検索結果 スレッド コメント 最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 世界の株価指数、金利> 日経平均株価 「この悲惨な出来事は、わたしの… 岸信介理想二大政党政治へ 2024/10/13 21:29 「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」 バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。彼の周りを数十人の村民が囲み、聞き入っていた。 バラスさんが証言したのは、東部パプアニューギニアのセピック川流域のマラハオ村での集会だった。パプアの山間部の人たちは、半世紀前までカレンダーを気にしない暮らしをしていたため、正確な日付はわからないが、彼の母親が悲惨な死を遂げたのは、戦況などから1944年から45年にかけてだろう。 「家族が日本兵に切り殺されて飯ごうでゆでられ、あげくに食べられた」という証言は、バラスさんだけではなく複数の人から聞かされた。 42年3月以降、東部パプアニューギニアは日本兵とアメリカ・オーストラリア連合軍の戦場となった。日本軍は制海空権を失い、食料補給路を断たれて孤立。44年8月の「アイタぺの決戦」の敗退から1年後の敗戦まで、日本軍はトリセリ山系とプリンス・アレキサンダー山系の南側の山間部に立てこもり、食料を自給しながらの戦いを強いられた。東部ニューギニアに上陸した日本軍16万人中、帰還したのは1万人ほど。兵の消耗率は約94%にのぼった。日本軍によるパプアの人々の悲劇の大半は、この1年間に起こったという。 日本軍の帰還兵の証言に、極度の飢餓状態で日本兵が同僚の遺体の肉を食べたということはほとんど知られていなかった。 記者は今年8月、現地で戦争被害の究明と補償問題に取り組むガブリエル・ラク氏と、彼の運動を支援する「日本カトリック正義と平和協議会」所属の修道女、清水靖子さんらと1週間、かつて日本軍が立てこもった山間地に点在する奥地の7村を訪問した。雨期には川になるようなデコボコ道を四輪駆動車で分け入っての取材だった。インタビューした被害者や目撃者は約2000人。被害を申し立てている人たちのごく一部だ。 清水さんは今年5月、日本軍による虐殺と人肉食についての被害者側パプアニューギニア人の証言を採録した「海と魚と激戦区」を出版した。 記者が訪ねた村々では30~70人の村人が集まり、証言者は人々の輪の真ん中に座り、証言する。現地の標準語ビジン語の証言をラク氏が英語に通訳し、それを記録した。最初に訪れたのは北部の小都市ウエワクから車で約5時間のクンジギニ村だった。 戦争中20代後半だったマンピー・ワサさん(男性)は妹とともに、伏し目がちに、こう語った。 「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」 二人は兄が煮られていたという教会の広場で、この証言をした。 ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、 「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」 と語った。 「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」 というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。 だが、ある村ではレイプされたという女性が証言する段階になって、「村人に囲まれては話せない」と証言を辞退する場面もあった。 ラク氏は94年、日本のボランティア団体や研究者、弁護士らによって開催された「戦後補償国際フォーラム」に参加するため来日。日本軍の命令でパプア人約100人が虐殺されたティンブンケ事件(45年5月ごろ)を証言した。ラク氏の母親が事件に関連したレイプの被害者だった。
最新の投稿順 古い投稿順 1件中 1件 - 1件を表示 世界の株価指数、金利> 日経平均株価 「この悲惨な出来事は、わたしの… 岸信介理想二大政党政治へ 2024/10/13 21:29 「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」 バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。彼の周りを数十人の村民が囲み、聞き入っていた。 バラスさんが証言したのは、東部パプアニューギニアのセピック川流域のマラハオ村での集会だった。パプアの山間部の人たちは、半世紀前までカレンダーを気にしない暮らしをしていたため、正確な日付はわからないが、彼の母親が悲惨な死を遂げたのは、戦況などから1944年から45年にかけてだろう。 「家族が日本兵に切り殺されて飯ごうでゆでられ、あげくに食べられた」という証言は、バラスさんだけではなく複数の人から聞かされた。 42年3月以降、東部パプアニューギニアは日本兵とアメリカ・オーストラリア連合軍の戦場となった。日本軍は制海空権を失い、食料補給路を断たれて孤立。44年8月の「アイタぺの決戦」の敗退から1年後の敗戦まで、日本軍はトリセリ山系とプリンス・アレキサンダー山系の南側の山間部に立てこもり、食料を自給しながらの戦いを強いられた。東部ニューギニアに上陸した日本軍16万人中、帰還したのは1万人ほど。兵の消耗率は約94%にのぼった。日本軍によるパプアの人々の悲劇の大半は、この1年間に起こったという。 日本軍の帰還兵の証言に、極度の飢餓状態で日本兵が同僚の遺体の肉を食べたということはほとんど知られていなかった。 