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  •  ■「働きやすいように明るく行こう」 

    靴磨きに汗流す社長・松石禎己氏

    「東京で商談ですか。うまくいくといいですね」平成27年4月20日。早朝の北九州空港(北九州市小倉南区)の搭乗待合室で、黒エプロンを着けた男らが、額に汗をにじませながら、ビジネス客の革靴を磨いていた。航空会社、スターフライヤーの社員だ。その中で、社長の松石禎己(63)はひときわ威勢良く、冗談まじりに声をかけた。「ずいぶん使い込んでますね。このまま東京に行ったら、からかわれるかもしれませんよ」靴磨きの立案者は、松石本人だった。羽田空港周辺で、スターフライヤーの便が到着する早朝、靴磨きの店が開いていないことに気付いたからだった。地元・北九州のビジネスマンが、きれいな靴で胸を張って仕事ができるよう、サービスを始めた。靴磨きにいそしむ航空会社の社長の姿は、広くメディアに取り上げられた。スターフライヤーの顧客サービスと知名度の向上に寄与した。だが、松石の真の狙いは別にあった。

    トップである自分が、泥臭いことに取り組む姿を社員に見せることだった。泥臭さは松石の信条だ。スターフライヤーは18年3月16日、北九州-羽田線に第1便を就航した。機体は、黒と白のスタイリッシュなカラーとした。座席は間隔を他社より12~15センチ広くし、革張りシートを備えた。客席数を犠牲にしても、ちょっとぜいたくで心地よい客室を心がけた。機体の運航効率を上げ、日本航空や全日空に比べて割安な料金を設定した。良質なサービスと料金設定で路線拡大にひた走った。

    だが、逆風が襲う。

    スターフライヤーより料金が安いLCC(格安航空会社)が24年以降、急速に台頭した。大手2社も値引き攻勢を仕掛けてきた。
    さらに25年、機体のリース費用が想定を上回り、大幅な赤字に陥った。24年12月に筆頭株主となった全日空の支援を受けて、立て直しを図ることになった。そして、全日空から社長として送り込まれたのが松石だった。松石は運航整備部門のエキスパートだった。機体整備を担当するANAエアロサプライシステムの社長などを歴任した後、全日空を退職していた。ただ、松石の実直で粘り強い性格を、全日空会長の伊東信一郎(65)=現ANAホールディングス会長=は、よく知っていた。だからこそ、松石を指名した。26年3月、まず顧問として着任した松石は、前経営陣が策定した30ページほどの「経営合理化計画」に目を通した。唯一の国際線「北九州-釜山」の廃止や、30人規模の希望退職-。業績回復の道筋が示されていた。「自分と同じ考えだ。特に大きな変更をすることはない。自分の役割は、これをしっかり果たすことだ」松石は納得した表情で計画を閉じた。

     だが、気にかかったことがあった。

  • 松石は入社初日、ちゃめっ気たっぷりに、あいさつして回った。だが、社員の表情は暗く、松石の軽口への反応も薄かった。
     「就航から8年しかたたないのに、どうも、覇気がない…」
    松石は、スターフライヤー社員に、“新興”航空会社ならではの熱気を期待していた。だが、社員はよく言えば従順、悪く言えばイエスマンばかりのような雰囲気で、「当事者」としての積極性がなかった。その表情に、松石は見覚えがあった。スカイネットアジア航空(現ソラシドエア)の社員と同じだった。スカイネットは、宮崎市に本拠を置く航空会社として、14年に宮崎-羽田線を開設した。

     だが、知名度の低さから乗客数は伸び悩んだ。使用した中古の機体は故障が相次ぎ、欠航も多かった。
     16年6月、産業再生機構の支援の下、全日空と業務提携して再建を目指すことになった。松石は17年6月、運航管理部門の担当常務に就任した。
    スカイネットは同年8月1日、長崎-羽田線の就航を予定していた。そのための機体は、契約しているルーマニアの工場で整備中だった。

     だが、就航まで1カ月半を切っても、肝心の納入時期について、報告が上がってこない。

     「一体、どうなっているんだ?」
     しびれを切らして、部下に聞いても、「大丈夫です。やっていますから心配しないでください」と気楽な返事が返ってきた。

     どこか他人任せな言葉に、嫌な予感が膨らんだ。調べさせると、案の定だった。南国・宮崎らしく「ヤシの木」を使ったロゴマークの塗装さえ、手つかずな状態だった。
    8月1日に就航するには、最低でも7月29日までに日本に持ち込み、国土交通省などの認定を受けなければならない。

     派遣会社に手配していた機体を日本まで運ぶパイロットも、いつの間にか連絡が取れなくなった。

     スカイネットの社員は、楽天的な発言から打って変わって、早々にあきらめを口にし始めた。

     松石は声を張り上げた。
    「手があるはずだ。ほかからパイロットを見つけられるはずだ。8月1日には必ず就航するんだ。最後までやるぞ!」

     松石は渋る部下を現地に向かわせ、機体整備やパイロット手配などに当たらせた。
    締め切りギリギリの7月29日夕。長崎で就航記念パーティーが開かれた。松石は胸中の不安を押し殺しながら、出席した。
    そこに、機体が、到着したとの連絡が入った。心底ホッとした。8月1日、第1便が予定通り飛び立った。

