ここから本文です

投稿コメント一覧 (2436コメント)

  • IPCC第6次評価報告書の執筆者である国立環境研の江守氏が、「気候変動 国連最新レポート」として独自解説
    2021/08/10
    https://youtu.be/dLgGSI0G2SA

  • >>No. 86

    教師データという表現はやめない?
    もうそういう時代じゃないよ。
    すべてがデータに、アルゴリズムに、そして実験になる
    データ駆動型社会を構築すること。

    今やアルゴリズムはCNNもRNNも使わないトランスフォーマー、Attention、SelfーAttentionが主流のモデルの時代。そして、やがて画像認識系も自然言語処理系も一つのアルゴリズムで記述し並列化で高速化される時代がくる。

  • 当初のシミュレーションでは、決算前の底が終値ベースで1950~1960円だったんだけどな。オーバーシュートで外れてしまった。

  • 貸借対照表と損益計算書との関係図を作ってみたらどうや?
    ついでに、キャッシュフローとの関係図も

  • 株価チャートを流体力学と勘違いしていないか。
    現に、今日は反発したよな。

  • 他人には3行以内と盛んに要求しておきながら、今朝がた添付図以外に20行以上の投稿があったな。

  • >いつまでも、大学も民間への技術提供のためにただ働きはできないということだ。

    1990年頃、米国から日本(の貿易)に対して「基礎研究ただ乗り論」が出て貿易摩擦が生じた。 同じ論理で、大学発ベンチャーなら、大学の基礎研究の成果物にも対価を支払うべきという考えが出てきて当然。

  •  物理学では,観測精度の向上とその分野の発展とが並行しており,従って人間が手にする物体を最初の粒度として,その粒度の微小化をもって学問の進歩とする歴史を持っている.現在それは素粒子の究極に挑戦中と言われるが,それは理解のための視点の粒度が究極に達することを含意しているとも言える.
     もっとも素粒子の究極が理解されたからと言って,人間が何故このような形をしているのかという自然科学上極めて基礎的な問題が解かれるとは誰も考えない.恐らく科学は,この粒度については非常に複雑な関係をその中に待っていると思われるが,そのことはほとんど明らかにされていないと言うべきであろう.
     しかしながら,現実の学問においては,この粒度の指定が重要であることは十分認識されており,しかも学問の内容を決定的にすることから言って先鋭的な話題である.このように各領域における粒度の持つ意味は多様であることが認識されてはいるものの一般的な傾向が論じられているわけではない.
     上述のように,粒度も含めて領域は極めて多く成立しており,しかも新しい領域が成立し続けている.既に述べたように,領域の成立は基本的には機能的あるいは実用的視点の発生に対応しているから,この領域増殖は視点の拡大を意味しており,したがって増殖は当然のことである.この結果起こる問題については後述するが,次節では各領域における学問の形式上の特徴について述べよう.

    (東京大学�吉川弘之● 1992 年 4 月「イリューム」掲載)

    また明日だな。

  •  このようなことは,工学に限られているわけではない.政治学と経済学,医学と薬学などは,それぞれほとんど同じ対象存在を持ちながら,理論間の関係が問われることは少ない.学問の中心を自認する物理学ですら,同じ対象を扱う化学との関係についてはあまり歯切れがよくないようである.
     同一の対象を異なる視点で見ることによって学問領域が成立するという関係には,以上に述べたように機能的関心が変ることによって生じる視点群とは異なるものがあることをここで指摘しておくべきであろう.それは,一般にミクロ,マクロと呼ばれる視点である.例えば経済学にはミクロ経済学とマクロ経済学があり,経済現象を作り出す最小単位と考えられる人間の挙動を根拠として経済を理解しようとするのがミクロ経済学である.一方マクロ経済学では,経済現象を,国家,世界などの大きな範囲で切って,その範囲で表れる諸現象を可能な限り少ない変数の数で説明する体系を作ろうとする.そのとき本来経済現象を担っている個々の人間
    の挙動が陽に現れないことが多い.このことは一見不思議なようであるが,実はすべての学問領域で,このような,理解体系における要素の大きさについての指定が体系の独自性を決定するという事実がある.
     例えば,生命現象を理解するために飛躍的に貢献したと考えられる分子生物学は,生命現象を考える上で最も有効な要素の単位は分子である,というドグマを持っていると考えてよい.
    それは,過去における解剖学が,単位を器官,組織,そして細胞までに止めていたことにより持つ理解の限界を,大きく越えることを可能にした.
     このような,要素の大きさの指定を,視点における「粒度」とよんでおけば,粒度の重要性が大きいことは容易に理解される.しかも粒度は小さければより深い理解が得られるというわけのものでもないのは注目すべきことである.

