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西洋哲学

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  • ☆ 経済学の効用と課題 ☆

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    • 2017/12/29 07:50
    ☆ 経済学の効用と課題 ☆ 井出 薫  よく理解できない腹いせもあって、経済学など、深い哲学的洞察に基づき書かれたマルクス「資本論」やアダム・スミス「諸国民の富」を除けば、役に立たないものばかりだ、などとケチをつけてきたものだが、二酸化炭素排出量取引の話しを聞くと経済学の効用がよく分かる。  企業AとBがそれぞれ年間150万トンの二酸化炭素を排出しているとする。これが、排出量規制で100万トンに減らさないといけないことに決まったとしよう。Aは50万トン削減するのに10億円掛かるが、Bは2億円で出来る、しかもBは4億円使えば100万トンの削減も可能だ。二つの企業がそれぞれ規制を守るためには合わせて12億円の支出が必要になる。だが、たとえばAがBから50万トンの排出量を5億円で買い取ったとしたらどうなるだろう。Aは相変わらず150万トンの二酸化炭素を排出し続けるが、Bの排出量が50万トンに削減されるので、トータルで規制目標値200万トンが達成できる。ここで、Bは4億円の支出で5億円の収入が入ってくるから、排出量を削減して社会に貢献したうえに、削減に伴って利益が出る。Aも本来であれば削減に10億円支出しなくてはならないところが、排出量購入の5億円だけで済む。二つの企業だけではなく、社会全体で考えても、排出量取引がなければ12億円の社会的なコスト負担が生じるところが、4億円の負担で済むわけだ。-個別の企業の負担増は、料金の値上や従業員の賃金カットに繋がるから、結局社会的なコストになる。-こうして、二酸化炭素排出量取引が社会的に極めて有意義であることが経済学で証明される。  これは極めて簡単な計算だが、経済学的な思考方法が社会に役立つよい事例だろう。  とは言え、排出量取引を認めることが、直ちに最善の排出量削減策に繋がるかというと話しはそんなに簡単ではない。4億円で100万トン削減できると踏んでいたB社がいざ50万トンの排出量をAに売却したあとで、とても100万トンも削減できないと分かったらどうなるだろう。A社にお金は返すとしても排出量削減目標は達成できない。経営不振に陥った企業が排出量削減の確たる見通しもないのに排出量売却に動く危険性もある。-国際間の取引ではこの危険性はより一層高まる。-さらに二酸化炭素削減量を正確に把握できるのか、排出量取引が情報公開を徹底した公平な市場で行なわれるかどうか、技術的にも政治的にも課題は多い。  しかも問題は企業や人々のモラルに止まらない。たとえば、二酸化炭素削減装置を作るために所有地の森林を伐採して施設を作ったとしよう。その結果工場からの排出量は確かに減ったが、伐採の影響で二酸化炭素が増加したということも起こりうる。植物は光合成をして大気中の二酸化炭素を吸収するから、植物が減れば二酸化炭素が増加する可能性があると言わなくてはならない。尤も植物も夜は酸素呼吸をして二酸化炭素を排出するし、植物の光合成が盛んになると植物を捕食消化する微生物や動物の酸素呼吸が活発化して二酸化炭素排出量が増加するから、森林の二酸化炭素吸収効果は小さいかほとんどないという意見もある。だが膨大な森林伐採が二酸化炭素排出量の増大に繋がるという点では多くの専門家の意見は一致する。だから二酸化炭素削減用施設の建設に当たっては、その施設自身が環境へ与えるマイナス効果を考慮に入れる必要がある。だが、このような効果は、一企業の活動だけではなく産業全体の活動と生態系の変動を正確に見極めないと算定できないから、現実的には正確な見積はできないと考えなくてはならない。  このように経済学の範疇外の様々な要因が二酸化炭素排出量の増減に影響を及ぼすから、単純に二酸化炭素排出量取引だけで効率よく削減できると楽観することはできない。経済学的な考察だけですべてがうまくいくわけではないのだ。
  • ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆

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    • 2017/12/24 18:16
    ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆  物理学は、実験道具を使って実際に真空を作り出したり、思考実験やコンピュータシミュレーションで真空状態を作り出したりして、物質の運動や状態変化を調べて正しい理論を見つけ出すことができる。  しかし、人間と社会の研究では、実験はもちろんのこと、思考実験でも真空を作り出すことはできないし、無理矢理作り出したとしても、そこから役立つ帰結を導くことはできない。真空には人間も社会も存在しないからだ。  哲学は自然を論じることもあるが、人間と社会こそが哲学の本当の研究対象であり、哲学者が語る自然とは人間を通じて見られた「自然という概念」を意味しているに過ぎない。つまり、哲学者の課題は常に人間と社会で、真空を作り出そうと試みても無駄なのだ。  ところが、哲学者はそのことを理解していないか、理解していても真剣に考えようとしない。そして、思考の中で不毛な真空を作り不毛な議論を展開する。プラトンのイデア、アリストテレスのエイドス、デカルトやフッサールのエポケー(判断停止)など、哲学は常に思考の中で真空を作り出し、そこで根源的と称する思弁を弄することの繰り返しだった。だから偉大な哲学者の著作を読んでも、そこから霊感を読み取ることはできても、正しい考えを見つけることはできない。ときたま正しいと思えることが書かれてあったとしても、それは偶然に過ぎず、本論からは遠く離れている。たとえばヘーゲルはその代表格で、20世紀では、世紀を代表すると言われる二人の哲学者、ハイデガーとウィトゲンシュタインがその典型と言える。  しかし、人は、哲学者を非難することはできない。人は脳が肥大化して、計算能力も洞察力も大したことはないのに、いつのまにやら、やたらと自尊心だけは高くなった。絶対に不可能なのに、分不相応に世界全体を完全に理解しようと試みて、間違いを犯してばかりいる。それどころか、その愚かさから殺し合いまですることがあるから始末に負えない。ハイデガーはナチだったし、ハイデガーを信奉する者はナチに接近するほどハイデガーの思想は深かったのだ、などと訳の分からないことを言って反省しない。  要するに、人間の愚かさを代表しているのが哲学者で、哲学書がその表現なのだ。人は哲学書を読んで感激したり、逆にわけが分からないと不満を漏らしたりしているが、それは私たちが愚かで哲学者もその仲間であることを示しているに過ぎない。だから哲学書の正しい読み方とは、偉大な思想家と言われる人でも、その考えのほとんどは間違っていることを著作から読み取り、人の傲慢さを反省するというものだろう。
  • 天皇 ⇒ 元来 シャーマン

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    • 2017/12/24 18:15
    天皇は、元来、シャーマンなんだ。 シャーマンとは、神や [死者の霊] が憑依した人物だ。 よって、天皇は現人神として崇拝の対象になるんだ。
  • ☆ 現代哲学の根本問題 ☆

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    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 現代哲学の根本問題 ☆ 井出 薫  哲学の根本問題は倫理にある。西洋哲学を代表する著作と目されるプラトンの「国家」は、存在一般や正しい認識を得るための方法(所謂存在論と認識論)を扱っている。しかし「国家」の主題は「正義とは何か?」であり、存在論と認識論はこの問いの答えを得るための手段に過ぎない。アリストテレスの厖大な著作の中でも、際立った存在で、現代でも大きな影響を与えているのは「ニコマコス倫理学」だ。カントの「純粋理性批判」は認識論を中心としているが、「実践理性批判」、「判断力批判」が後に続いたことからも示唆される通り、その土台には倫理がある。哲学の根本問題は、これまでもずっと倫理にあったとみてよい。  個別の学問が進歩した現代、哲学の出る幕はほとんどない。「科学哲学」、「科学論」などという題目で、科学の基礎や方法を吟味すると称する哲学が多数存在するが、現場の学者や技術者、言論人、そして一般市民に与える影響はごく小さい。特に自然科学では皆無と言っても過言ではない。社会科学は哲学思想を引用する機会が多いとは言え、レトリックとして使う場合がほとんどで、哲学なしには議論ができないということはない。  しかし、マックス・ウェーバーが指摘する通り、科学は「何をするべきか」という問いには答えを与えない。かつて、一部の教条的なマルクス主義者はウェーバーを批判して、科学的な認識に基づく実践こそがただ一つの正しい行為だと主張した。しかし、その帰趨はスターリニズムという恐るべき一党独裁であり、思想犯の収容所に象徴される人命軽視、人権蹂躙だった。確かに、科学的認識は、「何をするべきか」を決定するに当たって、重要な手掛かりを与える。しかし、それだけで「何をするべきか」を決定できないし、決定するべきでもない。経済理論は経済政策の選択に大きな役割を果たすが、経済理論だけで政策が決まる訳ではない。物理学はGPSの精度を保障するが、GPSを利用するべきだという帰結はもたらさない。  「何をなすべきか」、個人にとっても、様々な社会的組織(注)にとっても、この問いほど重要な問いはない。人は有限な時間しか生きることができない。そして人生そのものをやり直すことはできない。組織はより長い時間を生きるが、それでも有限であり、やはり、やり直しは利かない。人も社会も1回限りの決断を常に迫られており、それに如何に対処するかが根本的な課題となっている。そして、これに上手く対処する者は善であり、幸福を得る者となる。 (注)本稿では、「社会的組織」とは、家族に始まり、企業、教育機関、宗教団体、そして、それらの多くを包含する国家など様々な階層・規模の共同体を総称するものとする。
  • ☆ 法と規則、資本の論理 ☆

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    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 法と規則、資本の論理 ☆ 井出 薫  法哲学の根本問題は何か。道徳と法の関係はどうなっているのか。悪法も法と言えるのか。悪法に従う必要はあるのか。こういう問いを挙げることができる。しかし、真の意味で根本問題と言えるのは「法とは何か」という問いだ。この問いには「なぜ、人は法に従わなくてはならないのか」という問いも含まれる。多くの者が従ってこそ法だからだ。  この根本問題に対する答えは、大きく分けて2つある。自然法の答えと、実定法あるいは法実証主義の答えの二つだ。自然法の答えは、自然法則が自然運動を説明する客観的な法則であるのと同様に、法は世界の中に人倫の基礎原理として客観的に内在していると考える。自然法においては、法は人間が作り出すものではなく、予め存在する客観的な法を人間が発見するということになる。一方、法実証主義あるいは実定法主義では、法はあくまでも社会の中で人が作り出すものとみなされる。前者では法は発見されるもの、後者では発明されるものだと言ってよい。  現代において、純粋な自然法主義を取る者はほとんどいない。法と自然法則は全く異質なもので、人は自然法則に逆らうことはできないが、法に違反することは幾らでもできる。また私有財産制度を不可侵の自然権として主張する者もいれば、搾取の源泉だと反論する者もいる。法が自然に内在するものであれば、財産権に関するこの論争はいずれ実証的に解決するはずだが、一向に決着がつく気配はない。財産権に関する論争は時代の雰囲気を反映しながら永遠に継続する。  尤も、そうは言っても、自然法思想が全く無意味だという訳ではない。人間には生物種として普遍的な自然がある。また、共同体を形成して初めて生きていくことができるという性質から、自然と、幾つかの普遍的な法が妥当する。殺人の忌避、共同体の決めごとの遵守など、それなしには個体は生き延びることが出来ず、共同体は維持できない。それゆえ進化論的な観点から法を説明し、それを自然法として捉えることができない訳ではない。しかし、それはあくまでも一つの解釈に過ぎず、必然的なものではない。人間の身体的な特徴や群れの行動様式は進化論的な観点から説明がつくし、事実それは合理的な説明になる。しかし、社会的な現象である法にそれを適用することはできず、たとえば財産権に関する激しい論争を説明することはできない。進化論的な法の説明は、疑似科学に過ぎない。現代において、合理的な法理論は、法実証主義(実定法主義)あるいはその様々な変種だけだと言ってよい。自然法は作業仮説、あるいは、理念や実践の指針として役立つこともあるが、あくまでも補助的な役割でしかない。  しかし、法実証主義にも様々な変種があり、様々な立場がある。また、そのこと自身が、法が実定法であり自然法ではないことを示しているとも言える。法が自然法ならば、自然法則のように多様な見解は一つに収斂するはずだからだ。しかし、法実証主義には共通する点がある。それは法とは人間が社会において作り出す規則あるいは規範の一種だということだ。20世紀を代表し、共に法実証主義という枠組みで語られるケルゼンとハートは多く点で見解を異にするが、それでも法が規則あるいは規範の集合体であると考える点では一致している。ただ、ケルゼンは、法という規則の集合体を、根本規範を出発点に根本規範で定められた手続きに従い創造・執行されていく体系として捉え、その本質は強制秩序であると考えたのに対して、ハートは強制的な一次ルールと、一次ルールを承認、変更、裁定する二次ルール(メタルール)の結合体として法を捉えた点で大きな開きがある。その背景には、ケルゼンが事実(存在)と規範(当為)とを峻別し、法学の対象は専ら規範の領域であるとする新カント学派的な思想の下に理論を展開しているのに対して、ハートは、イギリス経験論の流れの中で言語分析哲学的な手法を援用し、事実としての法を分析しているという違いがある。この哲学的傾向の違いが、彼らの理論の差異に反映されている。しかし、この二人に限らず、法実証主義並びにそれに近い立場を取れば、必ず行きつく結論がある。それは、法は規則あるいは規範の集積体だということだ(積み重ねられていくという意味で集合体ではなく集積体という言葉を使用する)。そして規範は強制力の差異を除けば通常規則と呼ばれるものに帰着する。つまり、法体系とは規則の集積体と言ってよい。そして法と密接な関係を持つ道徳体系もまた規則の集積体に帰着する。ただ道徳は、ハートが指摘した通り、意図的に定めたり廃棄したりすることができない-それゆえ物理的な強制の根拠がない-という点で法と異なる。
  • この世を含む全てを一言で表す=ほか、ない。(1)

