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宣政門院(せんせいもんいん) 1315~1362 鎌倉末・南北朝時代の皇族。 懽子内親王。 父は後醍醐天皇。 母は藤原(西園寺)禧子。 1319年6月、内親王宣下があり。 同年11月に一品に叙せられた。 1330年12月、斎宮となる。 1331年1月、准三后。 1333年12月、光厳上皇の後宮に入る。 1335年2月、院号宣下。 1340年5月、落飾し保安寺に入る。 貞治元・正平17年5月7日、崩す。 48歳。 『新千載和歌集』に数首歌が遺る。 新千載和歌集 巻第十三 歌番号 01432 人はなを これそ此世の 別とも しらす契し ほとのはかなさ
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> しかし、 > 大日本帝国は > 相当、中国で悪さしたと思うよ > > いまだに、中国で > 抗日映画が流行るぐらいだから > 日本人としては、なんとも、気が引けます。。。 > > www! 歴史は勝者が書く。 現政権への批判をかわすために前の支配者を殊更悪く書く。 会社でも新任の管理職が前任者の否定から入るように。 漢が匈奴と戦ってボロボロにされたとか 三国志後、晋の八王の乱で国内が乱れ、 異民族を傭兵にやとって、かえって異民族に国を盗られた 南北朝時代とか、北宋の土木の変で皇帝が金に連れていかれ その金も1234年、モンゴルに滅ぼされるとか おもしろい歴史がいっぱいあるのに、抗日戦に拘らんでも
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千秋親昌(せんしゅうちかまさ) 生没年不詳 南北朝時代の神官。 父は千秋範広。 摂津守。 父の跡を継ぎ、尾張熱田大宮司となる。 1335年、北条時行配下の三浦時継が 尾張に逃れてくると捕縛、京都へ送る。 足利尊氏が建武の新政から離反すると、 新田義貞軍に加わって尊氏を破り、 また箱根で直義軍と戦う。 1338年、北畠顕家の西上軍に従い、 以後は南朝方として転戦した。 のち剃髪し、源雄と称す。
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宣光門院(せんこうもんいん) 1297~1360 鎌倉末・南北朝時代の皇族。 藤原実子とも。 父は正親町実明。 母は三条公貫の娘。 祖父洞院公守の養女となる。 花園天皇の後宮に入り、南御方と称す。 寿子内親王・源性入道親王らを生む。 1332年1月、従三位。 同年12月、准三后。 1338年4月、院号宣下を受け、 宣光門院と号す。 1348年11月、落飾。法名は遍照智。 延文5・正平15年9月5日、崩す。64歳。
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千家孝宗(せんけたかむね) 生没年不詳 南北朝時代の豪族。千家氏の祖。 出雲国造。 父は千家孝時。 千家氏は天穂日命の後裔で 代々出雲国造として出雲大社の 神職を世襲している。 兄清孝の死後に、弟貞孝との間に 継嗣争いが起こり、双方が互いに 神事を奉仕することが決まった。 孝宗は千家、貞孝は北島と称して 国造の家は分立した。
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世良田義政(せらたよしまさ) ?~1364 南北朝時代の武将。 父は岩松政経。 伊予守。 上総守護。 貞治3・正平19年7月27日、 足利基氏の勘気に触れて追討を受け、 翌日28日に兄弟や梶原景安とともに 鎌倉の如来堂で自害した。 所領は弟の岩松直国が引き継いだ。
善如(ぜんにょ) 1333~…
2024/06/04 16:04
善如(ぜんにょ) 1333~1389 南北朝時代の僧。 諱は俊玄。童名は光養丸。 正慶2・元弘3年2月2日生まれ。 父は本願寺従覚。 母は『存覚一期記』に梅と名を記す。 法印権大僧都。 日野俊光の猶子となり、青蓮院で修学。 1351年、祖父覚如が死去すると、 本願寺留守職を継ぐ。 1359年、親鸞の遺徳を讃嘆する 『嘆徳文』を著す。 1361年、親鸞の百回忌を勤める。 延文2・正平12年7月5日、 北朝が本願寺を勅願寺とした 後光厳院の綸旨があったとされる。 康応元・元中6年2月29日、寂す。 57歳。