  •  異なる領域に属する理論の間に整合性は要求されない,というのがその重要なことである.
    そもそも視点というのは,異なる視点の間で起こる事象が少なくとも人間にとって意味を持つ機能としては相互に独立,という条件下で歴史的に成立したものなのであろう.従って,視点を契機として作られた領域では,異なる領域に属する事象は互いに独立というのは自然である.
     このことはもう少し詳しく考察しておく必要がある.例えば前述した機械工学において,機械の運動を剛体部品仮定に基づいて解く機構学も,変形部品仮定に基づいて解く振動学も,実は対象としている機械は同一である.すなわち同じ機械を,異なる視点で見るときに,異なる領域の理論がそれぞれ適用され,各領域固有の事象としてそれぞれの理解が得られるが,それらの理解は独立である.例えばある機械に機構学の理論を適用した結果,その機械のある部品は楕円運動をするものと理解される.ところが振動学の理論を適用すると,その機械の,その同一の部品が,振幅百分の一ミリメートル,振動数50ヘルツで振動することが理解される.機
    構学では振動は無視され,振動学では楕円運動は無視される.
     人間は,ある対象を理解しようとするとき,まず最初に視点を定める.特定の視点を選択するのであるが,それが他の視点と独立であることには意味がある.一つの視点では,その視点固有の面しか理解できないが,次々と視点を変えることによって理解を深めて行く,という行為を考えるとき,その視点に対応して成立した領域が,相互に完全に独立であれば,理解を深めるために最も効率がよい,と一応考えてよかろう.従って,厳密には独立でないにせよ,基本的に独立と言える領域を生成して来た学問は,対象を理解するという目的から考えれば,十分に高い効率を達成していると言ってよいであろう.
     領域間の独立,あるいは無関係性は,機械工学の中の部分領域間の例よりも顕著である.例えば材料の性質を視点とする領域に,材料力学や電気工学があるが,前者の公的知識としてのフックの法則と,後者のそれとしてのオームの法則との間の関係は,工学のどの領域でも扱うことがない.

  •  例えば時計があれば時計学,橋があれば橋学が生まれる.呼び名はともかく,そこには過去においてつくられたもののコレクションと,作動原理が中心に記述されている.原理の詳細化によって,異なる種類のものの作動原理の間に共通性が見いだされると,それは複数の種類のつくられたものを含む新しい領域を生成するが,基本的には古い領域も消滅せず維持される.
    このようにして,工学においては,つくられたものの人間にとっての意味,すなわち機能の視点によってまず領域が生み出されるが,それらからいくつかの領域を統合する共通領域も形成された.現在の工学を形成する諸領域において,機械工学,電気工学,金属工学などは,多くの領域の共通部分として成立して来たもので,その適用範囲が広く,従って工学教育においては基幹的であるとされる.一方,航空工学,造船工学などは,機能の視点が陽に維持されている領域である.最近生まれた原子力工学などのように,新しい領域がつねに成立し続けている.
     領域を細分することで,領域内理論群の整合化が容易になり,しかも理論が簡単化することを理由として同一領域内での部分領域も成立する.これは実用の世界における専門技術者の分業とも対応してほとんど際限なく行われると言っても過言ではない.例えば機械工学においては,機構学,機械運動学,熱力学,軸受学,歯車学などがある.いずれも機械に関する理論を持つが,機構学は機械を剛体部品集合と考え,かつ質量,摩擦ともに無視したときの形状と運動の関係を扱い,機械運動学は質量を考慮に入れる.一方機械振動学というのがあって,これは質量,変形,摩擦などを考えるが,形状は考慮しない,という具合であって,実用世界で有
    用な視点があるとそこに一つの学が成立する.もちろんその場合,実用の視点で理解に必要な精度に対応して近似が行われていることを忘れてはならない.
     これらの領域に特徴的なこととして,各領域内における理論体系の整合性すなわち無矛盾性があることは既に指摘した.しかしここでさらに重要なことに言及しなければならない.それは領域間の関係に関することである.