     この一件をきっかけに、社員の目つきが変わった。前向きな姿勢を示し始めた。すると業績も回復基調に向かう。松石が副社長時代の20年3月期に黒字を達成した。

     「企業は、やはり社員だ。社員が生き生きと働いて、やりがいを感じる環境こそ大事なんだ。スターフライヤーでも、社員が働きやすい環境を整えよう。まずは明るく行こう」
    松石はこう考えた。人前でしゃべるのは苦手でシャイな性格だが、靴磨きのイベントでも、あえて人前に出て、明るい社長像を演じた。


     そんな松石を、全日空からの出向組で取締役執行役員の柴田隆(59)が支えた。

     2人は誰よりも早く出社し、人気のないオフィスで、スターフライヤーの将来について話し込んだ。

     「次の新機体導入は当面先です。今は会社の体を丸める時期です。その間、人材育成に力を入れて、社員が元気よく働ける企業にしましょう」

     全日空で財務畑が長かった柴田は、経営企画本部長として、平成32(2020)年度までの経営戦略の構築を担った。27、28年度は「地盤づくり」と位置づけた。飛び立つ「飛翔期間」は29年度以降だ。

     「会社に長期計画はあるが、社員にとって、自分の働きがどう貢献するのか分かりにくいな」

     柴田は数人規模のミーティングを繰り返し、個々人の役割を徹底させた。

     人材育成の必要性は、松石も痛感していた。

     業績悪化によってスターフライヤーは事実上、全日空の傘下に入った。

     だが、松石はスターフライヤー社員に、自立心を植え付けようと考えた。特に企画力の育成を重視した。

     26年秋、松石は翌年1月1日の「初日の出フライト」を、これまでの代理店ではなく、社員が直接企画するよう命じた。指示した条件はただ一つ。利用者を「無料招待」することだけだった。

     命じられた22人のチームでは、反発するメンバーも多かった。

     「お金を払ってもらえれば、よりきめ細かなサービスをして喜んでもらえるのに…」「事業費150万円作るのに、どれだけ苦労するか」

     メンバーは週に1度、ミーティングを開き、イベントの中身や、経費の捻出のアイデアを出し合った。

     「自分たちスターフライヤーの社員が思っている感謝を、乗客に形にして伝えよう」

     ミーティングを重ねるごとに、そんな思いが募り始めた。

  • 27年1月1日を迎えた。ふだんビジネスマンらの会話が飛び交う北九州空港の搭乗待合室に、ビオラなど弦楽四重奏の生演奏と、美しい歌声が響いた。初日の出フライトの招待客33組の前に立ったのは、大学で声楽を学んだ客室乗務員(CA)や副操縦士らだ。

     福岡・天神の人気店のパンもサービスした。社員自らがパンを袋詰めし、経費を節減した。

     機体は鹿児島・桜島への周遊飛行に離陸した。機中では、乗客の家族や恋人、友人からのメッセージを座席前のモニターで映し出した。

     「元気に暮らせるのは家族のおかげです」「お母さん、おばあちゃん、2人のおかげで、ここまでこれました」

     1時間半のフライトを終え、機体が北九州空港に帰ってきた。ロビーであいさつに出迎えた松石を、乗客の一人が抱きしめた。外は厳寒だったが、そこにいた人々の胸の内は温かくなっていた。

     その後も、機内の結婚式など、社員のアイデアから自主企画が次々と生まれた。

     社内に活力が生まれた。原油価格の低下もあり、27年3月期は最終利益4億3千万円と、2期ぶりの黒字転換を果たした。

     松石は、定期国際便の復活を夢見る。地元・北九州の夢でもある。

     「航空会社は華やかな世界じゃないんだ。青臭く、泥臭い努力が必要だ。ノウハウを蓄積し、近い将来、再び北九州から国際便を飛ばそう」

     スターフライヤーに立ち込めていた暗雲を、松石という「晴れ男」が払った。(敬称略)

  • ■「新しい航空会社で世の中を変えてやる」 出資に込められた地域の願い

     「今までの航空会社とは違う新しいスタイルを始めたい。午前5時30分から翌日午前1時15分まで運航します。足を組んでも苦にならない座席間隔です」

     平成18年1月16日、品川プリンスホテル(東京都港区)で、北九州空港を拠点とするスターフライヤーの航空券発売の記者会見が開かれた。就航まで残り2カ月。創業社長の堀高明(67)は、既存の航空会社との違いを強調した。

     堀の説明は、驚きをもって受け止められた。

     シートは全席本革製。電源コンセントに液晶モニター、足置きが備えられた。座席間隔は、他社の機体に比べて10~20センチ広い。空港の搭乗待合室や受け付けカウンターに至るまで、機体と同じ黒色で統一した。

     しかも運賃は大手航空会社より2割程度、安く設定した。

     その秘密はシャトル運航にある。3機で1日計12便運航することで、1便当たりの空港従業員の人件費など固定費の負担を減らし、低価格を実現した。

     記者会見中、堀はふと、目の前に飾った航空機の模型に目を落とした。

     「大手の寡占に一石を投じる」

     そんな野心とともに、北九州という街への感謝の念がわいた。「地元の思いを大事にした経営をしなければならない」

     スターフライヤーは、地元企業の支援なくしては存在しなかった。TOTOや安川電機など有名企業から、資本金が1千万円に満たない110以上の中小・零細企業まで、計43億円を出資した。そこには、北九州活性化への願いが込められていた。

                     × × ×

     8年11月、旅行代理業「エイチ・アイ・エス」創業社長、沢田秀雄(65)=現会長=が、新規航空会社「スカイマークエアラインズ」(現スカイマーク)を設立した。定期旅客便を飛ばす航空会社の新設は、実に35年ぶりだった。

