検索結果 スレッド コメント 最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 機械> (株)石川製作所 728の続き 危機に陥っ… スサノオ 2024/04/12 05:20 728の続き 危機に陥った米軍 1950年6月25日に始まったこの朝鮮戦争で、 日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。 それはマッカーサーの判断ミスで、 北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、 敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。 しかし、それでも米軍は負けなかった。 それは対馬海峡の対岸にある日本から、 どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、 「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、 まるで教科書のような戦況だったわけです。 米軍にとってそれは、 「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。 さまざまな戦争支援 そうした状況のなか、 連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、 さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。 おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、 まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。 日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、 朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、 「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。 それが1951年9月8日、 平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」 という名の条約です。 「おそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう」 もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、 だれひとりわかっていませんでした~
最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 機械> (株)石川製作所 728の続き 危機に陥っ… スサノオ 2024/04/12 05:20 728の続き 危機に陥った米軍 1950年6月25日に始まったこの朝鮮戦争で、 日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。 それはマッカーサーの判断ミスで、 北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、 敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。 しかし、それでも米軍は負けなかった。 それは対馬海峡の対岸にある日本から、 どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、 「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、 まるで教科書のような戦況だったわけです。 米軍にとってそれは、 「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。 さまざまな戦争支援 そうした状況のなか、 連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、 さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。 おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、 まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。 日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、 朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、 「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。 それが1951年9月8日、 平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」 という名の条約です。 「おそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう」 もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、 だれひとりわかっていませんでした~
728の続き 危機に陥っ…
2024/04/12 05:20
728の続き 危機に陥った米軍 1950年6月25日に始まったこの朝鮮戦争で、 日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。 それはマッカーサーの判断ミスで、 北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、 敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。 しかし、それでも米軍は負けなかった。 それは対馬海峡の対岸にある日本から、 どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、 「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、 まるで教科書のような戦況だったわけです。 米軍にとってそれは、 「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。 さまざまな戦争支援 そうした状況のなか、 連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、 さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。 おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、 まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。 日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、 朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、 「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。 それが1951年9月8日、 平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」 という名の条約です。 「おそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう」 もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、 だれひとりわかっていませんでした~