  •  ここで,前述のような現代の諸問題に最も深く関わっていると考えられるものの一つとして,工学を考えてみよう.工学もまた,他の領域と同じく実用的視点を契機として成立したものである.その視点とは「ものをつくる」すなわち技術である.工学は技術に体系を与える科学であると言うこともできる.
     注意すべきことは,工学はものをつくる人間の行為を対象として,それを整合的に理解する
    ための理論を作る場として領域化したのではないことである.この点は屡々誤解を持たれるの
    で強調しておきたいが,後発科学としての工学もまた,他の科学領域と同じように,既に存在
    するもの,従って工学の場合は「つくられたもの」によって領域化が行なわれ,そのつくられ
    たものを整合的に理解するための理論がその主要部分をなすのである.従ってつくる人は学問の外に置かれ,知識の応用者であり,その行為は工学の対象とはならなかった.
     しかしながら,技術という極めて多数の実用的行為者をそのうちに持つ分野を対象とする工学は,他の領域にくらべて実用からの影響は当然大きかったと考えられる.その影響は学問の形式に対してよりは,領域分割に対して著るしかった.すなわち,あくまで理論の目標はつくられたものの整合的理解,という形式は崩さずに,しかもその応用が容易であることに強い要請があったと思われる.そのためには,つくられたものの範囲を狭くすることが有効である.
     ここでは,学問の究極の目的としての世界全体の理解という問題は棚上げして,整合的理解を可能にする体系が持つ,高い教育効率や研究効率,また知識伝達容易性などに力点をおきつつ応用容易性を増すために,つくられたものの特定によって,その都度領域を生み出して行ったのである.

  • 2 . 学問における領域性
     学問が,時代々々の邪悪なるものに打ち勝って来たという側面を持つことは,学問の本来の目的が世界の全体を統一的に理解することにあったにせよ,特定された対象を処理するという実用的な関心と深くかかわっていたことを意味し,従って結果的に,実用的な視点と関係付けられた領域がその内に生成して来たと考えられる. 近代以降の科学の成立においては,このことがさらに顕著であり,実用的な視点の多様性に対応して多数の領域が生み出された.人文学,政治学,法学,経済学,そして自然科学や工学がある.これらの領域が成立した動機を実用と呼ぶことには抵抗があろう.しかしそれを機能,すなわち人間にとっての意味と解釈して広義に使うことにしよう.後述するように,領域そのものの成立は機能的あるいは実用的視点を根拠としながら,しかしこれらの科学においては実用,すなわち各視点内での行動原理を生み出す,という目的に直接応える形式をとらないのが大きな特徴である.そこでは,選択された視点に立って,対象世界を整合的に理解することが主な目的とされる.
     そして,この理解という目的のもとでは,領域分割が極めて有効に作用した.まず理論体系を整合的に,しかも簡潔に立てることを可能にし,結果的にディシプリンを成立させ教育あるいは知識の拡散を効率化させるとともに,領域内での研究の型を定式化して,その学問分野の発展を高速化する.例えば自然科学では物質の構造と挙動という視点のもとで,物質世界の理解を深めるための数々の理論が生み出された.経済学では経済現象を対象として,特定の型の理論が次々と生み出されている.人間にとっての機能的意味で対象を切り出すと,その部分が整合的に理解しやすくなるのは何故か.これは不思議な問題であるが,ここでは一応それを認
    めて話を進めることにしよう. もちろん,これらの学問を通じた理解は,対応する領域での実用,すなわち目的実現のための行動にたいしても有効である.新しい物質を作り出すためには自然科学から得られる知識が必要であり,また有効な経済政策を立案するためには経済学から得られる知識が必要である.
    しかし創出や政策そのものは,これら学問の主要部分を構成するわけではなく,それらを行う人は学問の外部に居て,学問から得られる知識を応用するもの,と位置付けられる.

  •  その困難さが,単に問題が大きいことによるだけなら,時間と費用をかければ解決できると考えて待つこともできよう.しかしそれは楽観的に過ぎるのではないか.もし原因が意図の中にあるのだとしたら,その意図の実現を可能にする知恵を有効に生み出した学問に更に頼ることが果して可能なのだろうか.むしろ従来の学問とは,歴史的な外部からの可視的な敵に対抗することを契機として生み出され,その対抗を効率的に行うべく構成されたのだとすれば,伝統的な学問の無前提な適用こそ留保されなければならないと考えられる.
     従って,前記のような問題の解決は,解決のために有効な知識を生み出す基礎となる学問自身,あるいは生み出す仕組みについての検証が必要である.学問自身,あるいはそれから知識を生み出す仕組みについての検証と言っても,それは過去の学問の正当性に言及しようというものではない.むしろ過去の学問が正当であり続けたことを前提とした上で,前述のような現代の問題を解決することを目標に置いた場合,その正当性をどうすれば維持できるかについて考察を行なおうとするものである.