     北海道国際航空(現エア・ドゥ)やスカイネットアジア航空(現ソラシドエア)も名乗りを挙げた。

     背景には規制緩和があった。日本では戦後、航空産業の発展を目的に、国主導の航空業界の再編と、厳しい規制があった。例えば、ある路線につき運航事業者を「最大3社」と制限していた。

     このため航空業界は全日本空輸、日本航空、日本エアシステム(18年に日本航空に吸収合併)の3社による寡占が長く続いた。航空産業は大きくなったが半面、航空運賃は高止まりし、サービスもマンネリ化した。

     政府は、規制緩和を求める国内外の声に押され、こうした制限の撤廃に着手した。羽田空港の発着枠も優先的に新興航空会社に与える優遇策を打ち出した。

     新興航空会社は優遇策を追い風にした。ただ、各社とも就航時の保有機体は少なく、知名度の低さに苦しむ。大手の値下げもあって、新規参入組の業績は悪化した。

     管制の仕組み、機材の発注、予約決済システム、許認可権をもつ国との折衝など、航空業界の専門的なノウハウにも欠けていた。

     堀は、この“低空飛行”をもどかしい思いで見ていた。

     堀は業界3番手の日本エアシステムに勤めていた。自治体や国との折衝を担い、業界の人脈もある。

     「これからは、個性のある新しい航空会社が必要なんだ。俺たちなら、他社と同じ轍(てつ)は踏まない」

     13年夏、創業を決意した。堀は当初、17年度の開港を控えた神戸空港での参入を考えた。52歳だった。

     14年12月17日、「神戸航空会社」を創業した。ライト兄弟が人類史上初めてとされる飛行機を飛ばした日からちょうど100年目。航空業界にとって特別な日だった。

     ただ、神戸空港を本拠にという構想は、頓挫した。空港管理者の神戸市の目は、大手2社に向けられていた上、別の新興航空会社の就航も決まっていた。堀が望んだ24時間運用も実現しない。

     失意の堀の目に、北九州沖に建設中の空港が映った。


     北九州市企画政策室長の片山憲一(63)=現北九州エアターミナル社長=は同じ頃、一抹の不安を感じていた。

     北九州市長の末吉興一(81)=現アジア成長研究所理事長=は昭和62年の初出馬以来、地域経済浮揚のカギとして、新空港整備を掲げた。

     その新空港が17年度、周防灘を埋め立てた人工島についに開港する。

     だが、全日空や日航は、保有する羽田空港の発着枠を北九州路線に振り分ける考えはないようだった。

     地方と羽田を結ぶ東京線は航空会社にとってドル箱路線だ。だが、羽田空港の発着枠は各航空会社に割り振られている。数に限りがある。この発着枠を、これまで空港がなく、市場規模も見えない北九州に振り分ける余裕はない。

  • 片山は、羽田の便数を増やすには、北九州空港を拠点とする新たな航空会社しかないと考えた。

     だが、航空会社設立に名乗りを上げ、市に出資を依頼してきた業者の多くは、片山の質問にも満足に答えられなかった。市の金で「一山当てよう」と考える山師のような人間が含まれていた。

     そんな最中に、堀が片山に面会を申し込んだ。

     さすがにプロだった。堀の計画は、深夜早朝も飛ばし、1機当たりの飛行時間を増やすことで、コストを低く抑えるというものだった。24時間空港を目指す北九州空港ならばその条件が当てはまる。

     しかも堀の周囲には、全日空出身の武藤康史(62)ら航空業界のノウハウを持つ人間が多かった。

     実は堀は北九州と無縁ではない。日本エアシステム時代、定期便就航を目的に、旧北九州空港の滑走路延長を働きかけ、実現させた経験を持つ。市の新空港担当部署に知人も多い。

     堀との面会を終えた片山は市長室で進言した。

     「末吉さん、この航空会社は資金さえ集まれば成功すると思います」

     末吉の脳裏にあったのは、日航や全日空による路線だった。

     「信じてよいのか?。大手航空会社の印象を悪くしないだろうか…」

     末吉は一瞬考えをめぐらすと、片山に「企業誘致」名目で、堀の支援担当を命じた。

     肝心の名称が「神戸航空」のままでは具合が悪い。堀は社名をスターフライヤーに変えた。

     夜光る星「スター」に24時間運航の思いを込め、ライト兄弟の飛行機「フライヤー号」をもじった。


     片山は、企業を堀に紹介し、ともに出資を頼んで回った。航空会社設立には60億円もの資金が必要とされていた。

     堀も、ただ待っていただけではない。

     株主優待制度としてチケットを割安で購入すれば、社員の出張費を軽減でき、出資金も数年で回収できると訴えた。

     16年3月末、第1弾として、北九州都市圏の主要企業5社から、2億1千万円の出資を受けた。この実績が国土交通省に認められ、羽田空港発着枠の分配に手を挙げることができた。

     TOTO会長の重渕雅敏(80)はその年の11月、北九州商工会議所会頭に就任すると、自ら市内の会員企業に出資を打診した。会員企業を集めて、説明会を開くほどの力の入れようだった。

     北九州市の政財界には、大きな期待を寄せるわけがあった。

     四大工業地帯といわれたのは遠い過去。昭和38年の5市合併時点で100万都市だった北九州は、鉄冷えによって、どんどん人口が減少した。企業流出も相次ぎ、日銀北九州支店の移転の動きさえあった。

