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>「決して忘れない」、中国大使館の米誤爆から25年-習主席セルビア訪問 ブルームバーグ): 欧州を歴訪している中国の習近平国家主席は、1999年に北大西洋条約機構(NATO)軍が在ベオグラードの中国大使館を誤爆した事実を「決して忘れない」と誓った。セルビアの日刊紙ポリティカが7日の紙面で報じた。 習氏は「25年前のこの日、NATOはユーゴスラビア(当時)の中国大使館を爆撃し、3人の中国人ジャーナリストが死亡した」と振り返り、「われわれは決して忘れてはならない」と続けた。「このような悲劇的な歴史を繰り返してはならない」とも言明した。 コソボ紛争が激化した99年、NATO軍がユーゴスラビアの首都だったベオグラードを爆撃した際に、中国大使館が米軍のミサイルに攻撃され、中国人記者3人が死亡。米政府は後に地図に不備があったことによる誤爆だと認めた。これを受け中国国内では反米デモが起き、NATOなど米国が主導する組織に抱く中国の不信は決定的となった。>以下略 空港にはヴチッチ大統領夫妻自らお迎え。民族舞踊などで歓待。 ゼルビアと中国、ロシアは、とても仲が良い。 ロシアのウクライナ侵攻もセルビアは寧ろ応援していた。 NATOによるユーゴスラビア侵略、空爆によって多くの人々が亡くなった。 劣化ウランも投下していた。 ここからウクライナ紛争が始まっている。 アメリカはコソボに軍事基地を置いて、悪事を働いている。 これは侵略ではないのか?
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フャタハとは >PLO(パレスチナ解放機構)の中心的な組織だったファタハ(パレスチナ民族解放運動)を率いていたヤセル・アラファトにアメリカやイスラエルは手を焼いていた。そのアラファト対策のためにイスラエルはハマスを創設している。アラファトのライバルを育て、内部対立させることで運動を弱体化させようとしたのだ。そして目をつけたのがヤシン。 ヤシンは2004年3月、イスラエルに殺害されたが、ヤシンが頭角を現す切っ掛けを作ったのはイスラエルである。その年の11月にアラファトも死亡、PLOの影響力は大きく低下する。その後、パレスチナではハマスが主導権を握った。 死亡直後からアラファトの死に疑問を持つ人は少なくなかった。自然死ではなく殺されたのではないかという疑惑だ。その疑惑をアル・ジャジーラが9カ月に渡って調査、アラファトが死の直前まで健康だったことを確認した。しかも彼の衣類や歯ブラシなどから放射性物質のポロニウム210が検出されたという。そこで、遺体の調査を求める声が出ている。> ファタハはパレスチナ解放戦線の正統的な勢力。アラファトの心を受け継ぐものたち。 中国は彼らを北京に呼んで、ハマスと和解させるよう尽力している。 過去は水に流して、協力して、パレスチナの虐殺、虐待、抑圧されているパレスチナ人を救ってほしい。 中露、イラン、サウジ、イエメンのフーシ派、シリア、イラク、どの国も英米欧に蹂躙され艱難辛苦を嘗め忍んできた。 中国は数千年の戦乱を生き抜いてきた。紀元前の孔子、孟子、荀子などの哲学者たちの書を熟知しているという習近平。知恵を集めて解決の道を開いてもらいたい。
今日の桜井ジャーナルより …
2024/05/16 23:35
今日の桜井ジャーナルより >プーチン露大統領が16日に中国を訪問、中露の連携を世界にアピールへ ウラジミル・プーチン露大統領は中国政府の招待で5月16日から17日にかけて同国を訪問、習近平国家主席と会談する予定だ。3月に行われたロシアの選挙で圧勝したプーチンは5月7日に新たな任期をスタート、その最初の訪問先に「戦略的同盟国」の中国を選び、その絆を世界に示そうとしているのだろうが、10年ほど前まで中国とロシアはそのような関係になかった。 1972年2月にリチャード・ニクソン大統領(当時)が中国を訪問、北京政府を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明して米中は国交を回復させているが、それは中国とソ連とを引き離すことも目的のひとつだった。 1980年には新自由主義の教祖的な存在だったミルトン・フリードマンが北京を訪問、中国で新自由主義が広がる。その推進役だった趙紫陽が1984年1月にアメリカを訪問、ホワイトハウスでロナルド・レーガン大統領と会談して両国の関係は緊密化していくように見えた。 新自由主義は社会的な強者に富を集中させる仕組みであり、中国でも貧富の差が拡大、労働者の不満が高まる。社会は不安定化して胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥り、胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなり、89年4月15日に死亡した。新自由主義を支持する学生はその日から6月4日までの期間、天安門広場で中国政府に抗議する集会を開いた。> 2001年7月16日、中華人民共和国とロシア連邦との間で、「中露善隣友好協力条約」に署名しています。江沢民とプーチンが署名。