検索結果
-
>まあ、卑弥呼の墓は宮崎の西都原古墳群の中だろうな。男狭穂塚古墳がそれだ 天照大御神の子孫とされる神武天皇(天照大御神から5代下る?)は日向で生まれ、東征ののち大和に都を置いたとされています。 そして、神武天皇の曾祖父である邇邇芸命(ににぎのみこと)は天孫降臨で日向に降り立ったとされています。 では、どこから日向に降り立ったのか? Chinaの揚州あたり(呉や越?)から黒潮に乗って渡ってこられたのでしょうか? (徐州以北のChinaやKorean Peninsulaから渡ったのでは、九州の西岸か北岸に辿り着きそうです) 高天原が日本の地名で表わされないので、heavenであるはずもなく、当時技術の進んでいたChinaに起源を求めるのが自然な思考と言えそうです。 (戦国春秋時代にChinaでの戦乱を逃れて日本に渡った?) 日本神話によれば神武天皇東征は邪馬台国(魏志倭人伝)の時代より随分前になります。 神武天皇東征ののちの日向がどのような状態であったのか分かりませんが、神武天皇東征により日本の最大勢力が大和に誕生して数百年経っており、邪馬台国は大和にあったと考えるのが妥当ではないかと個人的には思っています。 ただ、大和政権を出し抜いて、九州の一大勢力が魏と交流していた可能性は排除できませんが・・・。 いずれにしても、ロマンがありますね。
-
四季報の取材もいいかげんやね。日本のTSMCは先端半導体を生産ではなく、従来の半導体のはず、ラピダスが先端半導体で、アメリカのTSMCは先端半導体ですけど。 めっちゃいい加減やわ。台湾の半導体で今の国債状況で中国がらみで先端半導体なんて誘致できない。日本はアメリカ寄り中国を知っている。卑弥呼の時代から中国と付き合っているのだから。
-
「日本の国の成立の第一歩は、ヤマト王権の成立ということになります。それは、ちょうど卑弥呼が亡くなった3世紀の中頃です。そして、その後5世紀になると〝倭の五王〟と呼ばれる王が5人続く安定的な統一王権が存在したことがわかっています。 でも、その間の4世紀に、どのように王権が推移していったのかは文献からはわからないんです。そのため、「空白の4世紀」と呼ばれています。 また、この空白の4世紀に王陵の場所がすごく変わっています。 3世紀の古墳は、邪馬台国、あるいは初代ヤマト王権の王の王陵と考えられるものが、奈良盆地の南にあります。そして、5世紀になって倭の五王の時代になると、大阪の平野に移っています。 では、4世紀はどうかというと、富雄丸山古墳のある奈良盆地の北に王陵が一時出てきます。つまり、4世紀は王陵の所在地が奈良盆地の南から北を経て、大阪平野へと変化する激動の時代なんです。 そして、富雄丸山古墳の調査によって、ある仮説が考えられるようになりました。 ヤマト王権の王は、畿内地域の諸勢力の中で、どの派閥が担いだ王なのかということです。王権の成立期は奈良盆地の南部の勢力がリーダーシップを握って王を輩出する立場にいた。しかし、4世紀になると弱体化して、主導権が大阪の平野部の勢力に移っていった。自民党の派閥争いみたいなものです。 そのとき、大阪の平野部の勢力のために非常に重要な働きをした人物が、富雄丸山古墳に眠っているのではないかというものです。 というのも、大阪平野に主導権が移ったヤマト王権は、5世紀になると盾形銅鏡に似た形をした革で作った盾や蛇行剣を各地の有力者に分け与えています。それによって連携を強めていきました。 その一番古いものが富雄丸山古墳から出ているのですから、大阪の平野部のヤマト王権に大きな影響力を与えた人だということが考えられるわけです」
神武は卑弥呼の孫に当たる。神武…
2024/05/19 22:23
神武は卑弥呼の孫に当たる。神武には九州時代の妻、吾平津媛との間に台与がいた。台与は神武の末子。末子相続の掟から、卑弥呼の後継者としてもっとも相応しいのが台与だった。九州は台与に預け、自らは大和に向かって、日向一族を盤石なものにしたと考えられる。