     市長の末吉、そして経済界の首脳は、北九州没落の原因の一つとして、空港の不便さを挙げていた。

     もともと北九州地区は、製鉄業に加え、陸路と海路における九州の玄関口として、隆盛を誇った。

     だが戦後、経済圏の拡大に伴い、交通・物流の主役は空に移った。市内には滑走路1600メートルの小規模な北九州空港しかなかった。対して、福岡市は中心部からわずかな距離に滑走路2800メートルの大空港がある。

     北九州市は、起死回生の一手として、沖合に新北九州空港建設を進めた。ただ、ハードを作っても、飛行機が飛ばなければ、無用の箱物に終わる。

     堀にとって夢であるスターフライヤー構想は、北九州にとっては、極めて現実的な要望に添ったものだった。

     市内からは中小企業も支援に手を挙げた。資本金が500万円程度のある印刷会社は1千万円を出した。

     北九州市も17年度予算で、スターフライヤーに10億円の補助金を計上した。

     だが、北九州だけでは足りなかった。

     北九州発祥のゼンリンを全国企業に育てた大迫忍(1945~2005)は、福岡都市圏に手を伸ばした。

     製造業の街・北九州と、商業都市・福岡。同じ県とはいえ、両市の間には、微妙な反発があり、これまで同じプロジェクトを協力して行った経験は、ほとんどなかった。

     大迫は、九州の発展には北九州・福岡両都市圏の連携が欠かせないと考えていた。“断交状態”だった両市の経済界の交流を進め、福岡財界に太いパイプがあった。

     大迫はスターフライヤーについて、九州電力など福岡市の主要企業で構成する「七社会」に働きかけた。

     そして、堀にこう言った。

     「彼らは、口に出さないけど、裏でOKをもらっている。お前はあいさつに行き続けろ」

     堀は大迫に頭を下げた。だが、スターフライヤーに協力してくれた大迫は病に倒れ、17年6月に死去した。59歳だった。七社会は同じ年の9月、5億円を出資した。

     堀は胸中で大迫の冥福を祈り、誓った。

     「海外と同じように、飛行機をホテル代わりに使ってもらうような航空会社を作ります。将来は24時間飛ばして、世の中を変えてみせます」(敬称略)

  • 配当が出る、債務を8億も早期返済できるその体力が出来たのはまさに、企業評価に値します

  •  ■「貨物室スペースを丸ごと売ろう」 早朝深夜の“低空飛行”続く

     黒の機体がゆっくり動き出す。コックピットで機長が左こぶしを上げた。滑走路の端から徐々にスピードを出し、機体は轟音(ごうおん)とともに、雨空へ飛び立った。
     平成18年3月16日午前7時過ぎ。新たに完成した北九州空港から、スターフライヤーの第一便が離陸した。関係者から、歓声と拍手が湧き起こった。

     もちろん、創業社長の堀高明(67)も、そこにいた。

     「いよいよ、これからです」

     コメントを求める報道陣に、そっけないほど短く答えたが、胸中は達成感でいっぱいだった。

     「飛ばない、飛ばないといわれ続けたが、ここまでこぎ着けた。第1段階はうまくいった」

     一瞬笑みを浮かべ、そして表情を引き締めた。

     スターフライヤーは、日本エアシステム(後に日本航空に吸収合併)出身の堀をはじめ、全日空など大手航空会社に籍を置いた6人が中心となって創設した。

     狙いは、さまざまな規制に守られてきた業界の常識を打ち破り、新たな航空サービス、航空会社像を確立することだった。

     国の飛行事業認可を取得し、整備士やパイロットら人材も確保した。17年9月には、東京・羽田空港の発着枠を、昼間9枠・深夜早朝帯3枠を獲得した。北九州-羽田を1日12往復するシャトル運航が実現に近づいた。

     一地方空港が、開港と同時にドル箱路線の羽田便を10便以上持つのは、極めて珍しい。背景には、堀らの努力に加え、北九州経済の潜在力があった。

     北九州にはTOTOや安川電機など、ものづくり企業が集まる。近隣の大分、山口県の一部を含めれば、年間200万人が、東京との間を移動している。大半は新幹線や福岡空港を利用していた。

     スターフライヤーは、こうした人々を取り込むことで、年間搭乗者100万人を目指した。事実上の初年度にあたる18年度黒字を見込んだ。

                     × × ×

     多くの新興航空会社が、遅れや欠航を繰り返す中で、スターフライヤーの滑り出しは順調だった。

     18年度の定刻15分内に出発する「定時出発率」は93・7%で、全日空や日本航空と同水準だった。計画通りに飛んだ割合を示す「就航率」は、99・2%で国内トップに立った。多くの関係者は、その数値に目を見張った。

     だが、堀たち経営陣にとっては、当然の帰結だった。その理由は機体にあった。

     巨大な航空機の購入費用は、1機当たり100億円前後もする。新興企業に出せる金額ではない。そこで、機体をリース会社から「賃借」する。

     スターフライヤーの経営会議では、リース対象を新規機体にするか、1~3年使用した「新古機」にするかの両案が出た。当然、新古機の方が安い。だが、堀は新規機体を選んだ。

     「われわれのビジネスモデルは、シャトル運航で1機当たりの稼働時間を増やすことにある。中古の機材ではもたない。高い“買い物”だが、無理しても新造機のリースで行こう」