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    • 2017/12/22 23:17
      ワタシは失見当識に在り、現前のモノ・コトに全く何も信用ならない。有名なところで「コインを落として落ちたのは紛れもない事実である。」というのがありますが、本当は事実かどうかは知れないのである。何を以ってそう固定する?何を以ってそう規定する?定規がない。根拠が無いのであります。ゆえに、不安定な精神を落ち着かせるためには、「法則」を掴まなければならない。それ以外に心の安定は有り得ません。   ワタシは「ある」と「ない」でしか認識できない。「ある」と「ない」の複合体でしか捉えられない。他の人、等の捕捉はともあれ、ワタシの場合。   しかし、当然、双方ともに限界がある。それで行けない「トコロ」に関しては無力である。「ない」領域を全て「ある」では括れない。「ある」領域を全て「ない」では括れない。 でもそれしかワタシにはない。だから遮二無二、現前を考えるしかなかった。   それで、ワタシは七転し八倒。それでも考え抜きました。のちに、ワタシは「ある」および「ない」と意識(ある)するときに、同時に、無意識に隠れた「ほかにはない。=ほか、ない。」というサポートを確認しました。「(ある)。【ほか】には【ない】。」   そのケースにおいて、瞬時に掌握のレベルが先行する。それは「ある」を「ない」と一括できないものの、「ない」認識を「ない」という「ある」で包括し表現出来得るので、統一を必要とするならそれは「ある」と言おう。そして同時に起動する、いわゆる「黒幕=ほか(他)」を主役に立ち上げた時こそ、全てを捕捉する力を発揮します。ワタシの「ある」または「ない」という掌握は無意味そのものでありました。   究極的に「ない」、たとえば無色透明、音もない、何にもない。もしかしたら「ある」と「ない」が溶け合ってる世界。無彩色グレー。「ある」と「ない」ではない宇宙の外世界。対に、究極的に「ある」でもいい。認識できないトコロでもいい。   ワタシはそんな世界を「(ほか)には(ない)」、という認識(型)で捉えています。仮にその確認システムを「ある」として、その次に来るのが「ほか、ない。」となります。   「ある」かどうかは知りません。「認識」できるのか知りません。が、認識する対象物に「ほか」とぶつけます。そうするとソコは「には、ない」のです。   「ある」か「ない」、統一を必要とするなら「ある」状態を「ない」ではくくれませんが、全く「ない」、そういう状態(状態とは言えない世界)が「ある」とはつかめます。(ある=あくまでも認識に過ぎず)+ほか、(+には)+ない。   いくところまでいった「ほか」が、単に、「ほか、ない。」状態で、現前のイマと繋がってくれます。どこまで行っても、どんどん外に広がっていっても、内に内に体の中に染み込んで行っても、(たとえば私の裏にもう一人いるかもしれない。たとえば私の裏に文明があるかもしれない。過去の、未来の一コマが、事実の流れが、今、重なっている可能性があり・・・ 生きているその時、ただ細胞が動き、血が流れているだけとは言い切れない。ただ感じ取れないだけであって、内に、事実は何が起きているのか判らない。何を以って固定、規定すればいいのか知らない。ただ、)「他には無い。」ひとつにしてくれます。   認識という型枠を外しても「ほか、ない。」は独立し、固定しています。認識しなくても、出来なくてもコンクリートは独り立ちしてくれました。   ちなみに車輪止を打とうとしても「ほかにはない。」が故に、するするとすり抜けてしまう。「ほか、ない。」には終着は有り得ません。   可能と不可能について。「ほか(には)ない。」の1地点において、チョイスされた一つが可能(存在)でその他が不可能(非存在)である。「ほか、ない。」においては実行不能が発生する。できることの裏には出来ないことが無限に仮存在していた。さらに現前を思い凝らせて行くと難易度が肯定される。手を叩くのは簡単だが、そこに地球を創造するのは容易ではない。   神の有無。無限の「ほか、ない。」における現前のここまでの、この惨状(=客観的人的基準から)。それを救えていないが故、神は存在しない。無限に「ほか、ない。」以上、次から次へと掴み続け、未到点が存在し続ける。全知全能という概念も否定される。非存在の観点から捉えた場合もそうなる。全知全能神は無い。間違いである。もとより、広がっていくので、「全て」という概念が誤りなので「全て」を救える者は存在しない。   しかし、この惨状、惨状と言えるからには昇華へのモチーフになる。「ほか、ない。」に息する「流れ」はあろう。プログラム、そのミスか。あるいはテストか。   (2)へ続く…
  • 誠実主義

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    • 2017/12/21 17:38
    誠実主義を基本に語っていきたいと思います これで自分の言動に題がピッタリくる
  • ☆ カントの道徳 ☆

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    • 2017/12/21 00:09
    ☆ カントの道徳 ☆ 井出 薫  カントは、道徳律は定言命令だと主張する。つまり、道徳律は「これこれの理由から、こうしなくてはならない」という性質のものではなく、無条件に「こうしなくてはならない」という義務だ、とカントは考える。  これは、殺人を例にとって考えると分かり易い。  「なぜ、人を殺してはいけないのか」こう問われると、案外、答えることが難しい。  よくある回答は「君は殺されたくないはずだ。だから殺人は許されない。」というものだ。  これは次のような推論に基づく。 (1)私は殺されたくない。 (2)私以外の者も、私と同じ人間である。 (3)1と2から、「私以外の人間も殺されたくない」が導かれる。 (4)人が嫌がることをしてはならない。 (5)3と4から、「人を殺してはならない」が導かれる。  一見、筋の通った明快な論理に見えるが、かなり無理がある。  (1)については、「別に殺されたって構わない」と考えている者が存在する。自殺をする者は、自分で自分を殺しても構わないと考えている、と言えなくもない。  (1)は正しいとしても、(2)は相当に疑わしい。(2)は哲学では他我問題、他者問題などと呼ばれ、近代哲学の最重要問題の一つとして挙げられているが、フッサールなどの天才哲学者の優れた考察を以ってしても解決に至っていない問題として残されている。また、人によって趣味や信条は異なる。自民党の政策が正しいと考える者もいれば、共産党の主張が正しいと考える者もいる。巨人ファンもいれば、阪神ファンもいる。ごくマイナーだがヤクルトファンもいる。従って(2)の正しさは証明されていないし、そもそも正しいかどうかが疑わしい。  仮に、(1)から(3)が正しいとしても、(4)の正しさにもはっきり疑問がある。たとえば、予防注射を子供が嫌がっているからと言って注射を止めることは正しいだろうか。犯罪者が「刑務所には行きたくない」と言ったら、放免してよいのか。(4)は普遍的な真理ではなく、状況依存の相対的な真理に過ぎない。  さらに、(1)と(2)から(3)、(3)と(4)から(5)の推論にもいささか飛躍がある。  この例からわかる通り、「人を殺してはいけない」を他の根拠から導き出すことはできない。「君は殺されたなくはずだ」以外の事実を持ち出しても、ここで展開した論理と同じように、その推論に無理があることを示すことができる。  道徳規則(「人を殺すな」、「暴力を振るうな」、「嘘を吐くな」、「盗むな」、「人を苦しめたり、悲しませたり、悩ませたりするな」など)は、世界の事実から導かれるものではなく、それ自体で真(善)であり、論理的な根拠がなくとも人として従わなくてはならない義務である、これがカントの道徳哲学だと言ってよい。  しかしながら、カントの主張は、功利主義とは明確に対立する。功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」のスローガンに示される通り、社会的な福利の増進をもたらすものこそが道徳律となるべきだと考える。つまり、カントと異なり、功利主義は幸福を増進するという世界の事実から道徳律を導く。功利主義はそれゆえ、カントの義務倫理に対して価値倫理だと言われることもある。そして、現代社会において最も影響力のある道徳哲学は功利主義だと言ってよい。多数決の原則は功利主義に基づく。また、功利主義ではないが、ヘーゲルの道徳観もカントとは異なる。  もちろん、道徳哲学の優劣を多数決で決めることはできない。功利主義が支配的だからと言って、功利主義がカントの義務倫理に優るとは言えない。どの道徳哲学が正しいかの答えは誰も分からない。  いずれにしろ、殺人を悪とする理由を問うときには、カントの考えが、一番説得力がある。功利主義では「悪い社会体制を倒すためには、闘争の過程で、何の罪もない子供が死んでもやむを得ない。」というような発想が安易に出てくる危険性がある。確かに現実には、戦争や暴動で人が殺されている現実がある。それを否定することはできない。しかし、戦争や暴力を否定し、平和と対話をとことん追求するのであれば、カント的な観点に立つことが必要だと思われる。 (注)但し、他の問題では、功利主義など他の道徳哲学がカントの道徳哲学に優ることが多い。詳細は別の機会に論じる。
  • ユダヤ人って

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    • 2017/12/21 00:08
    奥が深いよ
  • ☆ 遠視で近視? ☆

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    • 2017/12/21 00:07
    ☆ 遠視で近視? ☆  100万円で買った株が150万円まで値上がりしたが、売らないで様子を見ていたら120万円に下がってしまった。こういうとき、人は往々にして20万円儲けたと考えないで30万円損をしたと感じてしまう。120万円で売ったら、その後150万円まで値上がりしたときも同じように感じる。どうしてだろう。人間が欲張りだからだろうか。  多分そうではない。人は無意識のうちに一番時間的に近い出来事を比較して事態を判断するようにできている。100万円で株を購入、150万円まで値上がり、120万円に値下がり(売却)、後者の二つを比較するから損をした感じがする。100万円で買って120万円で売ると、そのときは得をした気になるが、その後150万円まで値が上がると、120万円の売却価格と150万円の現在価格を比較することになり、やはり損をした感じになる。  女子スポーツ選手で、よく美人選手と騒がれる人がいる。だが、よくよく見ると、大抵は、タレントとして売り出していたら、美人とは言われなかっただろうと思われる人がほとんどだ-誰とは言わないが-。近くの選手と比較するから美人に見えるが、タレントの中に入ると周囲が美人・美少女揃いだから特段奇麗には見えない。むしろ○○の部類だと思われることになる。  人間の脳は(多分)時間的・空間的に近いものを比較して行動を決めるようにできている。元々、人間とて自然界に生きていた動物の一つに過ぎない。いつ敵に襲われるか分からないジャングル生活をしていた頃の人間には、遠くにあるものや昔のことをあれこれ考えてもたいした意味はなく、空の色の急な変化、微かな物音、見知らぬ者の侵入など微妙な変化に鋭敏に反応することが野生で生きるために不可欠な能力だった。だから脳もそういう風に出来ている。  人間は文明化して、安全を確保することができるようになり、小さな変化に敏感に反応する必要がなくなった。その結果危険を感知する能力も著しく衰えた。なにせ毒キノコ図鑑を持参しても中毒になる人が後を絶たないくらいなのだ。しかし、それでも脳の構造はそう簡単には変わらない。文明化して時間的に余裕ができたのだから、すぐにかっとなり暴力的な行動を起こしたりすることは百害あって一利なしなのに、人は相変わらずすぐにかっとなり、とてつもないこと、あとから考えれば全く馬鹿げたことと思えることをしでかしてしまう。戦争やテロなどは集団レベルでの、その典型的な事例だと言えよう。  しかも悪いことに、昔の出来事や遠いところにある物を理解し記憶する能力が格段に進歩したために、恨みが蓄積されやすくなった。昔の出来事や遠くのものを知ることができるようになった分、思考もゆったりとした大局的なものになればよいのだが、そうはいかない。その結果、昔の恨みと近くの諍いが相乗効果を起こして過剰反応が生じる。中国や韓国の反日騒動や、それに対する日本国内の過剰反応などはその事例の一つとみることができる。  要するに、現代人は遠視で近視なのだ。老眼と言ってもよいかもしれない。文明が発達して、よく見えるようになったつもりでいるのだが実は近くも遠くもちっとも見えていない。いや、視界には入っているのだが情報が上手く活用できないのかもしれない。  いずれにしろ、現代人は地球を吹っ飛ばすくらいの巨大な力を手にしている。自分の力を過信せず、眼鏡なしには歩けないことをよく自覚して慎重に行動することが大切だ。 了
  • ☆ 心の哲学 ☆

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    • 2017/12/21 00:07
    ☆ 心の哲学 ☆ 井出 薫  オースティンの言語行為論を発展させた哲学者サールが新著で、21世紀の哲学の最も重要な課題は「心の哲学」だと語っている。  最重要課題かどうかは意見の分かられるところだが、「心の哲学」が現代において極めて重要な課題であることは事実だ。  とは言っても、脳科学やコンピュータサイエンスに進歩により、心は、哲学ではなく科学の研究対象になりつつあると考える人も少なくないだろう。-なお、本論では「科学」はもっぱら自然科学を意味するものとする。また心理学は科学に含めない。-  7月13日付けのネイチャー誌では、四肢麻痺患者の意思を脳に取り付けた装置を通じて電気信号に変換して、コンピュータやテレビを操作できることが報告されている。将来は四肢麻痺患者がロボットを使って普通の人と同じように生活することができるようになるかもしれない。こういう現代科学の目覚しい成果を目の当たりにしたとき、心も科学で(原理的には)解明できるはずだと人々が信じても無理はない。しかし心は科学では解明できない。  痛みを感じるとき、脳で何が起きているかを、科学は解明することができる。だが、脳が特定の状態にあるとき、あるいは、特定の物理的な過程が生じているとき、それをなぜ人は「痛み」と感じるのか、科学はけっして答えることはできない。  脳組織のほんの一部を人工的なデバイスに置き換え、しかも本人も周囲もその影響を全く感じないようにすることは可能だろう。だが、こうやって少しずつ脳を人工的なデバイスに置換していき、最後にすべてを人工物に置き換えたとき、それでも人は心を持っているだろうか。周囲の人には心を持っているように見せかけることはできる。しかし、本人に心は残っているだろうか。このような問いには、科学は答えを用意できない。  科学は強力だが、すべての問いに答えることができるわけではない。基本的に、科学は、一定の観点から自然現象を分類・整理して、それらの間の関係を(一般的に数学を使って)明確にして、統一的な法則や原理を発見することを目的とする。そして、それらの法則や原理を使って、様々な現象を説明したり、予測したり、自然現象を制御したりする方法を見つけ出し、現実に応用する。  科学の法則や原理において、エネルギー保存則のような保存則と、時間とともに自然現象がどのように変化するかを記述する方程式や説明図式が、決定的に重要な位置を占める。自然界に潜む保存則を見つけること-染色体の数のように常に厳密な保存則が成り立つわけではないが、通常一定に保たれる量もこの範疇に含まれる-、自然現象の時間変化を記述する方法を見つけること、この二つの試みにより解明できることだけが、科学の問いとなりえると言ってよい。しかし、心に関する諸問題は、このような方法では解明できない。  足を失った人は、足という身体器官が欠けていることが原因で苦しむのではなく、自分には足がないという思いに苦しむ。そのとき、科学は脳で何が起きているかを示すことはできる。だが、それは苦しみの原因を説明することにはならない。人は、脳が苦しむのではなく、心が苦しむからだ。脳は感情や思考に不可欠な物理的な基盤かもしれないが、感情や思考ではない。それはコンピュータの電子装置が計算に不可欠な物理的な基盤だからと言って、電子装置やそこで生じる物理的な過程が計算ではないのと同じだ。  だから、心と脳という二つの場を時間変化で結び付けることはできない。「痛み」を感じているとき、確かに脳では何かが起きているだろう。だが、その脳の何かが原因で痛みが生じるのではなく、その逆でもない。つまり、心のあり方と脳の状態を、因果関係で結合することはできないのだ。  さらに、心の領域には、保存則に相当するようなものは存在しない。フロイトのようにアナロジーを駆使して、保存則めいたものを提示することはできるが、それは誰にも検証することができない神話に過ぎない。だから、それは科学理論にはなりえない。  科学は、心に関わる出来事の自然的な基盤を明らかにして、適切な手術や薬物処方、行動療法などにより、人の気持ちや思考方法を変えることができる。意思と関連している脳内過程を物理的に変換して、コンピュータやテレビを操作することもできる。だが、なぜ、それが物理的に外部から観察可能な振る舞いの変化だけではなく、人の気持ちや考えを変えることになるのか、科学は説明できない。そもそも、人の気持ちや考えが、なぜ脳や身体という物と関わることができるのか、所謂心身問題も科学研究の範疇外にあると言わなくてはならない。
  • マスコミは何故