  • 続き)
     学問の体系化も進み,その成果としての知識の伝達も高速化した現在を,邪悪なるものを皆消滅し得た時代と呼んでよいのだろうか.残念ながらそうではない.過去において,時代の邪悪なるものとは,外部から人間に攻撃をかけて来る可視的な敵であった.しかし現在は,外部に敵は不在のまま,しかし多くの困難な問題が地球上には存在しており,それらは現代の邪悪なるものと呼ぶべきである.それらを例示すれば,
     ・人口爆発と食料不足
     ・過剰生産地域と飢餓地域の並存
     ・地球環境破壊事故の大型化民族間の紛争
     ・都市生活における孤独,冷淡,犯罪
     ・新しい病気の発生 貿易摩擦や過当競争
    などがある.これらは様々な異なる要因によって生起させられたものであるが,共通している点がある.それは,いずれも人類が安全と豊かさを求めてきた行為の結果として全く予期していないままに生じて来たもの,という点である.そこには可視的な外部から攻撃をかける敵は存在せず,原因を求めるとすれば,安全と豊かさを求める行為を生み出した人間の意図そのものの中に見出だすしかないのではないかという不安を抱かせる状況がある.
     確かに,これら一つ一つの問題においてはまた,人類共通の知としての学問に頼りつつ解釈の方法を見いだす努力が進行中である.しかし,いずれの場合もその努力は成功しているとは言えず,またその見通しも明るくない.

  • 1 . 現代の邪悪なるもの
     歴史的に言って,科学技術,あるいはもっと古く学問と呼ばれるものは,時代々々の「邪悪なるもの」に対抗し,そして打ち勝って来たのだと考えてよいだろう.古くギリシャの時代の倫理学や論理学は,自己の内にある邪悪な欲望や,社会における虚偽などを見破り,退けるものであった.多様な哲学も,時代の権力と複雑に関係しながらも,それが現代の科学へと結びついて行くものである限り,基本的には人間の尊厳と基本的権利を護って来たと考えてよい.
    邪悪な支配権力,人種的偏見などを支持する論拠を崩したのも,学問であった.歴史の詳細を見れば数多くの例外を持ちながら,しかし結局はそれらの例外は排除され,学問が人間の平等の権利を保証する基盤であり続けたことを誰も否定しないであろう.結果的に,それは邪悪な精神や制度を排除して来たのである.
     自然科学の領域では,学問はより直接的に邪悪なるものを排除するのに有効であった.人々を他の獣や病原菌から守り,自然の災害を軽減し,またそれらから人命を保護し,安全な行動を可能にした.そして何よりも,快適な生活環境を作り出したのである. 権力者や病原菌を追放したのが学問だ,という意味は,学問が,人々の合意し得る内容を持つ伝達可能な知識を形成するもの,という特徴を持っていることを根拠にしている.即ちそれは,局所的な効果だけでなく,地球全体にわたる大きな流れを作り,結果として権力者や病原菌を地球上から消滅させるのに有効だった,という意味である.

  • はじめに
     いつの時代にも,その時代を特徴付けるものがある.その観点から見れば,現在という時点は,科学技術の進歩とその見事な適用により,豊かさについての可能性を,最も信じてよい時代と言えるのかもしれない.
     例えば,社会主義国家の崩壊は,主義あるいはそれから導出される制度の論理的破綻を根拠としながら,しかし現象的には生産における効率の差による生活水準の,西側諸国に対する低さが契機となって起こったと考えられる.このことは,人類が地球上のほとんどの地域で,豊かさという尺度の公的な判断基準としての使用を認知する方向へ歩みはじめたことを意味していると言えるであろう.
     豊かさを定義することは容易ではないにせよ,少なくとも科学と技術とが,それに主要な貢献をして来たと考えるのが,一般的である.従って,今や科学技術は豊かさの増進という地球上の大目標に向けて,その発展が期待され,またその適用には制約がなくなった. 科学技術についての膨大な成果とともに,その適用についての制約が希薄になったことは現在の特徴的な状況である.従って私達は,その帰結としての豊かさの可能性に,大きな期待を寄せることになる.
     これから述べることは,科学技術が政治や社会的制度から自由となり,従って最も効率的に,豊かさのために貢献し得る状況に置かれたという前提に立っている.この状況では,科学技術は政治や制度によって方向付けられることがなくなり,自律性を獲得する.ここで新しい問題が生じる.自律性を持った科学技術が,人類にとって正当なものであり続けるためには,それ自身の内に正当性を保証する体系を内蔵することが必要ではないか.人工物工学は,科学技術が自己完結性を獲得するための内蔵装置に関する一つの提案である.

  • 松尾さんが所属する人工物工学センターの名称である「人工物工学」の提唱者は、
    吉川弘之 東大元総長

    東京大学工学部教授、東京大学工学部学部長、東京大学総長、国立大学協会会長、日本学術会議会長、日本学術振興会会長、放送大学学長、独立行政法人産業技術総合研究所理事長などを歴任

  • 松尾研メンバーの写真を添付し忘れたので、よろしくねーー。
    出典は松尾研究室

本文はここまでです このページの先頭へ