     中古機材は過去、どんな整備が行われていたか詳しく調べ、参考にしなければならない。それには大がかりな点検が必要で、時間や人材も足りない。

     さらに、機体の性能もあった。有力候補に上がっていた欧州エアバスの小型旅客機「A320」(170席前後)は、搭載する電子機器の水準が急速に進歩していた。数年の違いとはいえ、新しい機材が、望ましいのは明らかだった。

     堀は全日空出身の常務、武藤康史(62)にリース契約の交渉を任せた。

     武藤は、全日空の昭和61年の国際線進出を、経営企画の部署で担当した。社費でハーバード大留学も果たした企画畑のエースだった。機材の購入経験もある。早速、米GEキャピタル・アビエーション・サービシズ(GECAS)を軸に、リース交渉を始めた。

     新規機体を借りることは決めたが、経費が抑えられれば、それにこしたことはない。

     武藤は腹案があった。

     リース会社を飛び越して、航空機メーカーとの直接交渉だった。正確にいえば、エアバスの日本法人と、米ボーイングの代理店商社に、ある商談を持ち掛けた。

     「私たちに、メーカー側からクレジットメモを出してもらえないだろうか」

     「クレジットメモ」は、メーカーが購入者に発行する書類で、後に航空機の部品調達などに際して、割引などの“特典”がある。本来、機体を借りる航空会社には縁のないものだ。

     「クレジットメモがあれば、機材の維持費用を抑えることができる」

     こう考えた武藤の脳裏には、ボーイングとエアバスの日本におけるシェア争いの図式が浮かんでいた。

  • 日本市場ではボーイングが、エアバスを大きくリードしていた。しかも全日空や日本航空が使っていたエアバスの機体は、更新時期が近づいていた。エアバスにとって、下手をすれば、日本市場から退場せざるを得ない状況だった。「何としても日本市場に橋頭堡(きょうとうほ)を確保しておきたい」。武藤の作戦は、エアバス側の危機感を突き、「クレジットメモ」を獲得した。GECASから、A320を3機リースすることが決まった。だが、離陸したスターフライヤーに、猛烈な向かい風が吹く。

     最大の逆風は、原価のほぼ4分の1を占める燃料費の高騰だった。
    第一便が飛んだ年の10月、石油輸出国機構(OPEC)は総会で、原油の減産を決めた。それでなくても原油は高止まりしていた。ニューヨーク原油先物相場の米国産標準油種(WTI)は、堀が創業した平成14年は1バレル=20ドル台だったが、18年は60ドルまでになっていた。OPECの決定が引き金となり、原油価格は天井知らずの上昇を続けた。
    「世界情勢で決まる話だからしようがない。山手線の混雑を怒っても、しようがない。それと同じだ」

     さすがの堀も、ぼやくことしかできなかった。
    加えて、日本有数の混雑空港となった福岡空港で、“価格破壊”が起きた。
    北九州空港開港とスターフライヤー就航に合わせて、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が、福岡-羽田の運賃を大幅に下げた。日本航空も追随し、両社は片道1万2千円(1週間前予約)という価格を打ち出した。

     同じ1週間前予約でも、スターフライヤーの北九州-羽田は1万7800円だった。福岡空港から客を奪い取るどころではなかった。

     さらに、スターフライヤーのビジネスモデルの肝といえる早朝深夜便の不調が続いた。搭乗率は目標の5割に対し、半年後も4割にとどまった。

     深夜早朝に羽田空港を行き来する交通手段が不十分で、利用者が深夜早朝を避けていた。やむなく堀は18年11月、北九州発の最終便と羽田発の始発便の運休を決めた。

     スターフライヤーは18年度に14億円、19年度も15億円の最終赤字を計上した。「初年度から黒字化」は遠い目標だった。

               

     堀ら経営陣も、予想外の出来事に立ち尽くしていたわけではない。
     「機体のおなかを使いましょう。貨物室のスペースを丸ごと売れないだろうか」苦境の中、武藤が経営会議でこうぶち上げた。機体の手荷物室を活用し、荷物を運ぼうというプランだった。
    とはいえ、自前で貨物事業に乗り出せば、専用の社員や施設を用意しなければならず、利益を出すことは難しい。
     「適切な提携先があればよいのだが…」堀は考えあぐねた。そこに朗報が入る。
    「福山通運が航空貨物に力を注ごうと考えている。話をつないでもいい」
    旧知の米大手航空会社の貨物事業担当者から、連絡が入った。
    武藤は福山通運社長の小丸成洋(66)と交渉した。トントン拍子に話が進み20年8月には、具体的な事業計画ができた。通信販売会社の商品や電子機器、書類、衣料品などを1便3トン、1日合計66トン輸送するというものだった。
    福山通運との提携は、年数億円の収入となった。
    20年度決算で、6900万円と1億円に満たない数字ではあるが、初の営業黒字を計上した。
    ようやく上昇気流に乗ったかに見えた。だが、堀には時間がなかった。
    「本意ではありませんが、辞めようかと思います。最終利益も出せず、平成20年度に予定していた上場もできませんでした。北九州には迷惑をかけてしまいました」
     21年春。堀は頭を下げた。相手は、北九州商工会議所の会頭で、元TOTO社長の重渕雅敏(80)だ。
     重渕はスターフライヤー創業の恩人だ。出資説明会の壇上に自ら立ち、スターフライヤーへの協力を呼びかけてくれた。その後も資金が尽きかける度に、堀は重渕に増資を相談した。
     その恩人に、辞任の報告をせざるを得ない。堀は申し訳なさでいっぱいだった。重渕の表情を伺うこともできなかった。「始めたばっかりだから赤字を出すのは仕方がないだろうに…。数年後にまた、戻ってきなさい」重渕は、こう声をかけた。
    就航前の17年、スターフライヤーが増資した際、米国のベンチャーキャピタルが出資に応じた。この会社はスターフライヤー20%の株式を握り、筆頭株主となった。投資会社は、配当や上場によるキャピタルゲインで利益を上げる。彼らの目から見れば、計画通りの黒字達成も株式上場も果たせない堀は、経営者として失格だった。経営陣の刷新を要求した。
    就航からわずか2年半。スターフライヤーに協力してきた北九州市の関係者からは、「大目にみてはどうか」と擁護する声も相次いだ。だが堀は、筆頭株主ともめることを懸念して、退社を決めた。武藤ら創業メンバーも会社を去った。(敬称略)