    • 3
    • 2017/12/21 00:07
    御嶽山噴火での気象庁の怠慢を批判しないのか?
  • ☆ 言葉、動物の知性 ☆

    • 2
    • 2017/12/21 00:06
    ☆ 言葉、動物の知性 ☆ 井出 薫  犬は主人がドアの向こうに居ると信じることはできるが、明後日も主人が帰ってくると信じることはできない。ウィトゲンシュタインはこう記している。この考えは正しいだろうか。  「期待する」ことは言葉を理解する者だけに許された特権だ。人の言葉を知らない、それゆえ「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らない犬には明後日主人が帰宅することを期待したり予測したりすることはできない。しかし、言葉を知らないということと、それができないということは違うと批判する者がいる。「痛い」という言葉を知らないからと言って、痛みを感じない訳ではない。痛みを「痛い」と表現できないに過ぎない。だから「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らないからと言って、明後日主人が帰ってくることを期待するあるいは予測することができないとは言えない。これが批判者の指摘だ。確かに尤もらしい反論で、多くの者はウィトゲンシュタインよりも批判者に軍配を上げる。  しかし、ウィトゲンシュタインが正しいと思う。痛みは主観的だが、生理学的な反応に基づくものであり、言葉の理解に拘わらず存在すると言うことができる。しかし期待や予測は、生理学的な基盤の上に成立するものではなく、言葉を共有する共同体で承認されて初めて成立するものであるから、犬に期待や予測を帰属させることは妥当ではない。擬人法を用い、犬が明後日の出来事を期待している場面を想像することはできるが、実際に犬が期待していることを承認することはできない。犬も、承認してもらっても嬉しくも何ともない。承認されたことの意味が理解できないからだ。ただ嬉しくて尾っぽを振ることはあっても、自分の期待が理解されたと知ったわけではない。お手ができて褒められたのと変わらない。  こうして、人間と異なり、高度な言語を使用することができない動物の知的能力は極めて限られたものとなる。犬よりも高度な頭脳を持つとされる類人猿やイルカなどでも、その知的能力はその場の対応や感覚的な記憶に基づく危険予知などに限られる。知性は人間のように複雑で無限とも言える生成能力を持つ言葉を有することで初めて成立する。  しかし、読者は、この議論にはどこか承服しかねるものがあると感じるだろう。ウィトゲンシュタイン自身がそうだった。それは、知性とは何かという根本問題が未解決のまま残っているからだ。動物に知性を帰属させることができるかどうかは人間を理解する上で極めて重要な論点になる。ウィトゲンシュタインの議論を参考に、大いに知性を働かせてみては如何だろう。 了 (H23/12/17記)
  • ☆ 哲学と読者のために ☆

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    • 2017/12/21 00:06
    ☆ 哲学と読者のために ☆ 井出 薫  カントの代表作が「純粋理性批判」、ヘーゲルの代表作が「精神現象学」、専門家はこの評価に異論はないだろう。他に代表作が挙げられるとしても、カントだったら「判断力批判」、ヘーゲルならば「大論理学」、難渋な純粋哲学的大作で大差はない。  しかし、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学だとしたら(事実そうなのだが)、一般読者は間違いなく哲学を敬遠することになる。哲学は変わり者が愛好する奇異な学問、哲学は深遠なのかもしれないが、訳の分からない読み物の典型ということになってしまう。  ところで、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学とはどういう意味だろう。そして、この評価は専門家から支持されているとは言え本当に正しいのだろうか。  「学」とは抽象的な次元で対象を論じる。このことは、数学、物理学、経済学、社会学など全ての学問に共通する。それにより、学は普遍性を有することになる。目の前に在る特殊な個物を論じることは学の本来の使命ではない。それは学の応用としてのみ存在する。具体的な事例を引き合いに出すことはあるが、あくまでも抽象的な原理を説明するための道具でしかなく、本質ではない。  哲学も学である以上、抽象的な次元で対象を探究する。その意味で、哲学の代表作が「純粋理性批判」や「精神現象学」であることは間違いではない。だが、本当にそれが哲学の真の姿なのだろうか。確かにかつて他の学と同じように抽象的な学として哲学は存在した。それも他の学の上に立ち君臨する者として存在した。しかし、今ではそういう哲学はほとんど意味がないと考えられるようになっている。寧ろ、哲学は特殊具体的な課題をその場で考察する学だと考えるべきではないだろうか。その意味で、哲学は学と言うよりも実践そのものと言ってよい。そして、正にこの姿こそ、西洋哲学の原点とも言うべきソクラテスが目指したものだった。ソクラテスに回帰すれば、哲学は抽象へと解消されることのない個別具体的な実践として捉えることができる。  このことに気が付くと、カントでは「純粋理性批判」ではなく寧ろ「啓蒙とは何か」、「永遠平和のために」、ヘーゲルでは「精神現象学」ではなく「法の哲学」、「歴史哲学講義」などを代表作として取り上げることができる。  そうなれば、一般読者の哲学へのアレルギーは大幅に和らぐ。勿論、「「本物の哲学」とは何か」などという問いに答えはない。しかし、「永遠平和のために」なら誰でも気楽に短時間で読み通すことができる。難解で知られるヘーゲルでも「歴史哲学講義」ならば根気よく読めば読み通すことができる。そして、どちらの書も得るところは多い。  いずれにしろ、読んでも理解できない「純粋理性批判」や「精神現象学」ではなく、理解できる「永遠平和のために」や「歴史哲学講義」などを哲学の代表作として読者に勧めることが望ましい。そうすれば、哲学は現代社会においても大いに役立つものとなる。 了 (H24/12/3記)
  • ☆ 哲学とは何か ☆

    • 3
    • 2017/12/20 21:25
    ☆ 哲学とは何か ☆ 井出 薫  何が真理かではなく、そもそも真理とは何を意味しているのか、なぜ真理を探究するのかを問うのが西洋哲学=哲学だ。  哲学の原点であるプラトンとアリストテレスがこれに答えを与えた。「人は知ることを楽しむ動物であり(アリストテレス)、真理を探究する者こそが人間社会を支配するべきである(プラトン)。」真理の探究は人間と社会の本質に属する、だから人は真理を求めるというわけだ。そして、真理とは、「移ろい易い目に見える世界を超越したイデア(プラトン)、あるいは事物を概念分析して得られるエイドス(アリストテレス)」を意味する。  その後、プラトンやアリストテレスの答えに満足しない多くの哲学者たちが、この問題に様々な解答を与えてきた。プラトンを継承して真理そのものを問う哲学こそ人間の最も高貴な行為だとする者がいる一方で、ニーチェのように、真理の探究とは現実を肯定することができない弱者の恨みが生み出した歪んだ活動に過ぎないと主張する者もいる。  このように哲学そのものに否定的な意見もあるが、哲学は依然として真理の意味とその背景にあるものを探究し続けており、その活動は社会の中で一定の評価を勝ち得ていると言ってよい。哲学という言葉は役に立たない学問を意味するという嘲りを受けることも少なくないが、総じて哲学は人生と社会の真実とあるべき姿を考察する優れた学問的営為だと評価されることが多い。  だが、哲学が2千年以上も前から同じ問題を問い続けてきたというのに、未だに意見の一致を見ないのは不思議だと思う読者もいるだろう。そこから哲学は(虚偽意識という意味での)イデオロギーに過ぎないという見方も出てくる。  プラトンの時代と比較して、科学技術が飛躍的に進歩し産業が地球的規模にまで拡大した現代、それなりに評価されているとは言え、哲学の意義を本気で信じる者はごく少ない。哲学は骨董品として評価されているだけなのかもしれない。だから、哲学には現代的な意義があると考える者は、なぜ哲学では意見が一致しないのかを説明する義務がある。さもないと哲学は大学と学会と出版社という箱庭での(高尚だと思われているだけの)遊戯に過ぎなくなる。  それは文学や政治で意見が一致しないのと同じだという説明がある。しかし、「文学的な真理」、「政治的な真理」の「真理」とはそもそも何かを問うのが哲学である以上、政治や文学の実情を引き合いに出して哲学を説明するわけには行かない。順番が逆なのだ。哲学的考察から、文学や政治で意見の一致がみられない理由が解明されなくてはならない。  言葉の創造性、それが哲学で意見が一致しない理由だ。言葉の創造性と言っても、人の言語使用は生物的にも社会的にも強く環境に拘束されている。だから、私たちが言葉を自由に操り創造することができるわけではない。とは言え、言語使用の現場に「創造性」と呼べるような機構が備わっているのは否定できないだろう。この創造性の働きで、プラトンが哲学Pを提示すると、それを解体する哲学Aが必ず登場する。この過程には限りがなく、哲学は同じ問題を探究しながら見解の一致に至ることがない。  しかし、こういう説明には簡単に反論ができると言われるだろう。「言葉の創造性が幻想ではなく事実であると証明できるのか。(できない)」、「言葉の創造性という表現でそもそも君は何を意味しているのか。(明確な解答はない)」、「それはどのようにして見解の不一致という事実と繋がるのか。(因果的な説明は不可能)」  このような論難に明快な説明を与える能力もページの余裕もないが、正にこのような絶えることなく続く問いの連続に、読者は言葉の創造性と哲学の可能性を見てとることができると思う。これこそが哲学という営為なのだ。 了 (H17/9/4記)
  • ☆ 視覚の不思議 ☆

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    • 2017/12/15 20:15
    ☆ 視覚の不思議 ☆ 井出 薫  視覚は科学者だけではなく哲学者や芸術家も魅了してきた。  物体から放射ないし反射した光が網膜の視細胞を刺激することで視覚は成立する。では、なぜ視細胞に刺激を感じるのではなく、光を放射した物体がある場所に、その物が見えるのだろう。  そこにある物がそこに見えるのは当然だと思えるかもしれない。だが、光が視細胞を刺激して視覚が生じることを考えると、当然ではなく寧ろ不思議だと言わなくてはならない。足を踏まれたとき足に痛みを感じるだけで足を踏んだ人間が分かる訳ではない。それに対して視覚は刺激ではなく刺激の原因(物が特定の場所に位置すること)を認知している。  だが、幻が見えることもあるし、正しい場所とは別の場所に物が見えたり、物の大きさや長さを錯覚したりすることもある。つまり、刺激の原因を認知していると言っても、視覚はありのままの世界を直接映し出しているわけではない。  視覚がありのままの世界を映し出しているのではないことは、視覚の限界からも明らかになる。物体からは膨大な拡がりを持つ周波数の光(電磁波)が放射あるいは反射されているが、そのうちで人間が感じ取ることができるのは可視光領域と呼ばれる凡そ0.4から0.7μmの光に過ぎない。赤外線カメラで夜の様子が鮮明に撮影できることから分かるとおり、夜間でも多くの物体から赤外線が放射されているが、人間の視神経は感知することができない。すべての領域の光を感じ取ることができる者が存在したら、世界の見え方は人間のそれとは全く異なるものとなろう。  このように視覚は不思議な性格に満ちている。ところで、自然科学はこの視覚の現象をすべて説明することはできない。自然科学が進歩すれば、光を受け取った視細胞の反応に始まる脳神経系の一連の活動と身体器官へのフィードバックをすべて解明することが(少なくとも原理的には)可能となる。錯覚や幻視のメカニズムも解明できるだろう。しかし、なぜ物がそこに見えるのかという最初にあげた最も単純な問いには答えられない。  自然科学は、自然現象を因果的な連関という観点から整理し、それを自然科学特有の用語でモデル化し、そこに隠されている自然法則や基礎原理を探究し発見する。そして法則や原理に基づき個別の現象を説明する。正しい自然科学の理論に基づく説明は極めて正確だ。だが、逆に言えば、自然科学で答えることができる質問は、自然科学の用語を使用して因果的に説明できることに限られる。だから視覚に関する質問で、自然科学が答えることができるのは、たとえば「机がどこにあるか指で示してください」と質問したときに相手が目の前にある机を指差すというような動作を、物理的な因果関係で説明することに限られる。何故そこに見えるのかという質問は、自然科学の守備範囲の外にある。自然科学は万能ではないのだ。  自然科学が万能でないことが、この「見る」という最もありふれた現象に示されている。「見る」という活動には、自然科学の用語と理論に還元されない何かが潜んでおり、多くの哲学者や芸術家(たとえばゲーテ)がそれに魅了されてきた。-ただし、哲学が何故そこに物が見えるのかという質問に適切な解答を与えられるわけではない。-  現代人の多くは科学万能主義で、すべてのことが自然科学や自然科学の遣り方を模倣した社会科学で説明できると考えがちだ。だがそれは間違っている。科学が解明できることよりも遥かに多くのことが科学にとって謎として残る。視覚という人間の最も基本的な機能においてすらそうなのだ。そして、科学者に代わって、哲学者、芸術家、宗教家たちが、その不思議な現象を様々な手法で人々の前に描き出す。だが、この事実の中にこそ科学的必然性に還元されない人間の自由が存在する。  視覚という不思議な現象、ときには、それについて思いを巡らせることも悪くないだろう。 (H19/6/25記)
  • *うつ病の薬 *

