検索結果 スレッド コメント 最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 世界の株価指数、金利> 日経平均株価 > 江戸時代に「日本・ニッポン… acrosstheunivers 2024/06/07 11:37 > 江戸時代に「日本・ニッポン・二ホン」などという言葉も国家も無かっただろ? > だって、俺の父親の国は「越前」だから。 6世紀初頭の段階で、越前には大和の朝廷に匹敵する勢力をもつ王権が存在したと推察される。律令制下に於いて、越前は隣国の近江と並び、国のランクとして最上位の大国に位置づけられた。それだけ多くの人が住まいし、また生産力も高いことを意味するが、可耕地の面積や水利等の自然条件に恵まれただけでなく、農耕技術や鉄製農具といった生産手段の水準の高さが影響していた。このような特色は、越前の地理的条件から導かれたと言うことができる。 越前は、日本海を隔てて朝鮮半島に面した位置にあり、海流や偏西風の影響で、半島からの渡航者が多く行き着く地域であった。越前の南端、地理的には嶺南に位置することになるが、越前国一宮・気比神宮の所在に窺われるように、敦賀は最も重要な機能をもつ越前の港として栄えた。気比神宮の祭神である気比大神は、筍飯大神あるいは御食津(みけつ)大神と称され、御食国として衣食住、とりわけ海産物を掌り、この地に集積された食材が、近江・山背を経て大和の朝廷へ届けられた。 敦賀という名称の由来として注目されるのが、崇神天皇の時代に半島より渡来したという都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承である。角をもつ都怒我阿羅斯等は、長門から出雲を経て越前の筍飯浦に至り、垂仁天皇の時代に帰国したという。その間、気比神宮の祭祀とこの地域の行政に携わったという伝えもあり、現在気比神宮の境内に鎮座する延喜式内社・角鹿神社は、この都怒我阿羅斯等を祭神とし、かつてその政所があった場所と言われる。(立命館大 三都近隣諸国の風土記) 明治以降、太平洋側が栄えて、今は福井県もパッとしないが 大河ドラマの紫式部が行った頃は大都会だったのだろう。
最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 世界の株価指数、金利> 日経平均株価 > 江戸時代に「日本・ニッポン… acrosstheunivers 2024/06/07 11:37 > 江戸時代に「日本・ニッポン・二ホン」などという言葉も国家も無かっただろ? > だって、俺の父親の国は「越前」だから。 6世紀初頭の段階で、越前には大和の朝廷に匹敵する勢力をもつ王権が存在したと推察される。律令制下に於いて、越前は隣国の近江と並び、国のランクとして最上位の大国に位置づけられた。それだけ多くの人が住まいし、また生産力も高いことを意味するが、可耕地の面積や水利等の自然条件に恵まれただけでなく、農耕技術や鉄製農具といった生産手段の水準の高さが影響していた。このような特色は、越前の地理的条件から導かれたと言うことができる。 越前は、日本海を隔てて朝鮮半島に面した位置にあり、海流や偏西風の影響で、半島からの渡航者が多く行き着く地域であった。越前の南端、地理的には嶺南に位置することになるが、越前国一宮・気比神宮の所在に窺われるように、敦賀は最も重要な機能をもつ越前の港として栄えた。気比神宮の祭神である気比大神は、筍飯大神あるいは御食津(みけつ)大神と称され、御食国として衣食住、とりわけ海産物を掌り、この地に集積された食材が、近江・山背を経て大和の朝廷へ届けられた。 敦賀という名称の由来として注目されるのが、崇神天皇の時代に半島より渡来したという都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承である。角をもつ都怒我阿羅斯等は、長門から出雲を経て越前の筍飯浦に至り、垂仁天皇の時代に帰国したという。その間、気比神宮の祭祀とこの地域の行政に携わったという伝えもあり、現在気比神宮の境内に鎮座する延喜式内社・角鹿神社は、この都怒我阿羅斯等を祭神とし、かつてその政所があった場所と言われる。(立命館大 三都近隣諸国の風土記) 明治以降、太平洋側が栄えて、今は福井県もパッとしないが 大河ドラマの紫式部が行った頃は大都会だったのだろう。
> 江戸時代に「日本・ニッポン…
2024/06/07 11:37
> 江戸時代に「日本・ニッポン・二ホン」などという言葉も国家も無かっただろ? > だって、俺の父親の国は「越前」だから。 6世紀初頭の段階で、越前には大和の朝廷に匹敵する勢力をもつ王権が存在したと推察される。律令制下に於いて、越前は隣国の近江と並び、国のランクとして最上位の大国に位置づけられた。それだけ多くの人が住まいし、また生産力も高いことを意味するが、可耕地の面積や水利等の自然条件に恵まれただけでなく、農耕技術や鉄製農具といった生産手段の水準の高さが影響していた。このような特色は、越前の地理的条件から導かれたと言うことができる。 越前は、日本海を隔てて朝鮮半島に面した位置にあり、海流や偏西風の影響で、半島からの渡航者が多く行き着く地域であった。越前の南端、地理的には嶺南に位置することになるが、越前国一宮・気比神宮の所在に窺われるように、敦賀は最も重要な機能をもつ越前の港として栄えた。気比神宮の祭神である気比大神は、筍飯大神あるいは御食津(みけつ)大神と称され、御食国として衣食住、とりわけ海産物を掌り、この地に集積された食材が、近江・山背を経て大和の朝廷へ届けられた。 敦賀という名称の由来として注目されるのが、崇神天皇の時代に半島より渡来したという都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承である。角をもつ都怒我阿羅斯等は、長門から出雲を経て越前の筍飯浦に至り、垂仁天皇の時代に帰国したという。その間、気比神宮の祭祀とこの地域の行政に携わったという伝えもあり、現在気比神宮の境内に鎮座する延喜式内社・角鹿神社は、この都怒我阿羅斯等を祭神とし、かつてその政所があった場所と言われる。(立命館大 三都近隣諸国の風土記) 明治以降、太平洋側が栄えて、今は福井県もパッとしないが 大河ドラマの紫式部が行った頃は大都会だったのだろう。