検索結果
-
絶海中津(ぜっかいちゅうしん)~2~ 帰国後は天竜寺の春屋妙葩・性海霊見の もとに身を寄せる。 1380年、赤松則祐の播磨法雲寺住持の 招きを汝霖良佐に譲り、甲斐慧林寺に 赴任した。 1382年、将軍足利義満は義堂を介して 上京を促し、翌年9月に上洛した。 9月14日が日野宜子の忌日にあたり、 義満は鹿苑院に絶海を住まわせた。 1384年6月、摂津銭原に移る。 1385年4月、有馬の牛隠庵に退く。 同年7月、細川頼之の招きに応じ、 讃岐宝海寺を開山。 さらに夢窓疎石の土佐吸江庵を再興。 1386年2月、再び義満の要請を受けて 上洛し、等持寺に住む。 1391年、北山等持院に退居。 1392年10月、相国寺住持。 1394年、等持院に退く。 同年9月、相国寺が火災に見舞われ、 復興に尽力する。 1395年2月、相国寺住持。 1396年、住持を退いて鹿苑院僧録を 勤めたのち、勝定院へ移る。 応永12年4月5日、寂す。70歳。 勅諡は仏智広照国師。 法嗣は鄂隠慧奯・西胤俊承ら。 著書に、 『絶海和尚語録』『蕉堅藁』 がある。
善阿弥(ぜんあみ) 1386…
2024/05/21 15:44
善阿弥(ぜんあみ) 1386~1482 室町時代の作庭家。 初めは寅、又は虎菊と称したという。 『蔭涼軒日録』・『鹿苑日録』のほか、 『大乗院寺社雑事記』の史料によれば、 善阿弥は足利義政に遇されて室町殿を はじめ相国寺の蔭涼軒・睡隠軒などを 造り、また興福寺大乗院の庭園改修を 行ったとされ、作庭家としてはじめて 歴史に名を残した人物になる。 同じく作庭家の善阿弥に、 二代目小四郎や三代目又四郎がいる。