    • 2
    • 2017/12/15 20:15
    かなり危険性があるらしいよ
  • ☆ 常識を脱構築? ☆

    • 2
    • 2017/12/15 20:14
    ☆ 常識を脱構築? ☆  真夏の正午、食事をするところを探していたら、繁盛していてなかなか美味そうな中華の店が目に入った。店に入りメニューを持ってきてもらう。ラーメン・餃子・生ビールの餃子セットが1350円、一寸昼食には高い感じがしないでもないが、ビールがついてこの値段だ、悪くない、早速注文する。餃子もラーメンも美味く満足した。勘定を済ませて店を出ようとしたときに、メニューを見て思わぬことに気がついた。ラーメンが単品で500円、餃子一皿が300円、生ビールが550円、単品で三品注文しても、セットで注文しても、同じ1350円なのだ。セットだったら安くするのが普通だろうと文句を言おうかと思ったが堪えて、それとなく「三品別々に頼んでも金額は同じだね。」と店員に尋ねてみた。そうしたら店員は涼しい顔で返事をする。「ええ、そうです。三品を注文するお客さんが多いので、お客さまの手間を減らそうと思ってセットメニューを作ったのです。一々、ラーメン、餃子、生ビールと分けて注文しなくてもよいから便利でしょう。」  偶然、知人の弁護士に出会ったので「これは法的には詐欺にあたるのではないか。」と尋ねてみた。「メニューに、「お得なセット」とか書いてあったか。」、「記憶が定かでないが、そうは書いてなかったと思う。」、「だったら文句は言えないな。本やDVDは、セットになった全集の料金が単品で揃えたときと変わらないのが普通だ。」  プラトン全集全XX巻セットの料金は、各巻を別々に購入したときと変わらない。先日買おうかどうしようか散々迷った5枚組みDVDからなるDVD-BOXの料金も単体の料金を足した金額と変わらなかった。確かに、本やDVDはセットでも単品でも料金が変わらないのが普通だ。  しかし、本やDVDでは料金が同じでもセットには価値がある。全集を残らず揃えたいという場合にセットならば確実に手に入るからだ。小説や連続ドラマでは、特定の巻が欠けていたのでは意味がないことが多い。「戦争と平和」全4巻のうち、2巻が手に入らないのでは、残りを購入する気にはならないだろう。連続テレビドラマのDVDもセットで揃っていないと価値が半減する。古書店やリサイクルショップで本やDVDを売却するときも、全集で揃っているかどうかで引き取り価格が全然違ってくる。  だが、料理のメニューは違う。餃子・ラーメン・生ビールがセットで揃っている必要はなく、餃子・レバニラ炒め・ハイサワーでも一向に構わない。セットやコース料理は単品よりも料金が安くなるからこそ意味がある。  こう考えて、法的に問題だとまでは言えないとしても、道義的に問題があるのではないかと弁護士に問い質したところ、やんわりと否定された。 「それはどうかな。餃子、ラーメン、ビールをそれぞれ単品で頼むとする。ビールが先に出てきて、君はそれに口をつけたとしよう。ビールが先に出てくるのはごく普通だから、その点に文句はないだろう。そのとき店員が君のところに来て「すみません、餃子は売り切れです」と言ったらどうする。君の嗜好から言って、ラーメンだけではビールのつまみにはならない、餃子があればこそのビールだ、餃子がないならビールを注文しなかった、ということになるだろう。だが君はビールに口を付けている。そこで注文をキャンセルしても君はビール代を払わないといけない。しかし、セットならば、餃子がないと言われた時点でビールに口をつけていたとしても、店側がセットを提供できないのだから、君は注文をキャンセルしてもビール代を払う必要がない。君はただでビールを飲むことができたわけだ。だから、料金が同じではセットメニューに意味がないと断定することはできないと思う。」  結局、セットメニューは単品よりも安いという常識には何の根拠も法的強制力もないことが判明した。それにしても、常識を逆手にとって-「逆手にとる」は哲学業界では「脱構築」と呼ばれる-、たくさん飲み食いさせるこの店の主人の才覚はたいしたものだ。おそらくポストモダニズムの哲学に通暁していると思われる。日頃何の役にも立たないと思われている哲学も思わぬところで役に立つものだ。 了 (H17/8/20記)
  • ☆ 進化論の正しい学び方 ☆

    • 4
    • 2017/12/15 20:14
    ☆ 進化論の正しい学び方 ☆ 井出 薫  進化論は「(突然変異で)自然環境によりよく適応できるようになった生物が、生存競争の勝者となって生き残り、敗者は滅びていった。これが自然淘汰による生物進化だ。人間を頂点とする高等動物は、他の生物よりも環境に上手に適応することができたので、地上で繁栄している。」ということを語っていると信じる人が少なくないが、間違いだ。  30年ほど前までは、恐竜は進化の袋小路に迷い込み、哺乳類との競争に敗れて絶滅したと考えられていた。だが、今では、恐竜は巨大隕石の地球衝突が原因で絶滅したと考えられている。隕石衝突から辛うじて生き残った哺乳類の先祖が様々な進化を遂げ、その末裔の一人が人間だ。-隕石衝突で絶滅したのは恐竜だけではなく、哺乳類の多くの種も絶滅した。-  恐竜より哺乳類が優れていたから哺乳類が繁栄しているのではなく、恐竜が滅びたお陰で、それまでは地球生態系でマイナーな存在に過ぎなかった哺乳類が繁栄することができるようになった、これが真相だ。もし隕石の衝突がなく、あるいは衝突があったとしても恐竜が首尾よく生き残っていたとしたら、哺乳類は未だにマイナーな生物に過ぎず、おそらく人類のような肉体的にひ弱な生物は生存することができなかっただろう。その代わりに、恐竜の仲間に人間のような知能を持つ者が誕生していただろう。  恐竜に限らず、絶滅した種の多くが、生存競争に敗れたのではなく、天変地異など外部要因で滅びたと今では考えられている。  新しい種が生態系に誕生するときも他の種を押し退ける必要はない。窒素は生命体を維持するために不可欠の元素だが、陸上植物は空気中に最も豊富に存在する窒素分子を直接利用することができない。だから土壌のアンモニアや硝酸など窒素化合物を利用して生命を維持している。だからアンモニアや硝酸が欠乏した大地では植物は繁殖できない。最も重要かつ有益な肥料が窒素肥料であることからもこのことは容易に想像がつくだろう。  ここで空気中の窒素分子を直接利用する能力を持つ植物が突然変異で誕生したらどうなるだろう。窒素化合物が欠乏した大地でも生き延びることができる。そうなれば、この新しい植物はそれまで他の植物が生存できなかった場所で繁栄することになる。ここでは、従来の植物と新種の植物の間には棲み分けが出来、競争は生じない。両者は共存する。  実際、窒素固定能を有する根粒菌を根に共生させているマメ科の植物は、窒素化合物が欠乏した土壌で生育・繁殖しているが、マメ科の植物が他の植物と共存共栄していることは言うまでもない。 (注)「窒素固定能」とは、大気中などに存在する窒素分子から植物の生育に不可欠な窒素化合物を作り出す能力のこと。地球上ではバクテリアの一部だけがこの能力を有する。根粒菌はその数少ないバクテリアの一種。  生物進化は、突然変異を通じて新しい能力を獲得した生物や生物の集団が、既存の種が利用できなかった環境を利用することができるようになり、新しく生態系に参加することで進んでいく。生存競争がないわけではないが、それが進化の原動力ではない。そのことは、植物と昆虫との共生関係など地球生態系の至るところでみられる多様な共存共栄関係をみれば容易に想像がつく。他の種に依存せずに独立して生きていける種など、この地上には一つも存在しない。もし様々な種が生き残りを賭けた死に物狂いの闘争を繰り広げているとしたら、調和の取れた現在の地球生態系はありえない。  生存競争に敗れた者が去り勝者が生き残るという発想は、西洋が世界を支配して資本主義的競争が激化した17世紀から19世紀にかけて登場したイデオロギーの一つに過ぎない。ダーウィンがマルサスの強い影響の下で生物進化の思想を確立したために、進化論思想は生存競争による優勝劣敗的な発想に大幅に偏ってしまうことになる。-とは言え、ダーウィンの進化論が歴史に燦然と輝く偉大な思想であることに変わりはない。筆者はその時代的な解釈を問題にしているだけだ。-しかし、調和の取れた生態系、絶滅や新しい種の誕生の原因と経過などをみれば、そのような思想が正しくないことは明らかだ。
  • 西洋哲学の爆発

    • 7
    • 2017/12/14 07:40
        西洋哲学というのは、2000年ぐらいから爆発してしまったのではないだろうか  どこを向いても、大量に言説が生産されている。  分析哲学系も、大陸哲学系も、オーストラリア存在論派もイタリア存在論派も、どんどん発展している。英米圏の哲学はアフリカにまで手を出している。  それに比べると、日本は旧態依然としてして、こんな状態では、東洋哲学の気の実践システムを紹介導入することにアイデンティティや活路を見いだした方がいい。
  • 世界一 美味しい食べ物

    • 6
    • 2017/12/13 17:49
    インドカレー
  • 哲学カテゴリーには

    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    カルトの人達が多いな
  • イスラムって

    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    よくわからないな
  • ☆ 哲学と教育 ☆

    • 5
    • 2017/12/13 17:47
    ☆ 哲学と教育 ☆ 井出 薫  デューイは、哲学とは教育の一般理論であると述べている。これはぴんとこないかもしれないが、正しい見方だ。  自然は人間の意志から独立した法則で特徴付けられる。重力の法則を知らなくても私は重力の法則に従っている。近代物理学を知らなかった古代の人々や他の生物も重力の法則に従っている。自然法則に従うために自然法則を学ぶ必要はない。  一方、社会は規則の集合体として特徴付けられる。規則は法則と異なり自動的に従うことはできない。規則に従うには、まず規則を学ばなくてはならない。物理法則に従うために物理法則そのものを学ぶ必要はないが、物理法則の研究や学習をするには、それに必要となる社会の規則-学校に行き学則を守って勉強をする、など-を学ばなければならない。  人は社会の成員として生きていくために規則を遵守する必要があるが、そのためには教育が欠かせない。教育があって初めて社会が成り立つ。教育は社会の根幹だ。  教育されるべき科目は極めて多岐に渡るが、科目によって異なる教育方法が採用されたのでは教育活動は円滑に行なわれない。だから組織と方法において一貫した思想と施策が必要となる。それを考察することこそ、諸学の王たる哲学の使命だ。  西洋哲学の原点とも呼ぶべきソクラテスは偉大な教師だった。青年達との対話に残されたソクラテスの言葉と実践は、どのような教育が必要か、どのような方法を採用するべきかを教えている。ソクラテスの生き様に哲学が教育の一般理論であることが示されている。 (H19/7/16記)
  • 西洋哲学って

    • 4
    • 2017/12/13 17:47
    人気ないな
  • 日本って

    • 13
    • 2017/12/13 17:46
    祝祭日 多いな
  • ☆ インフレは徴候 ☆

    • 2
    • 2017/12/13 17:46
    ☆ インフレは徴候 ☆ 井出薫  近頃の報道で気になることがある。アベノミクスの真の目的は景気回復と持続可能な経済成長にある。ところが、物価上昇率(インフレ率)ばかりが注目され報道されている。  ウィトゲンシュタインは基準と徴候を区別した。たとえば、インフルエンザの基準は、インフルエンザウィルスが体内に侵入し、細胞内で増殖し細胞を破壊して外部にウィルスが広がる状態とされる。一方、インフルエンザの徴候として、急な発熱、悪寒、関節痛などが挙げられる。インフルエンザの基準が満たされればインフルエンザは確定する。しかし徴候だけではインフルエンザが疑われても、断定はできない。同じような症状を示す病気は他にもたくさんある。また、インフルエンザの基準が満たされても、必ずしも徴候が現れないことがある。身体が頑健あるいはワクチンの効果などにより、微熱くらいで徴候がはっきりしないことは珍しくない。つまり基準と徴候との間には関連があるが、明確な因果関係が存在するとは限らない。ウィトゲンシュタインは、人々がしばしば基準と徴候を混同して誤った議論をしていると警告する。  インフレ率は基準ではなく徴候に過ぎない。確かにインフレと好景気、失業率の低下などには正の相関がある場合が多い。インフルエンザが流行しているとき、開業医たちは、簡易検査キットでインフルエンザウィルスが検出されなくても、39度を超える高熱や関節痛がある場合、インフルエンザと診断して抗ウィルス薬を処方することがある。診療所での検査では精度の点で限界があり、かと言って、全ての患者を大病院に紹介することは現実的ではない。それゆえ開業医たちは時として徴候を頼りに診断をくだす。そしてそれは決して誤った措置ではなく、患者の苦痛と危険を防ぐ賢明な措置だと評価される。それと同じ意味で、便宜的にインフレ率を景気回復の指標として使うことも間違いとは言えない。  しかし、景気回復や経済成長の判定は、感染症患者の治療のように急を要する問題ではない。それゆえ、インフレ率だけを見て、景気回復しているかのように報じることには問題がある。そもそも長いデフレの反動でインフレが良いことであるかのように論じられることがあるが、インフレ自体は決して良いことではない。インフレになっても収入が増えない高齢者や自営業者にとって、インフレはしばしば大きな打撃となる。ただ現代の自由主義経済では、インフレ率がマイナスあるいはゼロ状態で好景気が出現することはまずない。だからインフレ率を景気判断の材料に使っている。だが景気はインフレ率だけでは決まらない。  景気が悪化しているなどと批判するつもりはない。しかしインフレ率だけに注目し景気判断するような姿勢は厳に慎む必要がある。特に影響力の大きい報道機関には冷静な分析が求められる。 了 (H26/4/6記)
  • ☆ 比較優位の原則 ☆

    • 2
    • 2017/12/13 17:46
    ☆ 比較優位の原則 ☆ 井出 薫  サミュエルソンは経済学で最も重要な発見は何かと尋ねられて「比較優位の原則だ」と答えたそうだ。各国(あるいは地域)は自分の得意な分野に専念することが得策だというこの原則は、現代経済学の中心的な思想となっている。  グローバル経済の進展で、この原則は現実のものとなっている。日本車に乗り、台湾製のパソコンでアメリカ製のプログラムを動かす、今やこれはごく普通の光景だ。世界各国・各地域はそれぞれ得意な分野で人々の生活に貢献している。  比較優位の原則は、物理学におけるエネルギー保存則に等しい地位にあると言う人もいる。しかし、比較優位の原則はエネルギー保存則のように絶対的なものではない。エネルギー保存則に逆らうことは不可能だが、比較優位の原則に反する経済政策や経営を実行することは容易く、賢明な策であるかどうかは別として実際しばしば実行される。さらに、エネルギー保存則には道徳的な意味はないが、比較優位の原則には道徳的な意味がある。些か単純すぎる見方だが、この原則を徹底すると、比較優位でない事業からは撤退するべきだということになる。だがそうすると比較優位でない事業に従事する者は不利益を蒙る。個人に着目すれば、その事業に従事することがその本人にとっては比較優位なのだが、比較優位の原則はマクロの原理だから個人は切り捨てられる。  小泉・竹中改革は規制撤廃と行財政の構造改革で比較優位の原則を徹底しようとする試みだったと言える。改革の成果で国際競争力のある企業や業界は利益が増大しマクロレベルでは日本経済は回復した。だがその一方で競争力の乏しい分野や不採算事業は切り捨てられ、地方経済は衰退し、経済格差が拡大した。都会では小泉前首相の人気は依然として高いが、地方では小泉改革への批判の声は小さくない。  比較優位の原則に従えば、都会は都会が得意なことを遣り、地方は地方が得意なことを遣れば、両者とも豊かになるはずなのだが、経済がグローバル化するとそうはいかなくなる。国が経済的な基礎単位となり、国内ではなく世界的規模の経済圏で比較優位の原則が働くことになるから、一国の中で特定の業界や特定の地域が有利になることは避け難い。地方経済衰退や格差拡大の原因をすべて規制緩和や構造改革に求めるのは誤りだが、少なからぬ影響を与えていることは事実だ。  国際的にも、比較優位の原則は発展途上国の経済成長を促し貧困を解消することに貢献するよりも、寧ろ貧しい発展途上国の劣悪な生活環境を再生産しているようにみえる。現象的には、発展途上国ではマルクスが告発した状況が依然として続いている。  マクロの次元で適用される比較優位の原則は、普遍的な原理ではなく、政策立案で参照するべき原理の一つと考えるべきだろう。これを過大評価すると、人は単なる生産と消費の道具と化し、人は目的であることから手段へと貶められることになる。  比較優位を重要な発見とする経済学は、人文社会科学の諸分野の中で、最も整備された体系を有し、実用性の高さも際立っているが、自然科学における物理学に匹敵するような絶対的な地位を占めるわけではない。経済学の研究と応用では、常に理論の有効性の検証と道徳的な吟味が必要となる。このことをけっして忘れてはならない。 (H19/9/24記)
  • ☆ 推移律 ☆