記者は今年8月、現地で戦争被害の究明と補償問題に取り組むガブリエル・ラク氏と、彼の運動を支援する「日本カトリック正義と平和協議会」所属の修道女、清水靖子さんらと1週間、かつて日本軍が立てこもった山間地に点在する奥地の7村を訪問した。雨期には川になるようなデコボコ道を四輪駆動車で分け入っての取材だった。インタビューした被害者や目撃者は約2000人。被害を申し立てている人たちのごく一部だ。 清水さんは今年5月、日本軍による虐殺と人肉食についての被害者側パプアニューギニア人の証言を採録した「海と魚と激戦区」を出版した。 記者が訪ねた村々では30~70人の村人が集まり、証言者は人々の輪の真ん中に座り、証言する。現地の標準語ビジン語の証言をラク氏が英語に通訳し、それを記録した。最初に訪れたのは北部の小都市ウエワクから車で約5時間のクンジギニ村だった。 戦争中20代後半だったマンピー・ワサさん(男性)は妹とともに、伏し目がちに、こう語った。 「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」 二人は兄が煮られていたという教会の広場で、この証言をした。 ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、 「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」 と語った。 「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」 というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。 だが、ある村ではレイプされたという女性が証言する段階になって、「村人に囲まれては話せない」と証言を辞退する場面もあった。 ラク氏は94年、日本のボランティア団体や研究者、弁護士らによって開催された「戦後補償国際フォーラム」に参加するため来日。日本軍の命令でパプア人約100人が虐殺されたティンブンケ事件(45年5月ごろ)を証言した。ラク氏の母親が事件に関連したレイプの被害者だった。
「この悲惨な出来事は、わたしの…
2024/10/13 21:29
「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」 バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。彼の周りを数十人の村民が囲み、聞き入っていた。 バラスさんが証言したのは、東部パプアニューギニアのセピック川流域のマラハオ村での集会だった。パプアの山間部の人たちは、半世紀前までカレンダーを気にしない暮らしをしていたため、正確な日付はわからないが、彼の母親が悲惨な死を遂げたのは、戦況などから1944年から45年にかけてだろう。 「家族が日本兵に切り殺されて飯ごうでゆでられ、あげくに食べられた」という証言は、バラスさんだけではなく複数の人から聞かされた。 42年3月以降、東部パプアニューギニアは日本兵とアメリカ・オーストラリア連合軍の戦場となった。日本軍は制海空権を失い、食料補給路を断たれて孤立。44年8月の「アイタぺの決戦」の敗退から1年後の敗戦まで、日本軍はトリセリ山系とプリンス・アレキサンダー山系の南側の山間部に立てこもり、食料を自給しながらの戦いを強いられた。東部ニューギニアに上陸した日本軍16万人中、帰還したのは1万人ほど。兵の消耗率は約94%にのぼった。日本軍によるパプアの人々の悲劇の大半は、この1年間に起こったという。 日本軍の帰還兵の証言に、極度の飢餓状態で日本兵が同僚の遺体の肉を食べたということはほとんど知られていなかった。 記者は今年8月、現地で戦争被害の究明と補償問題に取り組むガブリエル・ラク氏と、彼の運動を支援する「日本カトリック正義と平和協議会」所属の修道女、清水靖子さんらと1週間、かつて日本軍が立てこもった山間地に点在する奥地の7村を訪問した。雨期には川になるようなデコボコ道を四輪駆動車で分け入っての取材だった。インタビューした被害者や目撃者は約2000人。被害を申し立てている人たちのごく一部だ。 清水さんは今年5月、日本軍による虐殺と人肉食についての被害者側パプアニューギニア人の証言を採録した「海と魚と激戦区」を出版した。 記者が訪ねた村々では30~70人の村人が集まり、証言者は人々の輪の真ん中に座り、証言する。現地の標準語ビジン語の証言をラク氏が英語に通訳し、それを記録した。最初に訪れたのは北部の小都市ウエワクから車で約5時間のクンジギニ村だった。 戦争中20代後半だったマンピー・ワサさん(男性)は妹とともに、伏し目がちに、こう語った。 「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」 二人は兄が煮られていたという教会の広場で、この証言をした。 ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、 「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」 と語った。 「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」 というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。 だが、ある村ではレイプされたという女性が証言する段階になって、「村人に囲まれては話せない」と証言を辞退する場面もあった。 ラク氏は94年、日本のボランティア団体や研究者、弁護士らによって開催された「戦後補償国際フォーラム」に参加するため来日。日本軍の命令でパプア人約100人が虐殺されたティンブンケ事件(45年5月ごろ)を証言した。ラク氏の母親が事件に関連したレイプの被害者だった。