物を切らすな、とうるさく、いつ行っても品物で溢れている状態を作りたかったみたいです。旧店舗の売り上げの3倍売り上げたと威張り散らしてたみたいだけど、これってどうなの?
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この会社栗原市にあるんですね🥺 田舎町ですごいことしようとしてる、なんだかカッコいいですね🥺
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田舎町ではどうか知らんが さすがに F1を暴走族上がりの競技と思ってる人は 少ないんじゃね?
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今は神奈川県民なんですけど、去年まで12年ほど都内在住でしたよー。育ちはパンダ県田舎町です
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田舎町じゃけど立ち食いの 肉そばが540円になったよ~😭
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わたし、育ちはパンダ県田舎町w古い道が人気のとこですよん。最初の愛車はスズキの某小さい四駆!
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久喜市なんて人口が多い所ならまだ良い 地方の小さな田舎町だともっと住民税が高い、
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ドラさん スゲ~だがやキタ――(゚∀゚)――!! NYで何を喰っていの?ラーメンは4~5千円?☞行きたいとも思わないが 35年前に行った東欧が懐かしい☞隣でバイオリン演奏&🍷ワイン1本のディナーでJPY1,000円程度だったが☞今の円安はスゲ~と思う シナ出張していた頃はRMBが@12円の頃☞昼飯は江蘇省の田舎町で ランチで小籠包を腹いっぱい喰って3人分でJPY400円程度の頃が懐かしい ※筋子2㎏が1マソ以下で安いと思うだがやキタ――(゚∀゚)――!!
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田舎町の外国人について、おそらくですよ、辺境を目指す外国人は多いし情報拡散も凄いから、都市圏パンクではないとみてます。じっさい、大阪はたしかに多いけどコロナ前よりも若干人種が増えてるなくらいです。 しかし…!しかしですよ!アゴーラはたぶんね、多分やけど絶対ぜえーーーったい吹くと見てますけどもね。万博あるしポルトマーレもあるしね。堺は関空と湾岸線の動脈に位置するから、どう見ても美味しいポジション。
英アーム、始まりは七面鳥小屋 …
2024/05/21 07:11
英アーム、始まりは七面鳥小屋 シャープに救われた窮地 それは霧が立ちこめる寒い夜のことだった。1990年11月、英国南部にあるアシュウェルという小さな街のパブにやって来たのはロンドン郊外に住むロビン・サクスビーという経営者だ。サクスビーはここから少し離れた学術都市のケンブリッジで設立されたばかりのスタートアップの経営を依頼されていた。 エイコーン・コンピューターという会社から切り出された12人が創業したアドバンスド・リスク・マシンズ(Advanced RISC Machines)、頭文字を取って通称「ARM(アーム)」という会社だが創業メンバーの12人はいずれも半導体設計者で、経営を担える人材を探していた。 アーム側の代表者と話していると突然店のドアが開き、男たちが続々と入ってきた。アームの創業メンバーたちだ。卓に座るサクスビーを取り囲んだ。いずれの手にもビールが注がれたグラスがある。 実はサクスビーは当初、ケンブリッジに移り住むことをためらっていたというが、彼らの話に耳を傾けて、この新しい半導体会社のかじ取りを担うことを決めた。こうして12人の技術者と1人の経営者で始まったアームは、すでに大型の商談をまとめていた。米アップルが携帯端末にアームの半導体を採用することを決めていたのだ。 実はアームは母体となったエイコーンの経営不振が原因で誕生した会社だ。12人のなかのひとりで後に長くアームの技術トップを務めるマイク・ミュラーは「人生のギャンブルだと思って起業に参加したけど、実のところ僕に選択肢はなかった」と振り返る。85年にイタリア企業の傘下に入ってからも不振続きで、エイコーンに残ることは現実的ではなかったと語る。 水平分業のパラダイムシフト 起死回生を期して取り付けたのがアップルとの契約だった。アップルはアームの出資者にも加わったが、期待外れに終わる。アップルが93年に発売した携帯端末「ニュートン」は今では「iPad」の原型とも評されるが、ちょうどこの年はワールドワイドウエブ(WWW)が無償公開されてインターネットが到来した時期にあたる。パソコンが爆発的に普及し始め、時代を先取りしすぎたニュートンはまったく売れなかった。 いきなり訪れたピンチを前に、サクスビーは発想を切り替えた。「ひとつの製品に頼るのは危険だ」。そこで考案したのが半導体を作るのではなく、設計に特化して他社にIP(知的財産)をライセンス供与するというビジネスモデルだった。背景には半導体とエレクトロニクス産業を取り巻くパラダイムシフトが存在していた。 アームが生まれる3年前に設立されたのが台湾積体電路製造(TSMC)だ。中国に生まれ、米国に渡ったモリス・チャン(張忠謀)が作った半導体の生産だけに特化する会社だ。後に「ファウンドリー」と呼ばれる。 その翌年には米テキサス大学の学生時代に起業したマイケル・デルが23歳の若さでナスダックに上場する。デルは顧客の要望のままにパソコンを組み立てて出荷する「デル・モデル」で一世を風靡し始めていた。二つの新しい会社が示すのは、エレクトロニクス産業で世界的な水平分業ができつつあるということだった。 ならば、高度な技術力が求められる半導体にもいずれ分業の波がやってくるはずだ。 こう考えたサクスビーが確立したのが、半導体の中でも頭脳にあたるプロセッサーで、命令の種類を減らして演算処理速度を高める「リスク(RISC=縮小命令セットコンピューター)」の設計に特化した会社への転換だった。その設計図をIPとして半導体メーカーなどにライセンス供与するのだ。 日本に猛アピール「ミウラと呼んで」 ただし、新しいビジネスモデルにはリスクが伴う。出費を抑えるため、アームのオフィスはケンブリッジから少し離れた田舎町にある七面鳥小屋に置くことにした。牧草が積まれた大きな一軒家に机やパソコンを持ち込んで急ごしらえのオフィスとした。創業メンバーは今も「barn(納屋)」と呼ぶ。それでも資金はみるみると減り続けた。エイコーンから移籍する技術者に約束していた昇給も凍結せざるを得ない状況に追い込まれた。 「救世主」は遠く離れた日本にあった。アームは創業直後から、当時は半導体で隆盛を極めていた日本を有望な市場と見て、社員を毎月派遣していた。技術者ながらマーケティングを担当することになったミュラーも日本語の名刺を携えて足しげく通った。つたない日本語で「ミウラと呼んでください」と言うのがお決まりだった。 突破口となったのがシャープだ。アップルのニュートンとほぼ同時期に携帯端末「ザウルス」を開発しており、アームの設計図に目を付けたのだ。シャープと契約を結ぶとアームの財務体質は大幅に改善していった。(日経記事)