    • 3
    • 2017/12/13 17:45
    ☆ 推移律 ☆ 井出 薫  a~bかつb~cならばa~cが成り立つとき、「~」で表現される関係は推移律を満たすと言われる。たとえば等式は推移律を満たす。a=bかつb=cならばa=c。また大小関係も同じ。a<bかつb<cならばa<c。自分の好きな食べ物も推移律が成り立つ。焼肉よりも鰻重が好き、鰻重よりも寿司が好きという人は、焼肉よりも寿司が好きだということになる。  推移律を満たす関係は多いが、どんな関係でも推移律が成り立つわけではない。「じゃんけん」で、グーはチョキに勝ち、パーはグーに勝つ、だがパーはチョキに負ける。だから「じゃんけん」では推移律は成り立たない。人の好き嫌いも同じで推移律は成り立たない。bがaを好きで、かつ、cがbを好きだとしても、cがaを好きだとは限らない。  人は一般的に推移律が満たされる、満たされないといけないと考えがちだ。ママが子犬のポチを愛していて、パパがママを愛しているのならば、パパもポチを愛さないといけないと言われる。だがパパが犬嫌いだったら如何ともしがたい。首位を独走するチームが他のチームには圧倒的に勝ち越しているのにダントツで最下位のチームに負け越していると文句を言う人がいる。だが、強い・弱いの関係は必ずしも推移律を満たさない。現実の社会に存在する関係は推移律が成立しない(させることもできない)場合が多い。  経済学に「アローの不可能性定理」と呼ばれる定理があり、「民主的な社会で、全員の意見を集約した最良の政策を選択することは不可能だ」という結論が導かれる。アローの定理に関わりなく、最善の選択をすることは現実的・技術的に困難だが、原理的にも不可能だと言うのは納得がいかない。不可能だとすると、民主制は少なくとも独裁制よりは善い社会体制だと言える根拠がなくなってしまう。  アローの定理の証明では、各成員が希望する政策の選択順位に関して推移律が仮定されているが、たぶんここに現実との乖離があると思われる。人は周囲の動向に配慮しながら自分の意見を決める。だから推移律を仮定することはできないのではないだろうか。-ただし、このような厚生経済学の数理論理学的研究が現実にどれほどの意義があるのかは疑問だ。-  いずれにしろ、私たちは「じゃんけん」のような推移律が成立しない遊びを年中しているにも拘わらず、推移律を暗黙のうちに前提してしまうことが多く、諍いのもとになったりする。おそらく人間の脳には推移律を仮定する傾向があるのだろう。だから人と論争するときは、間違って推移律を仮定していないか注意が必要だ。
  • 同性愛者比率の一番高い国は、

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    • 2017/12/13 10:53
    イスラエルらしい。(?)
  • ☆ 言葉と思考 ☆

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    • 2017/12/13 10:53
    ☆ 言葉と思考 ☆  「re」という接頭辞には「再び」という意味がある。presentationは「いま、ここに、存在していること」という意味だから、re-presentationという言葉は、「存在が再度到来すること」という意味になる。ポストモダニズム系の哲学書でrepresentationを「再現前」と訳すことがあるが、それはこの意味だ。しかし、日本語では、普通こういう訳し方をすることはなく、大抵は「表現」と訳す。そもそも、「再現前」という言葉は、日本語としては極めて不自然な表現であり、哲学の専門用語として一部の人たちが使うだけのものでしかない。  しかし、英語やフランス語を母国語とする人たちには、presentationとrepresentationという対比は極めて自然なものであり、そこに、現前と再現前という意味合いを読み込むことは容易であり自然なことだろう。  事実、西洋哲学思想では、この両者の対比から、イデアとその写し、形相と質料、本質と現象、主体と客体、精神と物質などという二元論的な思考方法が生み出されてきた。そして、この二元論的思考方法は根強く生き残り、今でも西洋思想を支配している。 (注)presentationとrepresentationが、差異を保ちながらも、本質的には同じものの二つの現れであることから、この二元論は背後に一元論を抱え込んでいる。そのことを明確に示したのがヘーゲルである。「差異」と「同一」は差異であることにより同一なのだ。  70年代以降新しい哲学的潮流となっているポストモダニズムは、この二元論的思考を解体することを主要な目的としているが、そのことこそ、二元論的思考方法の根強さを証明している。そして、一部のポストモダニストたちが指摘しているとおり、この思考方法の根強さは、その言葉のあり方に基づいている。  一方、日本語には、このような二元論的な思考が定着するような言葉の対比が存在しない。花、生花、造花、これらは、花というpresentation、そのrepresentation、そのまたrepresentationだと言えなくもないが、こんなことを言っても、一部の哲学愛好家を除いては、全く意味のない駄弁だと笑われるだけだろう。事実、このような表現は言葉遊びに過ぎず、大した意味はない。 (注)西洋哲学は、西洋の言葉においてのみ、意味があると言ってもよいかもしれない。  私たちの思考方法は、言葉に強く影響される。無意識のうちに、言葉の形式から思考の形式が強制されることもある。バイリンガルの人は、話す言葉で考え方が変わると言われることがあるが、使用している言葉により思考が規制されるからだろう。  私たちが日頃感じている以上に、言葉は思考を強く支配するらしい。だから、人生や社会の在り方など哲学的な問題を考察するときには注意が必要だ。  その一方で、人間は自分の考えに固執しがちであるから、自分の思考を相対化するために母国語以外の言葉で考える習慣をつけるのは良いことだ。尤も、筆者のような語学音痴には、ちと無理なのが残念なところだが。 了
  • 日本列島の亜熱帯気候化

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    • 2017/12/13 10:53
    どうやら 真実のようだ
  • ☆ 話し言葉と書き言葉 ☆

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    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 話し言葉と書き言葉 ☆ 井出 薫  私たちは話し言葉と書き言葉をはっきり違うと考えている。  だが、次のような事例を考えると、どうなるだろうか。 ①普通に話しをする→話し言葉 ②無声で唇の動きだけ話し言葉を真似る ③手話あるいは身振り言語 ④一文字だけ書かれた板を次々と相手の前に提示する。たとえば、「あ」、「い」、「し」、「て」、「い」、「る」という板を次々と掲げる。 ⑤書物→書き言葉、文字の集合  このように、話し言葉と書き言葉の間には様々な中間的なニュアンスの言語形態がある。つまり話し言葉と書き言葉は断続した二項ではなく、連続して移行しあう言語形態の両端とでも言うべきものなのだ。  おそらく、人間の思想とか、言葉とかは連続的に変化していく。デカルト、ニュートン、ライプニッツ、ガウス、ダーウィン、アインシュタイン、フォン・ノイマン、こういう大天才が登場して、私たちの知を一新すると考えられている。だが、ニュートンとライプニッツが微積分学発見の優先権を巡って争ったように、偉大な思想が生まれるときには、必ず、先駆者がいて、優先権を争うライバルがいる。ニュートンもダーウィンも突然変異で生まれたのではなく、時代が成熟していく中で、歴史の象徴として召喚されることとなったのだ。  言葉の変化や文字の誕生の過程は、一つの連続的な過程で生じた出来事であり、そのような視点から語るべきだろう。しばしば取り上げられる「無文字社会」という概念自身がすでに一つの囚われた考え方なのかもしれない。 (H19/1/14記)
  • ☆ 内包論理 ☆

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    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 内包論理 ☆ 井出 薫  内包論理なる一風変わった論理がある。余り使われることはないが、人間の信念などに関わる論理や様相論理は内包論理になる。  説明のために、二つの命題を例にあげる。 命題1「中国の国家主席と日本の首相が10月8日に北京で会談を行なった」 命題2「山田さんは「中国の国家主席と日本の首相が10月8日に北京で会談を行なった」ことを知っている。」  山田さんは会談の事実を新聞やテレビのニュースで聞き、知っていたとすると、二つの命題はどちらも真になる。  ここで、二つの命題に含まれる二つの言葉、「中国の国家主席」と「日本の首相」を外延(言葉など記号が指し示す対象、この場合、中国の国家主席と日本の首相という二人の人物のこと)が等しい別の言葉で置き換えてみよう。「中国の国家主席=胡錦濤」、「日本の首相=安部晋三」だから、二つの命題は命題3、4のように変換される。 命題3「胡錦濤と安部晋三が10月8日に北京で会談を行なった」 命題4「山田さんは「胡錦濤と安部晋三が10月8日に北京で会談を行なった」ことを知っている。」  ここで、命題3は真であるが、命題4は真であるとは限らない。山田さんは報道で日本の首相と中国の国家主席が会談を行なったと聞いたが、中国の国家主席が誰であるか知らない可能性がある。日本の首相がまだ小泉さんだと思い込んでいる可能性もある。要するに、命題1と命題3のような普通の述語論理命題では、命題の一部要素を外延が等しい別の記号で置換しても真理値(真か偽)は変わらないが、命題2と命題4のような命題では、命題の一部を外延が等しい記号で置換したときに真理値が変わる可能性がある(真ではなくなる可能性がある)。  命題2と4のような論理を内包論理と呼ぶ。  様相論理学も内包論理になる。 命題1「「地球は月よりも大きい」は真理である」 命題2「「地球は月よりも大きい」は必然的な真理である」 命題3「「1+1=2」は真理である」 命題4「「1+1=2」は必然的な真理である」  ここで、命題1、3と4は真理であるが、命題2は真理とは言えない。地球が月よりも小さいということはありえることで、地球が月よりも大きいということは偶然的な真理に過ぎないからだ。  同じ真理値(この場合「真」)を持つ二つの命題「地球は月よりも大きい」と「1+1=2」を置換することで、真理値が変わることがありえるから、事実として真理、可能的な真理、必然的な真理、などという複数の真理概念を有する様相論理は内包論理となる。 (注)「真」、「偽」という真理値を「外延」つまり記号の指示対象だと考えることには違和感があるかもしれない。真や偽は、日本の首相や中国の国家主席のように、明確に指示できる具体的な物的対象ではない。しかし、現代の論理学では、真理値も記号の指示対象つまり外延の一つと考える。  私たちがコンピュータなどで使用している論理はほとんどが二値論理で、内包論理が登場することは少ない。-もちろん、コンピュータで内包論理を扱うことはできる。-こんな論理はややこしいだけで実用にはならないと言う人もいる。  しかしながら、私たちの知識の大部分は、「私は学校で、地球は月より大きいと教わった、他の人もそう言っているから多分間違いないはずだ」、「中国の主席は確か胡錦濤さんだったと記憶している」という類のもので、自分の知識の正しさを理路整然と疑いの余地なく証明できることは少ない。  また、私たちは、常日頃から、ある出来事が必然的な出来事であるか、偶然の出来事であるかを気にしている。自動車事故が飲酒運転による(ほぼ)必然的な帰結だったのか、不可抗力による偶発的な事故だったのかで、その責任は全く異なってくる。数学の真理は必然で、プレイオフで日本ハムが優勝したことは偶然の出来事だと考える。だからこそ「信じられない!」なのだ。  内包論理は複雑で、現代の科学技術では余り使用されることはない。しかし、人間と社会を理解する上では案外有用ではないかと考えられる。たまには、内包論理を勉強されるのもよいだろう。 (H18/10/15記)
  • ☆ 数学の不思議 ☆

    • 6
    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 数学の不思議 ☆  数学は最も確実な学問だと言われるが、どうも納得がいかないことが多い。自然や自然科学、科学技術にすごく興味があるのだが、数学が苦手なので諦めた、という御仁は少なくないだろう。  解析学でご厄介になる無限小というやつがよく分からない。無限小はゼロではない、だが、どんな数よりも小さい。う~ん、そんな数があるのだろうか?実際、イギリス経験論のバークレーは無限小などというものは無意味だと批判した。だが、この問題はロビンソンという頭のよい数学者が無限小を実在する数と同じように扱う手法-超準解析と呼ばれる-を開発したおかげで、肯定的に解決された。無限小は存在する。だが、超準解析が凡人には理解できないから、数学者や頭の凄くよい人以外には肯定的に解決されたと言えるかどうか疑問だ。  どうしても納得いかないのが仮言命題「pならばq」というやつだ。仮言命題は、pが真でqが偽の場合だけ偽になる。あとはすべて真だ。だから、pが偽のときは、qが真だろうが偽だろうが、仮言命題は真となる。  「日本と韓国は陸続きである、ならば、地球は月より小さい。」は真だ。だが、どうして、こんな命題が真になるのか全く理解不能だ。  しかし、こういう風になっていると非常に便利なのだ。数学体系が矛盾していないことの証明が簡単になるからだ。(説明を注に示す。ただし、数学が苦手な人は読まない方がよい。 )  他にも、特異点を含む積分、ヒルベルト空間など現実離れしたことが多く、数学は理解しがたい。理解しがたいのに現代人は数学を崇拝している。数学の天才こそ真の天才と考えている人が多い。数学の不思議とは現代人が数学を崇拝していることにある。 了  (注)一見したところ、矛盾していないことを証明することは凄く難しいように思える。次から次へと証明を続け、矛盾した命題が証明されないかどうかを確かめなくてはならないように思えるからだ。だが仮言命題の性質を利用すると、矛盾していないことの証明が簡単になる。pが偽ならば、「q」と「qでない」の両方が証明される。つまりすべての命題が証明されることになる。この事実の対偶をとれば、こうなる。「一つでも証明できない命題が存在することが証明できれば、数学体系は無矛盾である。」要するに一つでも証明できない命題を作ることができれば、その数学体系は無矛盾であることを証明されたことになる。 (H15/6/24記)
  • ☆ 奇跡 ☆

