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アメリカの政治学者で、60年間にわたり日本の政治を見てきた、コロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーティス氏が日経新聞のインタビュー(10/7)の中で、総裁選の期間中に石破氏が(アメリカの)共和党に近いハドソン研究所の求めに応じて論文を出したのは「賢明ではなかった」とした。 この論文の中で、石破氏は、持論のアジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設や日米地位協定の見直しの必要性について説明している。カーティス氏は、「石破氏の言葉は、普天間基地の唐突な移設案や『東アジア共同体』の構想で米国を怒らせた鳩山由紀夫元首相と不気味なほど重なる」との認識を示した。 その上で、「石破首相の在任期間中にこれらを実現できるはずもなく、不要な発言を続ければ米国をはじめ諸外国の指導者から信頼されなくなるだけだ」と批判し、 その批判は閣僚人事にも及び、「期待外れだ。『新しい自民党』という印象はない。各国首脳や閣僚間の外交が極めて重要な時期に、首相も主要閣僚の一部も英語を話さないとみられるのは残念だ」 カーティス氏は、自民党政権に近く、知日派の中でも特に穏健派として知られており、そのカーティス氏でさえ、この論調ということは、石破の三日天下は、規定路線であろう。石破内閣の総辞職は時間の問題(爆笑)
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東洋経済オンライン 10月25日(金) 政治・経済国内政治 小泉進次郎という政治家を徹底分析してみる この10年の活動や成果を総括して見えた課題 中島 岳志 : 東京工業大学教授 2019/07/14 6:10 小泉さんという政治家を分析する際、非常に重要なのは大学卒業後に経験した約3年間のアメリカ留学です。彼はコロンビア大学大学院に進学し、日本政治を専門とするジェラルド・カーチス教授の下で学びました。この時代に一定の英語力を身に付け、自らの考えを人前で話す技術も習得します。そして、非常に重要なのが、留学3年目に所属したCSIS(戦略国際問題研究所)での経験です。 小泉進次郎(こいずみ しんじろう)/1981年生まれ、横須賀市出身。関東学院大卒業後、アメリカ・コロンビア大学にて政治学修士号を取得。戦略国際問題研究所(CSIS)研究員を経て、2009年から衆院議員を務める(撮影:尾形文繁) この機関はワシントンDCにあるアメリカ陸海軍直系のシンクタンクで、日本外交に多大な影響力を持ってきたリチャード・アーミテージなどが理事を務めてきました。小泉さんが所属していたときの日本部長はマイケル・グリーン。ブッシュ政権のNSC(国家安全保障会議)上級アジア部長です。 小泉さんは、ここでジャパンハンドラーズの代表的人物とつながり、影響を受けます。彼らは日本の有力政治家と接触し、自らの利益にかなう方向へと誘導することで知られます。小泉さんの外交・安全保障観は、親米を軸に構想されています。 後で述べるように、父と同様、アメリカの意向に沿うような構造改革・規制緩和路線を基調としています。この姿勢はCSISでの経験を抜きに考えることはできないでしょう。帰国後、小泉さんは父の秘書を務め、選挙基盤を受け継ぐ形で、2009年衆議院選挙に出馬します。 //ここから本題に入っていきます
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アメリカの政治学者で、60年間にわたり日本の政治を見てきた、コロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーティス氏が日経新聞のインタビュー(10/7)の中で、総裁選の期間中に石破氏が(アメリカの)共和党に近いハドソン研究所の求めに応じて論文を出したのは「賢明ではなかった」とした。 この論文の中で、石破氏は、持論のアジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設や日米地位協定の見直しの必要性について説明している。カーティス氏は、「石破氏の言葉は、普天間基地の唐突な移設案や『東アジア共同体』の構想で米国を怒らせた鳩山由紀夫元首相と不気味なほど重なる」との認識を示した。 その上で、「石破首相の在任期間中にこれらを実現できるはずもなく、不要な発言を続ければ米国をはじめ諸外国の指導者から信頼されなくなるだけだ」と批判し、 その批判は閣僚人事にも及び、「期待外れだ。『新しい自民党』という印象はない。各国首脳や閣僚間の外交が極めて重要な時期に、首相も主要閣僚の一部も英語を話さないとみられるのは残念だ」 カーティス氏は、自民党政権に近く、知日派の中でも特に穏健派として知られており、そのカーティス氏でさえ、この論調ということは、石破の三日天下は、規定路線であろう。10/28に石破内閣は総辞職(爆笑)
日本新党(にほんしんとう、英語…
2024/10/29 11:41
日本新党(にほんしんとう、英語: Japan New Party)は、かつて存在した日本の政党。略称は日本新、日新、JNP。細川護熙が1992年5月、既成の政治、行政を打破する構想を掲げて結成した。スローガンは、「責任ある変革」。 1993年7月の衆議院議員総選挙で35人が当選し、細川が非自民連立政権の首班となって政権交代を実現した。しかし、政治改革実現後の連立与党の分裂により、細川内閣は1994年4月に退陣し、同年12月に自由民主党・日本社会党・新党さきがけの自社さ連立政権(村山内閣)に対抗して旧連立与党(社会党、さきがけを除く)などが結成した新進党に参加したため、結党からわずか2年半で消滅した。 結党当初は現職の国会議員がおらず、国政の経験も、いわゆる三バン(ジバン=後援会組織、カンバン=知名度、カバン=選挙資金)も無い新人議員が多かったこともあり、議員よりも党事務局が主導する体制であった。代表である細川の個人的な人脈と人気に頼った「個人商店」[9]とも揶揄され、党の運営資金も細川が自宅や別荘等の私財を担保にした借金が主なものであった[10]。 2017年現在、所属歴のある議員のうち首相や閣僚を経験した議員は約4割・15名にのぼる。新進党を経て民主党へ移籍し、党代表や閣僚に就く前原誠司・枝野幸男・野田佳彦、自民党に移籍し閣僚等に就く茂木敏充・遠藤利明・鴨下一郎、地方首長へ転出する小池百合子・中村時広・河村たかしらが所属していた[11]。