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▷8日は新規の「きらぼしFG」を含めた47個が10勝35敗2分け。 67万円のマイナスで着地した。パフォーマンスは指数ほど悪くなかった。 英国ARMを含めた日米合算では66,5万円のマイナス。 ▷とにかくPF中枢のメガ損保3個と住商の自爆だけで損失の6割以上。 あとKDDI、朝日工、大林組、西松建設、神戸鋼にも火砕流。場中決算の 芙蓉総合も炎上した。 ▷唯一の猛攻組が決算明けの兼松で2591円(+37円)と終日プラス圏を 維持した。地銀5個は前日の反動で全てプラス圏じゃあるけど小幅。 ▷決算を評価すると(数字は今期予想)、 1.芙蓉総合 配当450円に増配、やや減益予想なので〇、場中決算で 13125円(-695円)の大幅安。前期の特益が消えただけで悪い決算じ ゃないのだが・・。 2.オリックス 大幅増益&増配(配当性向39%であれば131円)予想、 500億円の自社株、これは◎だわい。 3.IHI 1株益395円に黒転、配当100円維持、自社株なし、 増配がないから△の評価、 4.世紀東急 前期特損のため今期は35%増益。配当90円維持、配当性向 100%は25年3月期で終了。これも△かな。 5.佐藤商事 17%減益予想、配当73円(当初予想67円)→68円、場中 決算であまり動かなかった。明日が心配だ。 ▷英国ARMは現地8日引け後に決算発表だな。わくわくする。
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「日本の国の成立の第一歩は、ヤマト王権の成立ということになります。それは、ちょうど卑弥呼が亡くなった3世紀の中頃です。そして、その後5世紀になると〝倭の五王〟と呼ばれる王が5人続く安定的な統一王権が存在したことがわかっています。 でも、その間の4世紀に、どのように王権が推移していったのかは文献からはわからないんです。そのため、「空白の4世紀」と呼ばれています。 また、この空白の4世紀に王陵の場所がすごく変わっています。 3世紀の古墳は、邪馬台国、あるいは初代ヤマト王権の王の王陵と考えられるものが、奈良盆地の南にあります。そして、5世紀になって倭の五王の時代になると、大阪の平野に移っています。 では、4世紀はどうかというと、富雄丸山古墳のある奈良盆地の北に王陵が一時出てきます。つまり、4世紀は王陵の所在地が奈良盆地の南から北を経て、大阪平野へと変化する激動の時代なんです。 そして、富雄丸山古墳の調査によって、ある仮説が考えられるようになりました。 ヤマト王権の王は、畿内地域の諸勢力の中で、どの派閥が担いだ王なのかということです。王権の成立期は奈良盆地の南部の勢力がリーダーシップを握って王を輩出する立場にいた。しかし、4世紀になると弱体化して、主導権が大阪の平野部の勢力に移っていった。自民党の派閥争いみたいなものです。 そのとき、大阪の平野部の勢力のために非常に重要な働きをした人物が、富雄丸山古墳に眠っているのではないかというものです。 というのも、大阪平野に主導権が移ったヤマト王権は、5世紀になると盾形銅鏡に似た形をした革で作った盾や蛇行剣を各地の有力者に分け与えています。それによって連携を強めていきました。 その一番古いものが富雄丸山古墳から出ているのですから、大阪の平野部のヤマト王権に大きな影響力を与えた人だということが考えられるわけです」
具体的には、大陸東北部にいた半…
2024/05/20 19:20
具体的には、大陸東北部にいた半農の騎馬民族のうち、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」をかたちづくった、崇神天皇が『古事記』に「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」、『日本書紀』に「ミマキイリヒコイニエノスメラミコト」と記録されているのは、その現れであり、さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出し、そこで数代勢威を振るって巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したものとする[14]。そして、7世紀の唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮の保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝であるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする[15]。 なお、倭王武が、中国南朝宋に対して、使持節都督倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と上表したが、ここに当時存在しないはずの秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていないことに江上は注目している[14][16]。江上によれば、これは弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、それ以外は、倭王がかつて三韓を支配した事実を主張したものだとみる[14][16]。それが三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」であり、のちに唐王朝は「日本」なる名称を新たに名乗るようになった国家は、辰王朝が倭人を征服して成立した国家とみていたのだとする[14]