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    • 2017/12/13 10:06
    ☆ 奇跡 ☆ 井出 薫  「起こりえない」ことが起こったときに、人はそれを奇跡と呼ぶ。だが起こったのであれば、それは「起こりえない」ことではなかったことになる。だとすると、起こりえないことが起こるということを奇跡だと言うならば、それは矛盾だ。奇跡はありえない。  奇跡は論理を超えたところにあり、それはキリストの復活のような人智を超えた出来事にだけ適用される。そう考えることはできる。しかし日本人の「奇跡」という言葉の使い方は違う。サッカー日本代表がブラジル代表に10-0で勝利を収めたら、奇跡が起きたと日本人は大騒ぎをするだろう。しかし、この程度のことは、奇跡でもなんでもなく、こんなところで「奇跡」という言葉を使うのは、神にのみ適用される「奇跡」という概念を世俗的な出来事に適用する不遜極まりない振る舞いだということになる。  人々は、そんな厳格な意味合いで「奇跡」という言葉を使っているのではない。「起こりえないことが起きる」のではなく、「起きそうもないことが起きた」ときに、現代人はそれを奇跡と呼び、喜び、感謝しているだけなのだ。  だが、これは非常におかしなことではないか。起きそうもないかどうか、つまり確率が低いか高いかは人間的な基準で如何様にでも変わる。サッカー日本代表が2点差でブラジル代表に勝つ確率が1%だとして、それを限りなくゼロに近いとみるか、十分に可能性があるとみるかは、時と場合と人による。だから、有限の確率を持つ事象の発生を「奇跡」という言葉で表現するのは、論理的にも(信仰の篤い人にとっては)倫理的にも、適切なことではない。  「だが、そんな理屈を捏ねていたのでは、言葉を自由に使うことはできなくなる。」こう指摘されるだろう。そのとおりだ。だが、人がこういう言葉の使用方法に潜む矛盾を看過して暮らしていることを忘れない方がよい。権力者や報道の甘言に惑わされないためにも。 (H18/7/2記
  • ☆ 物理学の将来 ☆

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    • 2017/12/13 10:05
     一昨年、ヒッグス粒子が発見されて、素粒子の標準理論は揺るぎなく検証されたことになる。しかし、現在の標準理論には幾つかの不満足な点がある。電磁相互作用と弱い相互作用は統一されたが強い相互作用との統一は不完全であること、重力相互作用との統一が全く手付かずであること、任意のパラメータが多すぎること、階層性問題(電磁相互作用と弱い相互作用が統一されるエネルギーレベルと、これらの二つの相互作用と強い相互作用が統一されるエネルギーレベルが著しく乖離していることの理由が不明であること)、など多くの解決すべき課題が残されている。  そこで次に期待されているのが、超対称性理論だ。超対称性理論を、素粒子を紐と考える紐理論に応用した超弦理論は、森羅万象を説明し、宇宙の誕生から未来を説明する究極理論として期待されている。 (注)但し、究極理論が完成しても、私たちの身の回りの複雑な現象-その最たるものが生命現象-が説明できるようになるわけではない。この世界は、(少なくとも私たち人間の認識能力からすると)階層構造をなしており、素粒子や宇宙の謎を解く究極理論が完成しても、科学の謎が全て解ける訳ではなく、ほんの一分野の問題が解決されるに過ぎない。但し、だからと言って、究極理論の探究が無意味になる訳ではない  超対称性理論とは、光など相互作用を媒介するボーズ粒子と電子など物質を構成するフェルミ粒子との間の対称性を仮定する理論で、光や電子など既知の粒子には全て、そのパートナーと呼べる超対称性粒子が存在することを予言する。そして、ヒッグス粒子を発見したCERN(欧州原子核研究機構)の(現時点で世界最大の)素粒子加速器LHC(大型ハドロン衝突型加速器)では、次の目標として、超対称性粒子の発見が掲げられ研究が進められている。超対称性理論が正しければ、LHCのエネルギーレベルで超対称性粒子の発見が可能だと予測されている。  だが、今のところ、超対称性粒子発見の兆しはない。もし、LHCで超対称性粒子が発見されないと、超対称性理論の妥当性に疑問符が付き、次の研究段階へと進むことが難しくなる。LHCを超える巨大な素粒子加速器建設の計画を経済成長著しい中国が発表して、期待されているが、超対称性理論あるいはそれに代わる有力な理論が確立されないと、どの程度の規模の素粒子加速器を作れば良いのか見当が付かない。LHCを超えるエネルギー規模の素粒子加速器を建設したものの、何も新しい発見がないということにもなりかねない。そもそも巨大な加速器建設には莫大な資金(運転資金を含めると1兆円を超える規模)を要する。その投資は様々な場所に流れ、経済効果を生み出すが、それでも、霞を食うような素粒子論や宇宙論の研究のためではなく、もっと別の研究、人々の福祉に直接つながるような研究に資金を投じるべきだという意見は根強い。そして、それは尤もな意見でもある。従って、次世代の巨大加速器建設に人々の賛同を得るためには、確実な成果が期待できるものでなくてはならない。  20世紀初頭の量子論、相対論に始まる物理学革命は社会に巨大な影響を与え、日常生活と産業を一新した。しかし物理学の全分野ではないが(注)、素粒子論や宇宙論など基礎的な分野では、上で見てきたとおり、限界が見えてきているように思われる。超対称性粒子が発見できないようでは、究極理論の候補として期待されている超弦理論は数学的には素晴らしいものではあるが、理論的な予測を検証することが困難な、永遠の仮説で終る可能性がある。 (注)超伝導・超流動、ソフトマター、結晶・準結晶、さらには身のまわりの様々な物理現象、たとえば硬貨の回転運動などは、先にも述べたとおり、超弦理論のような基礎理論からは直接導出できず、現象論的な研究がメインとなる。その結果、これらを扱う物理学の分野では、まだまだ誰も解決していない無数の謎が存在する。そして、新たな謎が日々発見されている。そのことはいつの時代にも変わることはない。つまり、究極理論が発見されたとしても、物理学のほとんどの分野は依然として謎に満ちた状態に留まる。だから物理学が終わることはない。  このように、理論的にも、実験的にも、素粒子論や宇宙論など基礎的な理論物理学には限界が見えてきている。実験的な裏付けが困難になると、基礎的な理論物理学は、数学的整合性を競い合うだけのものとなる。しかし、そうなったら、それはもはや物理学ではない。ただの純粋数学になる。予測が実証されて初めてその正しさが認められる、それが本来の物理学の姿だからだ。果たして、物理学者は現状を乗り越え、実験的裏付けのある究極理論という新たなる物理学革命を準備することができるのであろうか。それは今のところ誰にも分かっていない。
  • ☆ 法と政治、憲法と現実 ☆

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    • 2017/12/13 10:05
    ☆ 法と政治、憲法と現実 ☆ 井出薫  政治が法を作り、法が政治を拘束する。これが法と政治の本来の在り方だ。しかし、日本では法と政治の間に大きな乖離があり、この原則から大きく逸脱している。集団的自衛権を巡る議論でも、この点を弁えた分析がなされておらず、言葉尻を捉えた不毛な論争に陥っている。  憲法第九条を普通に読めば、非武装中立が導かれる。第一項の戦争放棄だけではなく、戦力不保持と交戦権の否定が第二項に明記されているからだ。すなわち現行憲法は自衛隊と日米安保の存在を容認しない。ところが、歴代の自民党政権は、第一項は抵抗権を否定するものではないから、自衛のための戦力や自衛に必要となる他国との安全保障条約は違憲ではないという苦しい解釈で両者の存在を正当化してきた。しかし、あくまでも明文化された憲法を軸にして考える限り、この解釈には無理がある。況や集団的自衛権など、とんでもないということになる。  それでは自衛隊と日米安保を解散、解消すればよいのか。憲法上はそのとおりだが、そう簡単に話しは進まない。日本国民の多くは自衛隊と日米安保の存在を肯定的に評価しており、自衛隊解散、日米安保解消に賛同する者は少ない。その結果、憲法第九条の改正には否定的又は消極的だが、自衛隊と日米安保の必要性は肯定するという者が多くなっている。公明党が正にその典型と言ってもよい。しかし、この立場は上に示す通り矛盾がある。  この点、安倍首相など自民党タカ派の議論はある意味、一貫している。「自衛隊、日米安保を巡る法と政治的現実の矛盾を解消し、両者を十全に機能させるには憲法第九条の改正が欠かせない。ところが国民の多くが現実と憲法の矛盾に気が付いていない、又は、目を逸らしており、第九条の改正は容易ではない。だから、当座の戦略として憲法解釈の変更で集団的自衛権を正当化して対処する。」賛成するかしないかは別にして、この考えには一定の合理性がある。様々な状況を考えれば、自衛隊が専ら個別的自衛権の範囲で行動するだけでは対処できない場合も想定しうる。もちろん様々な状況に対して個別自衛権の解釈で対処可能という公明党の反論にも一理ある。しかし、それでは却って解釈が恣意的になり歯止めが掛からなくなる恐れがある。そもそも個別自衛権を拡大解釈していけば集団的自衛権を認めることと変わりがなくなる。寧ろ集団的自衛権を認めたうえで、法律で何ができるのか、何ができないのかを決めておく方が合理的だという考えもある。  法と政治的現実の矛盾を曖昧なままにして、日本はこれまで何とか辻褄を合わせてきた。しかし、そろそろ限界で、法と政治的現実を整合させるべきときが近づいていると思われる。当然、そこには二つの道がある。憲法を改正して自衛隊と日米安保を正式に認知する、つまり政治的現実に法を合わせる道と、憲法を堅持して、自衛隊と日米安保を解散、解消する道、この二つだ。  前者つまり現実に憲法を合わせる方がたやすい。平和外交を展開し、軍事費を一定範囲に抑制すれば、改憲に諸外国の理解が得られるだろう。徴兵制などが導入されない限りは国民生活への直接的な影響はさほど大きくない。それに対して、後者の道、憲法に現実を合わせることはたやすいことではない。超大国は平和を唱えながらいざというときには軍事力の行使を躊躇しない。尖閣はどうなるのか、力で他国に領土を支配されることはないのか、そういう不安は当然生じる。尖閣など大した問題ではないという意見もあるが、超大国に対して、その気になれば軍事力を背景にして領土、領海を拡大できると信じさせるべきではない。平和で公正な世界実現のためには超大国を制御する仕組みが欠かせないが、そのためにも簡単に領土を奪われるような愚を犯してはならない。それゆえ、憲法を堅持し、自衛隊と日米安保を解散、解消するためには、超大国の力を制御し平和な世界を構築する策と知恵がないとならない。しかし当然のことながら、容易ではない。  しかし、だからと言って、改憲の道を安易に選択するべきではない。上では「平和外交」、「軍事費抑制」などで諸外国の理解は得られ市民生活への影響も少ないと書いたが、第九条改正を梃子に軍備増強、全面的な武器輸出解禁などの動きが強まる可能性は低くない。戦争に巻き込まれ、あるいは国防の名の下に積極的に戦争を遂行し、多数の死傷者がでる危険性もある。改憲派の顔ぶれを見る限り、それを杞憂とは言えない。
  • 人間は

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    • 2017/12/13 10:05
    千差万別だ
  • ☆ 哲学的認識論 ☆

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    • 2017/12/13 10:05
    ☆ 哲学的認識論 ☆ 井出 薫  認知科学と哲学的認識論は異なる。前者は人間が事物や学問、社会的規則などを如何に認知し自分のものとするかを問題とするが、後者は正しい知識とは何か、それをどうすれば得られるかを問題とする。  両者の境界は必ずしも明確ではない。近代の哲学的認識論の創始者とも言えるカントは、正しい知識を得られる基礎として人類固有の生得観念に言及したり、感覚に与えられる多様で流動的な事物を統制する統覚という機能を想定したり、現代では認知科学で扱われる題材も議論している。同じことはヒュームやロックにも当てはまるし、ニーチェならばこのような区別は無意味だと言うだろう。  とは言っても、人はしばしば錯覚するし、間違った理論や情報を信じることは日常茶飯事だ。認知科学は、人がどのように事物や理論を認識しそれに従った行動を取るようになるかを研究課題とするのであり、そこで生じた信念や習慣の真偽や善悪を問題とすることはない。それに対して哲学的認識論はあくまでも真(あるいは善)なる知識とは何か、それは如何にすれば得られるのかを問題とする。それゆえ哲学的認識論は認知科学に還元されない固有の研究領域を有している。  正しい知識の源泉を何に求めるかにより、哲学的認識論は幾つかの立場に分かれる。知識の源泉は人間とは独立した客観的な自然の中にあるというのが一つの立場で、唯物論や実証主義の一部がそれに属する。また人間精神にこそその源泉があるという立場があり観念論、反実在論などが属する。また知識の正当性は社会で決まるという考えもあり、プラグマティズムや後期ウィトゲンシュタインをこの立場に属するとみることができる。  どの立場が正しいか決めることはできない。いずれの立場も一定の有効性と限界を有する。自然科学は客観的な自然に強く制約される。だが量子論の定式化に様々な様式があること(行列力学と波動力学、正準量子化と経路積分など)、様々な階層で自然を理解する必要があること(素粒子・場、原子分子、細胞、生物個体、太陽系、銀河、全宇宙など)、人は自然に単純さと複雑さの両面を見る必要があることなどから、正しい知識の源泉を専ら客観的自然に求めることはできない。さらに社会現象や倫理に関わる問題は自然に答えを求めるわけにはいかない。  人間の認識は常に人間精神の在り方に依存する。人間精神を個人の主観的なもの(カント)と捉えるにしろ、歴史と社会が共有する客観的なもの(ヘーゲル)と捉えるにしろ、知識とは常に社会において意味を持ち、それを各個人の精神が分有する。それゆえ、知識の妥当性とその獲得過程は精神の在り方に強く拘束される。しかしながら、精神だけでは何も生まれない。精神とは有機物質の運動の所産に過ぎないという考えもある。精神の役割を強調する立場は認識活動における人間の能動性を正しく指摘する点で有益だが、それだけでは哲学的認識論の諸問題を解決することはできない。  認識の社会性を強調する立場は20世紀以降有力になる。前の二つの立場が真(あるいは善)の絶対的な基盤を求めるのに対して、この立場はより柔軟で、認識活動が社会的活動の一部であるという正しい理解の下で、認識活動の全般的な構造とそれが正当化される過程を事実に即して現実的に記述し分析する道を拓いた。しかし、この立場も全能ではない。この立場は注意しないと極端な相対主義に陥ることがある。たとえば「正しい認識とは要するに多数意見のこと」、「正しい認識とは個人と状況により異なる」などという見解がしばしば表明される。しかしこれでは哲学的認識論は単に多数派工作か個人の恣意の無制限な正当化に堕してしまう。認識の社会性を中心としながらも、認識の正当性や獲得過程における自然や人間精神の重要性を忘れることはできない。
  • ☆ シアノバクテリア ☆