  • 【九州の礎を築いた群像 スターフライヤー編】(4)デザイン 「見た目はクール サービスは温かく」 顧客満足度7年連続ナンバーワン
    座席も黒で統一されたスターフライヤーの機内
     「初めて、機体の絵を見たときは『黒なのか!』と驚いた。聞いたこともない。座席もカーペットも真っ黒だ。なんてこった…。でも、今この飛行機を見れば、誰もが素晴らしいと思うだろう」

     2005(平成17)年末、フランス南西部の都市、トゥールーズにある古城の一室に、航空機メーカー、エアバス幹部の声が響いた。

     トゥールーズには同社の本社がある。スターフライヤーが使用する機体「A320」1号機の受領パーティーだった。

     機体全面を黒に塗装した旅客機は、世界でも例がなかった。飛行中に太陽の熱を吸収し、計器に異変を起こしかねないこともあった。だが、最大の理由は、誰もが先入観にとらわれ、思いつかないからだった。

     その常識を打ち破ったスターフライヤーの機体は、塗装などを担ったエアバスだけでなく、高い評価を受けた。

     スターフライヤーの機体やロゴなど一連のデザインは、日本デザイン振興会の「グッドデザイン賞」を受賞した。

     スターフライヤーが黒を採用したきっかけは、北九州市を仲介にした1人のロボットデザイナーとの出会いだった。

                     × × ×

     平成16年秋。就航が1年半後に迫り、慌ただしい堀高明(67)に、北九州市企画政策室長の片山憲一(63)=現北九州エアターミナル社長=が、ある提案をした。

     「北九州はデザインに力を入れています。最先端のとがったデザインで勝負しましょうよ。JR九州の特急『ソニック』は、(工業デザイナーの)水戸岡鋭治さんが手がけて、首都圏でも知られるようになったし、TOTOのトイレもデザインが付加価値になってるんです」

     北九州市は、新たな地元企業となるスターフライヤーの起業を支援しており、片山が担当だった。

     堀は片山の提案に頷いた。機体やロゴ、備品にいたるすべての企業デザインを、1人のデザイナーに任せようと考えた。

     ただ、資金繰りは厳しい。有名デザイナーに何億もの金を出すことはできない。

     市が主宰する工業デザイン講座「北九州デザイン塾」の講師を通じて、ロボットデザイナーの松井龍哉(47)を紹介された。

     松井は32歳で独立した業界の注目株だった。デザインしたロボットは、全日空のCMキャラクターや、宇多田ヒカルの音楽ビデオに採用された。

     松井は快諾した。新たに誕生する航空会社の、あらゆるデザインを一貫して手がけるのは、デザイナーとして新たな挑戦であり、心が躍った。

     松井の意気込みは、堀らの想定を超えた。

     パソコンの前でまさに寝食を忘れて、マウスを握りしめた。海外の1千以上の機体を調べ上げ、デザイン案を作成した。

     「一発勝負だ。これでこけると、デザイナーとしてのキャリアに、大きな傷がつく」

                     × × ×

     1カ月後。松井はデザイン案を披露した。市内にあるスターフライヤー本社の会議室で、数十人の経営陣や社員が固唾をのんでスクリーンを見つめた。

     松井は3つの機体デザインを、順々に映し出した。

     最初は赤や黄、緑、青、オレンジがちりばめられた華やかな柄。次にクリーム色を、茶色の曲線で縁取ったもの。最後に、真っ黒の機体を示した。

     「全ての色を混ぜれば黒になる。究極の色です。企業の『独自性』を訴えるには、言葉だけでは理解されない。どこにもないこの色こそ、ほかにはない機体が作れます」

     堀は迷わず黒を選択した。思い描いていた航空会社像にピッタリだった。

     計器への影響は、熱を吸収しにくい特殊な塗料を使うことで解決しようとした。エアバス技術陣は検査を繰り返し、安全性に問題はない水準に高めた。

     乗客がひざにかける毛布、スリッパ、えんぴつ、いす-。松井は精力的に1千を超えるデザインを仕上げた。

     機体の差別化の方針は決まった。次はサービスの差別化だった。

     堀は、真心のこもった接客で差別化を図ろうと考えた。それまでの大手の客室乗務員の接客に、どこか高圧的な姿勢を感じていたからだった。

     サービスも企業ブランドだ。堀は松井に、「おもてなし」の監修もするよう依頼した。

                     × × 

     「東京から北九州へは、飛行機で2万円かかりますよね。都内の高級店でフランス料理を食べるときも同じです。同じ金額では、このようなサービスになります」
     平成17年の初め。松井は東京・西麻布のレストランで、スタッフのサービスを示してこう語った。席にはスターフライヤーの客室乗務員らがいた。

