検索結果 スレッド コメント 最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 株式全般> 誉れ武門の名に恥じはなし! 平清盛(たいらきよもり)-2-… 節約生活 2024/10/16 20:20 平清盛(たいらきよもり)-2- 1168年、病を得て出家。 法名を清蓮、のち静海(浄海)と称す。 以後は六波羅入道・入道大乗大臣等と 呼ばれるようになった。 一族の昇進の数も類を見ない程で、 最盛期は公卿十人余人、殿上人が 三十余人、各国司などが八十余人と 栄華を誇り、さらに有力公家と婚姻の 関係を結んで朝廷内の権勢を高める。 また妻の平時子の妹滋子を後白河院に 入れ、所生の息子が即位して高倉天皇 となると、今度は自分の娘の徳子を 後白河院の猶子として入内させた。 やがて徳子の所生の皇子は即位し、 安徳天皇となる。 しかし次第に平氏の権勢を警戒する 動きが見られ、その有名な出来事に 1177年6月の鹿ケ谷の事件である。 藤原成親・藤原成経・藤原師光、 俊寛らの院近臣が清盛排除を目的に 計画していたが、多田行綱の密告で 露見。首謀者は斬首、又は配流に 処せられた。 成親らは平重盛ら平氏一門と婚姻の 関係を結んだ公卿であったので、 平氏は院・貴族への警戒を強めた。 このとき後白河院は事なきを得たが、 平氏との間に亀裂が走った。 後白河院はまず事実上清盛の領地と なっていた故藤原基実の摂関家領を 没収、さらに平重盛が没したのちに 彼の知行国である越前国の収公に 着手したので清盛は大いに憤慨した。
最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 株式全般> 誉れ武門の名に恥じはなし! 平清盛(たいらきよもり)-2-… 節約生活 2024/10/16 20:20 平清盛(たいらきよもり)-2- 1168年、病を得て出家。 法名を清蓮、のち静海(浄海)と称す。 以後は六波羅入道・入道大乗大臣等と 呼ばれるようになった。 一族の昇進の数も類を見ない程で、 最盛期は公卿十人余人、殿上人が 三十余人、各国司などが八十余人と 栄華を誇り、さらに有力公家と婚姻の 関係を結んで朝廷内の権勢を高める。 また妻の平時子の妹滋子を後白河院に 入れ、所生の息子が即位して高倉天皇 となると、今度は自分の娘の徳子を 後白河院の猶子として入内させた。 やがて徳子の所生の皇子は即位し、 安徳天皇となる。 しかし次第に平氏の権勢を警戒する 動きが見られ、その有名な出来事に 1177年6月の鹿ケ谷の事件である。 藤原成親・藤原成経・藤原師光、 俊寛らの院近臣が清盛排除を目的に 計画していたが、多田行綱の密告で 露見。首謀者は斬首、又は配流に 処せられた。 成親らは平重盛ら平氏一門と婚姻の 関係を結んだ公卿であったので、 平氏は院・貴族への警戒を強めた。 このとき後白河院は事なきを得たが、 平氏との間に亀裂が走った。 後白河院はまず事実上清盛の領地と なっていた故藤原基実の摂関家領を 没収、さらに平重盛が没したのちに 彼の知行国である越前国の収公に 着手したので清盛は大いに憤慨した。
平清盛(たいらきよもり)-2-…
2024/10/16 20:20
平清盛(たいらきよもり)-2- 1168年、病を得て出家。 法名を清蓮、のち静海(浄海)と称す。 以後は六波羅入道・入道大乗大臣等と 呼ばれるようになった。 一族の昇進の数も類を見ない程で、 最盛期は公卿十人余人、殿上人が 三十余人、各国司などが八十余人と 栄華を誇り、さらに有力公家と婚姻の 関係を結んで朝廷内の権勢を高める。 また妻の平時子の妹滋子を後白河院に 入れ、所生の息子が即位して高倉天皇 となると、今度は自分の娘の徳子を 後白河院の猶子として入内させた。 やがて徳子の所生の皇子は即位し、 安徳天皇となる。 しかし次第に平氏の権勢を警戒する 動きが見られ、その有名な出来事に 1177年6月の鹿ケ谷の事件である。 藤原成親・藤原成経・藤原師光、 俊寛らの院近臣が清盛排除を目的に 計画していたが、多田行綱の密告で 露見。首謀者は斬首、又は配流に 処せられた。 成親らは平重盛ら平氏一門と婚姻の 関係を結んだ公卿であったので、 平氏は院・貴族への警戒を強めた。 このとき後白河院は事なきを得たが、 平氏との間に亀裂が走った。 後白河院はまず事実上清盛の領地と なっていた故藤原基実の摂関家領を 没収、さらに平重盛が没したのちに 彼の知行国である越前国の収公に 着手したので清盛は大いに憤慨した。