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    • 2017/12/13 10:04
    ☆ シアノバクテリア ☆ 井出 薫  シアノバクテリア(藍藻と呼ばれることもある)をご存知だろうか。細菌とともに、原核生物に分類される地球に最も古くから生存している微生物の一種だ。 (注)地球の生物は、大きく分けて、核膜に遺伝子が取り囲まれている真核生物と、核膜がない原核生物からなる。人を含めた動物、植物、菌類、原生生物はすべて真核生物で、細菌とシアノバクテリアが原核生物である。原核生物は38億年以上前から地球上に存在していたと言われる。それに対して真核生物が登場したのはずっと遅く20億年前くらいと推定されている。真核生物の起源は諸説があるが、細菌とシアノバクテリアが別の細菌の細胞内に共生したことから始まったという説(細胞共生説)が有力である。  46億年前地球が誕生した当時、大気中に酸素は存在しなかった。およそ30数億年前にシアノバクテリアの祖先が地球に登場して、酸素発生型の光合成をするようになって初めて地球大気に酸素が存在するようになった。シアノバクテリアは人間を始めとする高等?生物の恩人なのだ。  シアノバクテリアの仲間には、太陽光と大気中の二酸化炭素から生命活動に必要な有機化合物を作り出すことができるだけではなく、空気中の窒素からアンモニアなど窒素化合物を作り出す(窒素固定と呼ばれる)ことができるものもいる。  地球上の生態系を支えるのは植物、微小な藻類・原生生物、独立栄養原核生物など第一次生産者たちだが、陸上で主役を務める植物、海洋で主役を務める藻類や原生生物は、太陽光と二酸化炭素から光合成することはできるが、空気中の窒素から窒素化合物を作り出すことはできない。土地の肥沃度が、しばしば土壌に含まれるアンモニアや硝酸など窒素化合物の量で決まるのはそのためだ。窒素化合物が乏しい土壌では窒素固定能力のある細菌と共生しているマメ科の植物以外は十分に繁殖できない。最もよく使用される肥料が窒素肥料であるのは誰でもご存知だろう。  海洋や湖沼など水域でも事情は同じで、生物量を決める最も重要な条件は窒素化合物の量だ。  だから、光合成と窒素固定の両方ができるシアノバクテリアが、生態系で重要な役割を果していることは容易に想像できるだろう。遥か昔、酸素を生み出し地球上で高等生物が繁殖できる環境を整え、今でも、海洋と陸地を問わず様々な場所で生態系を維持するために大きな働きをしている。  その強靭な生命力を発揮して、普段は肉眼で見えず目立たない存在に過ぎないシアノバクテリアが、突然、生態系の主人公に踊り出ることがある。  アラビア半島とアフリカ北東部を隔てる「紅海」は、海が赤く染まることから名づけられたそうだが、海を赤く染めているのはシアノバクテリアの一種で窒素固定能力を持つトリコデスミウムの集団だ。生活廃水が流れ込むことなく水の澄んだ貧栄養環境の外洋では窒素化合物が極端に欠乏することが多い。そこでは、窒素固定能力を持つシアノバクテリアが生態系の唯一の支配者になる。  春から夏にかけて、都会の池が毒々しい緑に染まることがあるが、あれもアナベナなどシアノバクテリアの仲間が大量発生したものだ。ただし、生活廃水が大量に流れ込み富栄養化している湖沼で、シアノバクテリアが大量発生するメカニズムは紅海とは異なる。生活廃水に豊富に含まれる窒素化合物やリン化合物は、光合成をする全ての微生物の大繁殖を促すのだが、藻類と較べて捕食されにくいシアノバクテリアが生態系を占有するらしい。  いずれにしろ、シアノバクテリアは、有機物の乏しい環境から、過剰な有機物が存在する場所まで満遍なく存在して、生態系を維持している。紅海はシアノバクテリアがいなければ死の海となる。富栄養化した湖沼で大発生するシアノバクテリアは毒を発生して、魚や動物、さらには人間にも害を及ぼすが、生活廃水に汚染された湖沼を浄化する自然の働きの一翼を荷っている。  春のひととき、湖や河川の脇の遊歩道を散歩しながら、自然の営みを支えるこの偉大なる存在に思いを馳せても良いだろう。 (H16/3/31記)
  • ☆ リベラルの行く末 ☆

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    • 2017/12/13 06:45
    ☆ リベラルの行く末 ☆ 井出薫  従軍慰安婦と福島原発事故の吉田調書を巡る朝日新聞の誤報が波紋を呼んでいる。歴史的、社会的に重要な事件であり、朝日は責任を免れない。朝日の姿勢を批判した池上の記事の掲載を拒否したことも重大な問題だろう。  しかし、鬼の首を取ったかのように朝日を攻撃し、従軍慰安婦問題で日本には非がないかの如く論じ、朝日が日本の信頼を傷つけたと言い立てる一部の保守派の言論は明らかに間違っている。強制連行の証拠がなかったとしても、従軍慰安婦の存在は紛れもない事実だ。敵国の軍隊の慰安婦を務めなくてはならなかった女性たちにとって、それは屈辱以外の何者でもなかったはずだ。強制連行の証拠があるか否かに関わりなく、日本には重い責任がある。日本の信頼を傷つけたのは朝日ではなく、戦前の日本の誤った政策だ。朝日をひたすら攻撃している者たちはそのことを理解していないか、隠している。  吉田調書について言えば、原発事故という極限状態の中、事故拡大を防ぐために命がけで奮闘した現場作業員たちを侮辱した朝日の罪は重い。しかし、朝日が事故を引き起こし訳でも、事故処理が遅々として進まない原因になっている訳でもない。ここでも、朝日を叩くことで、一部の保守派は、根拠に乏しい原発の安全神話をばら撒き、後処理が遅れていることの責任を有耶無耶にしようとしている。  いずれにしろ、朝日の誤報と、日本の戦争責任、原発事故の責任とは全く別の次元の話しであるにも拘らず、それに気付かずあるいは意図的に混同しようとしている者たちの言動には警戒が欠かせない。物事の本質を見極めたうえでの健全な批判は社会を良くする原動力になる。しかし朝日を執拗に攻撃する者たちの言動はそういうものからほど遠い。  しかし、その一方で、朝日の姿勢に問題が多いことも見逃せない。そして、それは、かつて朝日岩波文化人などと称された戦後日本のリベラル、革新に共通する欠点でもある。前世紀の60年代から70年代初めに掛けて中国では文化大革命の嵐が吹き荒れた。今でこそ、それは理想の共産主義社会を目指すものではなく、権力闘争であり、不毛な権力闘争のために中国の発展が10年以上遅れ、しかも夥しい数の犠牲者を生んだことは周知の事実となっている。しかし、当時の朝日は、四人組を筆頭とする文化大革命派の発表を鵜呑みにし、文化大革命を理想社会の実現を目指す運動として称賛した。そして、多くの革新、リベラルの文化人たちがそれに同調し文化大革命の中国を好意的に論評した。こういう事実とその背後にあるメンタリティーを反省することなく継承してきたことが今回の誤報に繋がっている。  リベラルは、戦前の日本を厳しく批判し、日本人に反省を促す。そのこと自体は(保守派からは異論があるだろうが)間違った行動ではない。日本を愛することと日本を賛美することとは違う。日本を批判することと日本を嫌うこととは違う。愛するからこそ批判しないといけないことがある。日本を世界の人々から信頼される国にするためには、日本の誤り、悪い点は自ら正していかないとならない。「日本は素晴らしい」、「日本人にはとてつもない力がある」などと言っているだけでは少しも良くならない。しかし、批判し、人々に反省を促すためには、とことん真実を追及し、常に自分の思想や信念が正しいかどうかを点検することが求められる。たとえ自分の思想信条にとって都合が悪いことでも、それが事実であれば受け容れ、自分に都合が良い話しでも安易に信じることをせずにしっかりと検証する。こういう姿勢が欠かせない。だがリベラル、革新は、「自民党、米国、資本主義、戦前の日本、保守、改憲、原発推進」=悪、「リベラル・革新、反米、社会主義・共産主義、戦後民主主義、革新、護憲、原発反対」=善、こういった類の単純な二項図式にずっと囚われてきた。そして、今もその図式から完全には免れていない。そのために、あらゆる出来事がこの二分法の中で安直に評価され、善に分類されることは肯定され、悪に分類されることは否定される。意見を異にする保守との対話の道は閉ざされ、健全な懐疑と批判精神、実証的精神が育まれる機会を失う。だから過ちを犯しても気が付かない。文化大革命の本質を適切に評価できなかったことがその典型例だったと言える。
  • ☆ 哲学の課題 ☆

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    • 2017/12/13 06:44
    ☆ 哲学の課題 ☆  「黄色」を定義することはできない。  「550から580nmの波長の電磁波が視覚細胞に入射したときに私たちが感じる色を黄色と言う。」これは定義になっているだろうか。生まれたときから目の見えない人に、こう説明しても「黄色」を理解しないだろう。ただ、「黄色」という言葉の使い方を理解するだけだ。日本語を知らないアメリカ人に、英語表現で説明しても、物理学や色彩に関して知識ある人でないかぎり、これを理解できない。理解したとしても、「イエロー」を知っているから理解できるのであり、問題が「黄色」から「イエロー」へと移り変わるだけだ。他のどのような定義も上手くいかない。「黄色」は定義できない。  こんなことを論じてなんの役に立つのだと訝しく思う人がいるだろう。バートランド・ラッセルやカール・ポパーがそうだった。彼らからみると、ウィトゲンシュタインはこんな役に立たないことばかりを論じていると思われた。ウィトゲンシュタインは、「哲学にはまともな問題などない。哲学とは言葉の使用の実相を理解していないために生じる混乱した思考でしかない。哲学の課題とは、言葉の使用を注意深く観察して、言葉の使用の誤解に基づく思考の混乱を正すことだ。」と断言する。ポパーとラッセルはこれに激怒する。社会の問題、人生の問題など、哲学が取り組むべき重大な課題がある。言葉の使用を細々と分析して何になるのだ、哲学は言葉の分析を超えたもっと重要な問題と取り組む。これがラッセルとポパーの見解だった。  ウィトゲンシュタインを専らこんな瑣末な問題に関わるばかりで、人生の問題、社会の問題に無関心な人間だったと勘違いしてはならない。第一次世界大戦のとき、ウィトゲンシュタイン家の膨大な財産と社会的影響力を行使すれば、兵役を容易に免れることができるにも拘わらず、ウィトゲンシュタインは志願して戦場に出かけ危険な任務を遂行した。戦後捕虜にもなっている。第二次大戦中は、イギリスの病院で勤労奉仕をしている。どうしようもないエゴイストで傲慢な人間だったが、ウィトゲンシュタインほど人生の問題と真摯に取り組み、苦悩した人は少ない。ウィトゲンシュタインは決して象牙の塔で自己満足に浸るような人間ではなかった。  ウィトゲンシュタインは、ただ、人生の問題や社会の問題は哲学的に論じることを拒否しただけだ。「人生や社会の問題を哲学的に語ることは不可能」これがウィトゲンシュタインの診断だ。ウィトゲンシュタインはこのことを繰り返し、学生や哲学者たちに説いた。だが、ラッセルやポパーは頑として、同意することを拒んだ。  マルクスは、理論的にも、実践的にも、ウィトゲンシュタインとは対極にある思想家だが、やはり、社会の問題や人生の問題を哲学の課題であると考えることを拒絶する。マルクスは、哲学はヘーゲルで終わったと宣言する。そして、哲学を捨てて、革命という実践と自然科学のように精密で客観的な科学としての経済学・歴史学を確立しようと試みた。そして、二つとも失敗に終わった。マルクスを神のごとく崇める政権が20世紀になると多数登場したが、ほとんどが独裁国家であり、20世紀の終りまでに崩壊するか、中国のように共産主義の原則を棚上げして市場経済へと転回することで辛うじて生き延びた。  ウィトゲンシュタインは、哲学の内部に留まり、内部から哲学を一掃しようとした。そして失敗した。「私の人生は素晴らしかった。」これがウィトゲンシュタインの遺言だ。だが、ウィトゲンシュタインが満足して死んだとは思えない。  マルクスが20世紀に生きていたら、ラッセルやポパーを「頭の中で社会の改造ができると空想する観念論者、ブルジョアイデオローグ」と判定しただろう。一方、ウィトゲンシュタインは「貴族的・反動的な人物であるが、ブルジョアイデオロギーを解体するために重要な仕事をした」と評価するだろう。イギリスのマルクス主義者テリー・イーグルトンはウィトゲンシュタインの仕事を高く評価している。  マルクスやウィトゲンシュタインが正しいのか。それとも、ポパーやラッセルが正しいのだろうか。
  • ☆ ウィトゲンシュタイン ☆

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    • 2017/12/13 06:43
    ☆ ウィトゲンシュタイン ☆  ウィーン出身でイギリスを中心に活躍した哲学者ウィトゲンシュタインに印象深い言葉がある。  「語りえぬことには沈黙しなければならない」(「論考」)  「考えるな、見よ。」(「哲学的探究」)  ウィトゲンシュタインは、ハイデガーと並び、20世紀を代表する哲学者であると言われる。この評価が妥当なものであるかどうかは別として、ウィトゲンシュタインほど、人間が陥りがちな誤解と錯覚を鋭く指摘した思想家はいない。この二つの言葉は、ウィトゲンシュタインの哲学の真骨頂を示すものである。  この言葉を理解するには、ウィトゲンシュタインの哲学全体を見渡すことが必要である。しかし、簡単に言えばこういうことである。  最初の言葉は、人間が、明確に語ることができることと、語ることができないこととを混同しがちであることを指摘する。  「平成15年元旦の東京都の夜明けは何時か。」という問いと、「善い人間とは何か。」という問いを較べてみよう。前者の問いと答えは明確に語ることができる。理科年表(丸善)によると6時15分である。  だが、後者の問いと答えは明確には語りえない。マザー・テレサは20世紀最高の聖人であると褒め称えられている。しかし、マザーが頑なに人工中絶反対を主張するとき、それに賛同する人は少ない。現代的な医療に否定的なマザーが、自分の遣り方に固執して、病人が近代的な治療を受ける機会を妨げたと批判する医者もいる。誰が善人で、何が善であるか、誰もが納得するような形で明確に語ることはできない。マザー・テレサが聖人であることに皆が合意したとしよう。それでも、「マザー・テレサのような人」、「マザー・テレサのような行い」が何であるかを明確に語ることはできない。  夜明けの時刻に関する問題と、善に関する問題では、性格が全く異なる。それにも拘わらず、人は、しばしば、両者を混同する。そして、「善は何であるか」という問いを自然科学的な探究方法で解明できると錯覚する。ウィトゲンシュタインは、最初の言葉でそれを指摘している。  「考えるな、みよ。」この言葉は、人が固定観念に囚われて、軽率な判断をしがちであることを警告する。  「政府は労働者のストライキを弾圧した。彼らが共産主義者だからだ。」この言葉を目にしたとき、資本主義社会で生活する者は、「共産主義=反体制運動」という図式に囚われて、「彼ら」を弾圧された労働者と考える傾向にある。つまり、この言葉を「政府は労働者のストライキを弾圧した。労働者達が共産主義者だからだ。」と読みがちである。一方、嘗てのソ連・東欧の共産圏で政府に抑圧されていた人々は、この言葉の「彼ら」を政府の要人たちと判断する傾向が強いだろう。すると「政府は労働者のストライキを弾圧した。政府の要人達は共産主義者だからだ。」と読まれることになる。  この言葉だけでは、「彼ら」がストライキを実行した労働者を意味するのか、労働者を弾圧した政府要人を意味するのか決定することはできない。しかし、私たちは自分が属する社会の常識や伝統に囚われて、言葉をよく見ること、よく聴くことを忘れてしまう。そして、「彼ら」を「労働者」あるいは「政府要人」であると断定してしまう。ウィトゲンシュタインの第二の言葉はそのことを警告している。  こればかりの説明で、ウィトゲンシュタイン思想の全貌を語ることができるわけではない。ここで掲げた言葉の意味を解明したことにもならない。興味のある人は、ウィトゲンシュタインの著作や解説書を読んでもらいたい。  ウィトゲンシュタインの哲学は、「論考」を書いた若き時代と、それ以降とでは大きく変化している。また、「論考」以外の著作はすべて、彼の死後、弟子達が遺稿を編集したものである。そのために、彼の哲学的著作は、テーマが一貫しておらず読解は容易ではない。  しかし、このことだけは確かである。「ウィトゲンシュタインほど、言葉を使用する人間が陥りがちな思考の混乱とその原因を深く探究した人はいない。」  私は、哲学の真のそして唯一無二の任務はここにあると考えている。私にとって、ウィトゲンシュタインは、伝統的な哲学の解体を試みた者であるとともに、真の哲学者である。ソクラテスがそうであるように。 (H14/12記)
  • ☆ 無限集合 ☆