     社員は皆、納得いかない様子だった。


  •  「ここには熟練の経験者もいる。今さらレストランの人に、サービスのイロハを教わることはないだろう」

     視線の先にいる女性店長は、黒の長ズボン姿だった。格好は洗練されていたが、店員や常連客から「おかみさん」と呼ばれ、家庭的な雰囲気に包まれていた。

     これこそ、松井がスターフライヤー社員に、植え付けたいものだった。

     「見た目はクールだが、人のサービスは温かい。デザインとおもてなしの融合を、スターフライヤーの特徴にしたい」

     松井の意思は、徐々に浸透した。客室乗務員は、サービス内容を決めようと、会議を繰り返した。

     先頭に立った一人が、客室サービスグループ長の渕けい子=現・CS推進部担当部長=だった。

     渕は全日空の客室乗務員として、昭和61年の成田-米ワシントン便の初便に搭乗した経験を持つ。ベテラン中のベテランだ。全日空退社後は、客室乗務員を目指す専門学校の非常勤講師を務めていた。

     そんな渕に、堀は「ほかの航空会社と違うからスターフライヤーが存在する意味がある。それを体現するサービスを創ってほしい」と語った。松井も「どんなサービスも、一手間をかけましょう」と依頼した。

     渕は2人の言葉を軸に、機内で提供するサービスを考えた。

     東京-北九州の飛行時間は1時間40分となる。この時間内に、100人以上の乗客の性格や、その日の調子を把握し、それに見合ったサービスを提供したい。

     渕らは出発時のイヤホンの手渡しサービスを思い付いた。搭乗するお客、一人一人に手渡しすれば、客の雰囲気や性格も、ある程度わかるだろう。

     提供する飲み物にもこだわった。大手コーヒーチェーン「タリーズコーヒー」と契約を結び、チョコレートも1個添えるようにした。

     松井や渕が植えたサービスの種は、スターフライヤーの評価を高め、花を咲かせた。

                     × × ×

     とはいえ、航空業界は社員の入れ替わりが激しい。創業時を知る客室乗務員も少なくなった。松井氏のデザイン会社との契約は切れ、堀は退社した。

     渕は、スターフライヤーならではのサービスが続くか懸念した。経営が厳しくなる中で、コーヒーをのぞく一部のドリンクは、コストを切り詰め、提携先の全日空と同じものを使うようになった。

     27年の冬。渕は上司から、客室乗務員のおもてなし指針の変更を促された。

     指針は、就航前に渕が作ったものだ。「仕方ない」とあきらめながら、乗務員の指導教官に相談すると、彼女たちの意見は違った。

     「変更すべきではありません。10年続く、スターフライヤーのサービスの根幹です」

     渕は腹をくくった。

     「創業の時の思いは根付いている。それを引き継いでいこう。それこそがスターフライヤーのDNAなんだ」

     温かいサービスを軸にするのは、経営陣も変わらない。

     27年11月、3代目社長、松石禎己(63)は盾を手に、晴れやかな表彰式の舞台にいた。

     日本版顧客満足度指数(JCSI)の「国内航空会社部門」で、スターフライヤーがナンバーワンに輝いた。しかも7年連続の快挙だった。

     JCSIは、日本生産性本部が中心となって21年度に始まり、顧客満足度に関する国内最大規模の調査といえる。

     松石は「スターフライヤーが力を入れてきたホスピタリティーで、これからもお客に選ばれていくんだ」と胸を張った。(敬称略)

  • 国際定期便 復活の夢 

     5月の大型連休、黒い機体が台湾の桃園空港に到着した。連休中、北九州と台湾の間を計3往復するスターフライヤーのチャーター便だ。台北の空港では、消防車が放水のアーチで到着を歓迎した。こうしたセレモニーは、定期便就航の際によく行われるが、チャーター便では珍しい。
    「そこまでやってくれたのか」。社長の松石禎己(62)は、台湾での歓迎ぶりを聞き、頬を緩めた。直前の4月、熊本地震が発生した。家屋の倒壊や土砂崩れなど、被害の映像は、台湾など海外にも流れた。九州の旅館・ホテルは団体客のキャンセルが相次いだ。松石は搭乗者数を心配した。だが、キャンセル客はほとんどなかった。3往復のうち2往復は、ほぼ満席となった。チャーター機で北九州空港に到着した観光客は、そこから大分・由布院や長崎・九十九島など、九州各地の観光地に出かけ、九州旅行を満喫した。

     「台湾のお客さまも黒の機体や、広いシート間隔に驚いていました」「お客さまから『サービスは洗練されており、心地よい。さすが日本で(顧客満足度)一番だ』と言われました」客室乗務員のこうした報告に、松石は手応えを感じた。スターフライヤーは今、チャーター便に力を入れている。

     保有機体の稼働率を高め、採算を改善する目的だ。平成27年度は、韓国との間で計38本のチャーター便を飛ばした。初めての台湾とのチャーター便も、目前の狙いはあくまで、保有機材の稼働率アップだ。だが、松石はチャーター便を通じて、将来の国際定期便の可能性を探る。
    スターフライヤーは24年7月、北九州-韓国・釜山の定期便を新設した。国際定期便は起業以来、初めての試みだった。その後のアベノミクスによる円安効果もあり、訪日客は増加した。スターフライヤー釜山線の乗客数も、徐々に伸びた。
    ところが、リースしていた航空機の返却にかかる費用が想定以上に高くなり、会社は25年度に30億円の最終赤字を計上した。再生には経営合理化が欠かせない。筆頭株主となった全日空の意向もあり、釜山線は26年3月に運休となった。唯一の国際線取りやめは、希望退職者の募集とともに、スターフライヤーの苦境を、内外に強く印象づけた。

