検索結果 スレッド コメント 最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 機械> (株)石川製作所 730の続き 解説 吉田… スサノオ 2024/04/12 06:15 730の続き 解説 吉田・アチソン交換公文 このきわめて重大な取り決めは、 サンフランシスコ平和条約や旧安保条約と同じ1951年9月8日に、 アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。 「交換公文」とは、 政府の責任者間で書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。 旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、 事前には日本国民にいっさいその内容が知らされない「事実上の密約」 として結ばれたものでした (アチソンとは平和条約にも旧安保条約にもサインした、 当時のアメリカの国務長官の名前です)。 というのも、日本の占領を終えるにあたって、 米軍の駐留継続(旧安保条約)や、米軍への軍事支援の継続 (吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、 ポツダム宣言にも国連憲章にも違反する行為だったからです。 そのため平和条約によって独立を回復した日本が、 あくまで自由な意志に従ってそれらの取り決めを結ぶというフィクションが、 アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。 サンフランシスコの豪華なオペラハウスで平和条約が結ばれた 9月8日午前の時点では、 まだそれらの文書は存在しないことになっていました。 ところが実際には、もちろん条文は用意されていて、 その日の午後5時からサンフランシスコ郊外の米軍基地内で、 吉田首相ひとりの署名によってこの2つの取り決めが結ばれたわけです。 当初の日米交渉の段階で、 アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の原文は、 次のようなものでした~
最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 機械> (株)石川製作所 730の続き 解説 吉田… スサノオ 2024/04/12 06:15 730の続き 解説 吉田・アチソン交換公文 このきわめて重大な取り決めは、 サンフランシスコ平和条約や旧安保条約と同じ1951年9月8日に、 アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。 「交換公文」とは、 政府の責任者間で書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。 旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、 事前には日本国民にいっさいその内容が知らされない「事実上の密約」 として結ばれたものでした (アチソンとは平和条約にも旧安保条約にもサインした、 当時のアメリカの国務長官の名前です)。 というのも、日本の占領を終えるにあたって、 米軍の駐留継続(旧安保条約)や、米軍への軍事支援の継続 (吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、 ポツダム宣言にも国連憲章にも違反する行為だったからです。 そのため平和条約によって独立を回復した日本が、 あくまで自由な意志に従ってそれらの取り決めを結ぶというフィクションが、 アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。 サンフランシスコの豪華なオペラハウスで平和条約が結ばれた 9月8日午前の時点では、 まだそれらの文書は存在しないことになっていました。 ところが実際には、もちろん条文は用意されていて、 その日の午後5時からサンフランシスコ郊外の米軍基地内で、 吉田首相ひとりの署名によってこの2つの取り決めが結ばれたわけです。 当初の日米交渉の段階で、 アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の原文は、 次のようなものでした~
730の続き 解説 吉田…
2024/04/12 06:15
730の続き 解説 吉田・アチソン交換公文 このきわめて重大な取り決めは、 サンフランシスコ平和条約や旧安保条約と同じ1951年9月8日に、 アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。 「交換公文」とは、 政府の責任者間で書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。 旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、 事前には日本国民にいっさいその内容が知らされない「事実上の密約」 として結ばれたものでした (アチソンとは平和条約にも旧安保条約にもサインした、 当時のアメリカの国務長官の名前です)。 というのも、日本の占領を終えるにあたって、 米軍の駐留継続(旧安保条約)や、米軍への軍事支援の継続 (吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、 ポツダム宣言にも国連憲章にも違反する行為だったからです。 そのため平和条約によって独立を回復した日本が、 あくまで自由な意志に従ってそれらの取り決めを結ぶというフィクションが、 アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。 サンフランシスコの豪華なオペラハウスで平和条約が結ばれた 9月8日午前の時点では、 まだそれらの文書は存在しないことになっていました。 ところが実際には、もちろん条文は用意されていて、 その日の午後5時からサンフランシスコ郊外の米軍基地内で、 吉田首相ひとりの署名によってこの2つの取り決めが結ばれたわけです。 当初の日米交渉の段階で、 アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の原文は、 次のようなものでした~