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    • 2017/12/13 06:43
    ☆ 無限集合 ☆ 井出 薫  無限集合には色々な種類がある。自然数、有理数(Q/P;QとPは整数)、実数、複素数、みな無限集合だ。では無限集合の大きさ(濃度と呼ぶ)を測ることができるだろうか。  できる。1対1に対応させることができるかどうかで濃度を比較する。有理数は自然数よりもずっとたくさんあるように見えるが、自然数と1対1対応させることができるから、濃度は等しい。有理数を表現するQとPを並べて、マイナスの場合は最上位桁に1をつけるようにすれば自然数となるから1対1対応がつく。正の偶数は自然数の半分しかないようにみえるが、自然数と同じ濃度を持つ。偶数をすべて2で割りそれを並べていけば自然数になるからだ。明らかに個数が違うと思われる集合の濃度が等しいというのは不思議に感じるかもしれないが、自然数が10進法でも2進法でも、何進法でも表現できることを考えれば不思議ではない。2進法で表現された数は、10進法で表現された数のうち、1と0の2種類だけで表現された数の集合(=10進法で表現された数の部分集合)だと考えることもできるが、10進法で表現しようと、2進法で表現しようと自然数の数は変わらない。 (注)筆者がここで与えた有理数と自然数が同じ濃度を持つことの説明は、数学の教科書に記載されている標準的なものではなく、厳密なものでもない。厳密な証明を知りたい人は数学の本を読んでいただきたい。  では、すべての無限集合は自然数と同じ濃度を持つかというと、そうではない。自然数と同じ濃度を持つ無限集合を、番号順に並べられるという意味で可附番(あるいは可算)と呼ぶが、すべての無限集合が可附番ではない。  実数の集合は自然数と1対1に対応させることはできない。たとえば0以上1以下の実数の集合を順番に並べて番号を付ける方法を考えると、それが不可能であることが分かる。番号順に並べることができたとして、1番目の数と1桁目が違い、2番目の数と2桁目が違い、3番目の数と3桁目が違い、・・n番目の数とn桁目が違う(これを無限に続ける)・・こういう風にして作った実数は、この表に記載されている実数と、少なくとも一箇所は一致しない桁がある。つまり、この数は表の中には登場しない。この数を表に付け加えても同じ方法で表には存在しない実数を作り出せるから、どこまで行っても番号順の表は完成しない。だから、0以上1以下の実数の集合は可附番ではない。もちろん、すべての実数の集合が可附番ではないことは言うまでもない。 (注)0以上1以下の実数の集合とすべての実数の集合は同じ濃度を持つ。証明は省略するが、長さ1の線を無限に引き伸ばすところを想像すれば、このことは理解されよう。  実数の濃度は連続体と呼ばれるが、0から1まで引かれた線を実数の集合が隙間なく埋めていることを想像すると、連続体という言葉の意味が分かるだろう。「線は点の集合だと言うが、長さのない点が集まってどうやって長さを持つ線が生まれるのか」というのは古代ギリシャの難問の一つだったが、実数の濃度が連続体であることで一応解決されたと言ってよい。 (注)ルベーグ積分などで使用される測度という概念があるが、それは実数などの無限集合の研究が応用されたものだ。自然数の集合は測度0であるが、0以上1以下の実数の集合は測度1になる。  無理数や複素数の集合も、実数の集合と同じ濃度を持つ。では連続体が一番大きな無限集合の濃度なのだろうか。そうではない。どんな濃度を選んでも、それよりも大きな濃度の集合が存在する。特定の無限集合のすべての部分集合の集合は、元の集合と1対1に対応させることはできず、濃度がより大きい集合になる。無限集合はどこまでも巨大になることができるのだ。  では、実数に代表される連続体と自然数に代表される可附番との間に位置する濃度の集合は存在するだろうか。存在しないというのが「連続体仮説」で、一時期それが正しいかどうかが盛んに研究された。その結果、どちらとも言えないということが証明されている。自然数よりもたくさんあり、実数よりも少ないような集合は、あるとも、ないとも言えるのだ。正確に言うと「数論の公理体系からは、連続体仮説は証明も反証もできない」ことが証明されたのだ。 (注)ただし、証明はできないが、連続体仮説は正しいと考える数学者が多い。中間に位置するような意味ある集合を考えることはできない。  数学と現実の世界との間の関係はどうなっているのか、数学の真理とはどの世界の真理なのだろうか。こういう問題は古代ギリシャの時代から多くの賢人達を悩ませてきたが、未だに結論が出ていない。
  • ☆ 哲学者の世界と科学者の世界 ☆

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    • 2017/12/13 06:42
    ☆ 哲学者の世界と科学者の世界 ☆ 井出 薫  科学者は全体を部分に分解して世界を描き出す。物理学は素粒子に、化学は原子分子に、生物学は遺伝子や細胞に分解する。しかし、人は他人を素粒子や細胞の集合だと考えることはない。ある女性をみて美しいと感じるとき、人はその女性の細胞組織や素粒子の結合を思い浮かべているのではない。哲学者は世界を分解するのではなく、この人間のありのままの感性から始めるべきだと語りかける。  科学者は質を捨象する。物理学者にとって、人間と岩石は素粒子の集合状態の違いに過ぎず、その差は量的で数学的なものでしかない。生物学者は人間もアメーバも同じ塩基からなる遺伝子で種の保存を図っていることを発見し、人間とアメーバの差はやはり量的で数学的なものでしかないことを明らかにする。一方、哲学者は生物と無生物、人間とアメーバ、私と貴方の違いは決定的なものであることを示そうとする。  私たちが暮らす世界はどちらかと言えば哲学者が語る全体的で質的な世界に近い。哲学は無意味な学問、難解な学問と言われることが多いが、実際は常識の世界に拘り続けるのが哲学だ。一方、科学が語る世界は、科学技術の目覚しい発展と自らの生存基盤を危うくするほどの産業の拡大を通じて、その真理性を明らかにする。だが哲学の真理性と異なり科学の真理性は直接的なものではない。  現代人は科学を崇拝して、科学こそ真理の源泉だと信じ込んでいる。「非科学的」という言葉は現代では「正しくない」と言うに等しい。だが科学は真理の一部を表現しているに過ぎない。倫理や美の問題はけっして科学で解決されるものではない。  もとより現代文明は哲学ではなく科学に基礎付けられている。だから人々が科学を信奉するのも無理はない。だが科学が真理のすべてではなく、哲学が科学と同等あるいはそれ以上に世界の真理を表現していることも忘れてはならない。
  • 芸術というのは

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    • 2017/12/13 06:42
    金持ちで暇人が享受する 特権である。 精神の遊び。
  • ☆ ベンサム ☆

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    • 2017/12/13 06:41
    ☆ ベンサム ☆ 井出 薫  書店の西洋哲学書のコーナーに行くと目立つのが、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガーの5人だ。これに、ウィトゲンシュタインとフーコーを加えて7人と言ってもよいかもしれない。たが、彼らに優るとも劣らぬ重要な哲学者でありながら、人気のない者がいる。その代表格がジェレミー・ベンサム(1748-1832年)だ。ミルという優れた後継者がいたからこそという面はあるにしても、ベンサムはカントやヘーゲルよりも遥かに大きな影響を現代社会に与えている。ところが、ベンサムは日本では人気がないらしく、翻訳書や解説書は少ない。名前すら「ベンサム」に統一されておらず、「ベンタム」と記載されることもある。ベンサムが日本で人気がない理由は色々と想像できる。ベンサムの思想は「最大多数の最大幸福」で代表されるように快楽的、世俗的であり、カントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論のような深遠さや重厚さに欠けると思われている。また、ベンサムが提唱したパノプティコン(一望監視施設)は現代世界の暗黒面(=テクノロジーの発達を背景とする非人道的な管理社会)を象徴する存在として取り上げられ批判されている。俗物的かつ反動的な思想家。ベンサムにはこういう悪評が付き纏う。だが、これは極めて偏った誤った評価だと言わなくてはならない。  ベンサムに始まりミルが発展させた功利主義は現代人の常識になっている。正義を社会体制の土台に据えようとするロールズの「正義論」では、功利主義は批判の矢面に立たされる。だが理論的に幾ら功利主義を批判しても、現代人の生活や行動は極めて功利主義的であり、しかもそれは必ずしも悪いことではない。たとえば崖崩れで家屋が二軒倒壊して下敷きになった者がいるとしよう。手が足らず救助隊は二手に分かれて救助活動をすることができない。二軒ともすぐに救出しないと命が危ないと分かっている。しかし、どちらかを優先しなくてはならない。どうすればよいか。答えはより被害者が多い方を優先するというものになる。片方の家には1名、もう片方には10名が救助を待っているとしたら、まず10名の方から救助活動を行う。その結果、残り1名の命を救うことができなくても、救助隊を非難する者はいない。逆に1名の者を先に助けた結果、10名が死亡したら、救助隊は批判される。特にその1名が政府要人で、10名が無名の労働者だったとしたら、人々は不公平だと強く抗議するだろう。つまり功利主義的な考えや行動は現代人の常識であり、またそれは領主の命が一般庶民のそれよりも尊いとされる封建社会が過去のものとなり民主社会へと移行したことを象徴している。更に、現代経済学には功利主義が導入されている。自由な市場は資源の最適配分をもたらすと現代経済学は教える。これは単なる数学的モデルの帰結ではない。そこには明らかに道徳的なニュアンスがある。「だから自由な市場は優れている。規制は必要最小限にするべきだ。」というメッセージがそこには含まれている。また経済政策論で多用される費用便益分析は明らかに功利主義的な発想に基づいている。
  • ☆ フレーム問題 ☆

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    • 2017/12/13 06:41
    ☆ フレーム問題 ☆ 井出 薫  人間並みに任意の状況に対応できる柔軟なコンピュータを実現しようとするとき、私たちの前に立ちはだかる壁がフレーム問題だ。  井出が駅に向かって歩いている。寝坊して会社に遅刻しそうだ。そこに、友人の里見がやって来て、「井出、久しぶり、元気」と声を掛ける。井出はどうするか。おそらく、「よう、元気、悪い、先を急いでいる、夕方電話するよ。」とでも返答して、駅に向かって急ぐだろう。  友人に対して愛想をとりながら、遅刻せず出社するための適切な措置を講じる、ここがポイントだ。このようなことをコンピュータやロボットにやらせることは極めて困難だ。課題が、友人への適切な対応と会社に遅刻しないという二つの条件だけならば、問題解決のプログラムを書くことは容易だ。しかし、人が道を歩いているとき、解決しなくてはならないことは無数にある。信号が赤のときは青になるまで待つ、水溜りがあればそれを避ける、人が倒れていれば声を掛ける、電車に遅れそうなときには時間を確認する、など無数の課題が存在する。  さらに、ある事象が発生したときに、適切な応対をどうやって決定するかという問題がある。私たちは知識を活用する。だが、知識も無数にある。「里見は友人だ。」、「友人には愛想よくするものだ。」、「出社時間には遅れてはならない。」、「里見は運転しない。」、「日本の首相は小泉さんだ。」など枚挙の暇がない。このうち、最初の三つの知識は問題解決に関係するが、後の二つは無関係だ。その他、この状況には無関係な無数の知識がある。ここで、どうやって、最初の三つは関係があり、後は無関係と分かるのか。問題解決に関連した知識の枠(フレーム)をどのように決めればよいのか、これがフレーム問題だ。  果たすべき課題が少数で、私たちの知識も少数なら、フレーム問題は苦もなく解決される。だが、人間が現実に暮らす世界には無数の課題があり、私たちは無数の知識を持つ。このような状況で、フレーム問題を解決して、適切な対応を取るためにはどうすればよいのか。どのようなマシンで、どのようなプログラムを書けばよいのか、これが実に困難な問題だ。  この問題は解決されていない。解決される見込みもない。お陰で、現在のコンピュータはごく限られた課題しか扱えない。コンピュータ制御のロボットはごく限られたことしかできない。  アトムやHALのようなロボットはフレーム問題を解決している。どうやって?もちろん、誰にも答えられない。  アルゴリズムを見出し、それに従いプラグラムを書き実行させるという現在のコンピュータ技術では、アトムやHALは実現できないと私は予想する。  だが、「人間だって、アルゴリズムに従い思考して行動している。人間ができることをコンピュータやロボットが実行できないはずがない。」こういう考え方が人工知能論では依然として根強い。計算主義と呼ばれる立場がその急先鋒だ。言語学者で体制批判の著名な評論家であるチョムスキーなどもその一人だ。  私は、これはドクマに過ぎないと考える。自然は数学という言葉で書かれているというドクマだ。  自然も人間も、数学という言葉で書かれているのではない。数学は、自然と人間を合理的に把握するために、人間が作り出した(非常に強力な)道具に過ぎない。しかし、それが世界を覆い尽くすことはない。このように考えたからと言って、霊魂など物質に還元されない神秘的な存在を想定しなくてはならなくなるわけではない。  では、人間はどうやって無数の課題を適切に処理することができるのか。おそらく、問題の認識⇒問題解決という図式で人間の行動と思考を捉えたのでは、謎は解けない。人間は数理論理学的シミュレーションではない。フレーム問題は疑似問題だ。  人間は自然現象だという当たり前の事実に、謎を解く鍵がある。 (H15/4/18記)
  • ボランティアの人って

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    • 2017/12/12 20:36
    えらいな りっぱだな
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