     それだけに松石ら経営陣は、会社再生のシンボルとなる国際線復活を夢見る。

     経営効率化と原油価格の下落を背景に、27年度は過去最高となる25億円の最終黒字を達成した。業績のV字回復によって、29年~32年度に向けた投資資金も、27億円から39億円に積み増しできた。「全日空だって、国際線の赤字脱却に昭和61年の就航から18年もかかった。長期的な経営安定のために、もう一度、国際線に挑戦したい」

     松石は、30年度末に導入する新機材の就航先として、国際線も選択肢に入れる。スターフライヤーが使用するエアバス「A320」の航続距離は5500キロだ。本拠を置く北九州空港からは、中国や韓国、台湾、東南アジアの主要都市をカバーできる。「今は国内5路線だが、どこに何便飛んでいるか、何機の機体を保有しているか、即答できないほど大きな会社にしよう」

     松石は社内にこう語りスターフライヤーが再び上昇するには、規模拡大と同時に、中身の充実が欠かせない。松石が考える中身の充実とは、これまで磨いてきたサービスのさらなる充実であり、新たな「スターフライヤーらしさ」の創造だといえる。今年3月16日、北九州市門司区の「門司赤煉(れん)瓦(が)プレイス」に、新しい制服に身を包んだスターフライヤーの客室乗務員の姿があった。
    就航10年の記念セレモニーの会場で、12月に導入予定の新制服を披露したのだった。
    スターフライヤーの客室乗務員といえば、黒と白を基調にしたパンツルックだった。就航当時は業界初の取り組みで注目を集めた。だが、肝心の乗務員からは異論もあった。「お客さまとしゃがんで話すには、スカートの方が動きやすいんです」経営陣はサービス向上の観点から、制服一新に踏み切った。パンツスーツにスカートを加え、カットソーやベスト、ワンピースなど、上下9通りのパターンから乗務員が選べるようにした。さらにスターフライヤーは4月、30年度に導入する機材の客室仕様を検討するプロジェクトチーム(PT)を設立した。PTの議論では、座席の間隔を詰めて、座席数を増やす案も浮上した。座席数を増やせば、1回当たりの飛行の乗客が増えるかもしれない。
     だが、松石の考えは違った。


  •  「この10年間わが社は、くつろぎのサービスを強みに、立ち位置を築いてきた。アクセントは変えても、大方針を変えてはダメだ。そこに新たなスターフライヤーらしさを見つけるんだ」
    PTに再考を促した。原点を重んじながら、進化をとげる-。松石の成長戦略だ。スターフライヤーの原点には、拠点の北九州も含まれる。
     「飛行機が飛ぶのは揚力ではありません。この年齢になって初めてわかりました。お客さまがいてこそ飛ぶんです」
    新たな制服を発表した3月のセレモニーで、松石は工学部出身らしい言い回しで、会場の笑いを誘った。目の前には、スターフライヤーの創業を支援した地元関係者250人がいた。「24時間運用の特性を生かして、北九州空港をいつか、海外からお客を呼び込む九州の窓口としたい。それが、会社の10年を見守ってくれた北九州への恩返しとなる。次の10年を見据えて手を打つ。それが私の役割だろう」
     松石はこう、自分に言い聞かせている。

  • 新機種導入の予定を記事にしていたメディアもありました。キャンセル機狙いでしょうか?
    どちらにせよ、羽田枠は早朝深夜しか取れないはずなので、地方便かな?
    北九州〜関空とか、北九州〜北海道とか飛ばないかな?

  • 以前のような活気がなく、淋しい感じが否めない。百貨店としての姿とともに、何か新しい取り組みだとか、試みがないと店内に覇気がない。
    株価は1円ずつ下がってきている。
    株の配当より友の会に入る方が得のような環境は決して思わしくない。
    がんばれ!井筒屋!

  • 機材整備の遅延は残念。ただ、安全を何より第一の姿勢で、進むことが大事だから、仕方ない。

    全機にwifi早く完備されることを祈ってます!そして夢の10機体制、待ち遠しいです。

  • SKYとのコードシェア、どうなったんだろ?せめて、マイル交換だけでもできるようになれば、ANA.ADO.SNA.SFJの就航ない地に行けるメリットがある。
    機材整備と引き換えにコードシェア迫ってもダメだと言われたんでしょう?どうしますかね?お金出した、380買わされただけとか、ちょっと気分良くないですね。

  • 2機のリース料金を8億上乗せして払っただけ、今年の1Qで重整備が重なっても、さほどの痛手がなかった。
    また3年後くらいから機体更新が来るから、今のうちに使い倒して飛び回ってもらいたい。
    どこかの雑誌が今年度に増機を示唆してたけど、前コメントされているように円高のうちに話を決めておきたいですね。
    某オークションでも株主優待の売れ行きが金額は安いにしろ、好調なのも、好材料ですね。

  • 軒並み株価下がってる中で、SFJ大奮闘です!これまでの着実、地道な努力が結果を生んでいるのでしょう!がんばれ!

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